Archive

Apr 2007

研究室所属

On
by 卓 坂牛

毎年訪れる研究室所属の日である。希望者の選定をせざるを得ない。去年の定員は6人で約その倍の希望者がいた。今年は8人の希望者の中から5人を選ばなくてはならない。この代は2年生の時から教えているので製図は大体頭に入っている。そこで今年は作文を書いてもらった。研究室で何をしたいかそして将来何をしたいかである。1時間で800字。出来上がった作文からは皆の懸命な態度はよく伝わる。しかし正直言うと今ひとつパンチが不足している。これは文章表現能力の問題なのか、頭の中がそもそも空疎なのか定かではない。しかしいずれにしてもその中から3人落とすのは忍びない。こうなると本当に微差を問題にするしかないが、それでも自分の中での基準をもうけその中で正等に評価した。結果は結果である。

最近の3冊

On
by 卓 坂牛

4月9日
3月に行われた信州大学の卒業式で学長がソローの『森の生活』の話をしていたそうだ。そんなわけで岩波文庫になっているこの本を読んでみた。ウォールデン湖畔に住み、人里はなれ、本当に自分にとって価値あると思われることを考え行動しながら生きていく話である。こうした生活は誰しも憧れるものだ。しかしあまりにも美談である。この手の気分は若いころから年に一回は頭をもたげるものだ。しかし知らぬ間に消えていく。どうしたってそこには踏み込めない現実というものがある。しかしそう括ってしまうとこの話から何も得られない。そこでこの話を少し別の角度から考えると「何が楽しくて生きているのか」ということが問われていることに気付く。もう少し具体的に発展させれば、何を報酬に生きることが幸せなのかというような問題であろう。というような話を先日友人にしたら「それは人の評価でしょう。評価されずに生きていくことができる人はよほど強靭な精神の持ち主だ」と言っていたが僕も少なからず同感である。
伊藤真『会社コンプライアンス』講談社現代新書2007が九段下の本屋に平積みになっていたので読んでみた。昨今はやりのこの言葉だが、内容としては新聞記事を上回る新鮮な話題は少ない。ただコンプライアンスの先にあるものは「他者への共感を忘れずにひとりひとりが主体的に生きること」という言葉は妙に納得してしまった。ルールを守るということは人と生きるということなのだと思う。長野駅前平安堂で先日目に留まっていた今村仁司+今村真介『儀礼のオントロギー』講談社2007が日曜日の毎日の書評に載っていた。評者は藤森照信だったような気がする。そこで今日平安堂を通ったので買ってティールームでぺらぺらめくる。儀礼は人間社会に既に存在するもの、構造的に不可欠なものとして儀礼を軸にした政治論を展開している。面白そうである。

フォーティー

On
by 卓 坂牛

春のいい天気。今村創平さん、a+uの津久井さん、建築ジャーナルの山崎さん、学芸出版の井口さん、京都工芸繊維大学の岡田栄造さんらと日仏会館でお会いする。なんとわれわれの監訳した『言葉と建築』の著者エイドリアン・フォーティーが来日するとのことである。井口さんはバートレット校で実際にエイドリアンに習っていたとのことである。彼女の関係で台湾に招待されるエイドリアンに日本まで足を伸ばしてもらうことにしたようである。日本では、京都工繊で一回東大で一回レクチャをしてもらう予定。ちなみに今のところ東大での予定は6月15日(金)の夕方のようだ。レクチャー前に少し『言葉と建築』を含めて彼の紹介などできればと思っている。しかし僕はその日が都合悪くなりそうであり、その場合はa0メンバーにお願いしたいところ。滞在中チャンスを見てレクチャーとは別に少しお話できれば楽しい。10日ほど日本に滞在して台湾に行くとのことである。

sas杯

On
by 卓 坂牛

中高の友がゴルフの会をやっている。その昔高校時代スキーにいっしょに行って騒いでいた仲間である。その会の名は名プレーヤーであり元祖幹事でもある人間の名をとりsas杯という。彼はその昔テニスで名を馳せた男である。関東大会で準優勝までした。決勝戦の前の日までわれわれと一緒にスキーをしていて、ちょっと行ってくるわと決勝当日出かけていって、その日の夜に「負けちゃった」と言ってスキー場に戻ってきたツワモノである。僕は今のところプレイでは参加せず、終わったあとの会食には行かせてもらっている。6組もとってやっている上に夜のみ参加組みも多くさながら同窓会のようである。職業分野は広告、銀行、建設、商社、医療、その他もろもろいや多種多彩である。この歳になると男も女も(働いている人は)それ相応のポジションにいるのでここでは書けないような話がごろごろあって面白い。そしてここが勝負なのかもう終わっているのか知らないが皆あと10年余りのサラリーマン生活の身のこなしかたに対して戦々恐々としている。

環世界

On
by 卓 坂牛

ユクスキュル著『生物から見た世界』岩波文庫2005を読み始めた。客観的科学的な対象としての身の回りを環境と呼び、主観的な身の回りを還世界と呼びその差を重要視しながら生き物の世界像を探るという本である。動物が行動を起すための要素は自然に組み込まれている反応の因果関係によるのであり、実体の把握から目的に対する効率的な行動の選択によるものではない。つまりはそれぞれの個に組み込まれた身の回りからの状況選択の篩がその個の行動を決定していくという事実が述べられている。それはある意味種によって身の回りが異なることになりそれをユクスキュルは環世界と述べようとしている(未だ読みはじめなので誤読かもしれないが)。
この話を人間に敷衍すれば民族によってあるいは人種によって、環世界は異なる。それは生物学的差異が環世界の差を生みだしているとも言えるが、それ以上に文化的な差が環世界の差を生み出していると思われる。

新聞も建築も同じかな

On
by 卓 坂牛

久しぶりに友人mと会えた。朝日のデスクをやっている彼は僕の中学からの親友でありサッカー部で同じ釜の飯を6年間食った仲である。お互い年度末の忙しさが峠を越えちょっと会うかということになった。しかしあいつが飯おうと言うと僕は長野、こちらが食おと言うとあいつは徹夜という状態が続いた。この歳になってもブンヤというのは社を空けられないようだ。が、今日はなんとか夜遅くに二人の時間が空いた。荒木町で飯を食ってジャズバーに行く。そこでスタッフを呼んでまた一杯。新聞社のデスクと言うのはいかにして部下に面白そうな記事を書かせられるかが勝負だそうだ。この辺が面白そうだというその登れそうな山の登り口と頂上を示してやるのが仕事だとか。なるほどそれは僕の仕事とよく似ている。与件をもとに目指すべき建築のおぼろげな姿とその手の付け所を示してやるのが僕の仕事である。ホー、業界が異なれど、世代に求められる役割というのは似ているのかもしれない。建築も新聞も何かあやふや姿形を見えるものにするという作業のようだ。ジャズバーでサッチモを聞いていい気分で帰宅。

ゼミ方式

On
by 卓 坂牛

今年のゼミの本を考えている。ゼミと言ったって週一回である。普通に考えれば前期後期あわせて30回。去年までのやり方なら一回に一冊の本を輪読するから30冊の本を読むということになる。しかし、、、、そんなことではいけないのではと悩む。少しやり方を変えたい。基本的にはm1が主体となるゼミ。まあ入りたければ4年やm2も入っていいのだが、彼らは後期は制作で全部のゼミに出ることは難しい。だから前期だけは参加と考えると、4年で僕の部屋に来て卒業するまでに、60冊の本を読む計算になる。本嫌いの現代っ子だから、ゼミ以外でまともな本を読むとは思えない。となると3年間に60冊読んで卒業ということになる。やはり少なすぎる。せめて1年間に50冊は読ませたい。いや読まないと意匠論なんて身に付かない。そのためにはどうしたらよいのだろうか?やはり輪読は1冊としてもそれに密接に関連する本を提示しそれも読ませ適宜質問すると言うのはどうだろうか?上野千鶴子方式。質問して答えられなければその場で退場。そうするとゼミでは一回一冊だが、読むのは2冊。それなら3年間で120冊読むことになる。これならまだ何とかなる?そう、そのやる気のある学生だけを採るようにしよう。その気がない人は他の研究室が向いている。

4月なのに零下

On
by 卓 坂牛

この寒さは応える。長野の何が嫌いと言ってこの寒さは大嫌いである。寒いのはイコール不幸である。ケビンリンチは都市の中で迷子になるのは不幸だと言ったが寒い方がよほど不幸だと僕は思う。迷子など誰かに聞けば解決する問題である、しかるに寒いのは誰かにすがって解消されるわけではない。ただただそこはかとなく物悲しく、耐え難いことなのである。下手すれば死にいたることだってある。昔長野で仕事をしたときにクライアントの偉い方が長野は寒くて嫌いだと言っていた。そのころはたまに来て夜遅くなれば暖かいホテルに泊まりいい気分になっていてこういう声をまともに理解してはいなかったが、片足を長野におく身となって初めてこうした言葉の意味がヨーク分かる。本当に寒い。

受胎告知

On
by 卓 坂牛

4月3日
急に宗教づいている。『旧約聖書を知っていますか』の次に『新約聖書を知っていますか』を読み始めた。すると最初に出てくる話題は受胎告知なのである。おお、そうかそうかそれは知っている。とにかく知らない話ばかりなので知っている話題は嬉しい。先日国立博物館で見てきたぞ。そのうえ一昨日の日曜美術館でも壇ふみが久しぶりに派手な服着て説明していた。あれだあれだ。しかし読み進めると作者はダ・ヴィンチではない「フラ・アンジェリコって誰?」と叫ぶとかみさんが、「その受胎告知が一番美しい」とのたまう。「見たことあるの?」と聞くと「確かある」うーなんだか知らぬところでいろいろ見ているのだこの人は。知識をひけらかさないが厚みがあるなあ。そこへ行くとこの僕なんか、かなりペダンティックである。しかし世の中には10分前に得た知識をさも10年前から知っているかのように騒ぎ立てる人もおりそういう輩よりかは奥ゆかしいと思うのだが。
さてこのフラ・アンジェリコの受胎告知はネットで見ると確かにダ・ヴィンチのそれに比べて遥かに合点がいく。どこが?マリアの顔が。壇ふみも言っていたが、ダ・ヴィンチの描くマリアは私には身に覚えがないのにという驚きがない。一方アンジェリコのマリアの顔には「えっ!どうして」という怪訝な表情が描かれている。http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ed/Fra_Angelico_043.jpg

宗教

On
by 卓 坂牛

阿刀田高の『コーランを知っていますか』を読むとコーランと旧約聖書や新約聖書のつながりがなんとなく分かってくる。たとえば預言者。コーランには旧約聖書や新約聖書に登場する預言者イブラヒーム(アブラハム)・ムーサー(モーゼ)・イーサー(イエス)たちは頻繁に登場するそうだ。そしてその最後を飾るのがマホメット。しかしそうなるとコーランを知るにはまず旧約聖書から理解しなければならないわけである。そこで同じ著者の『旧約聖書を知っていますか』を読んでみた。なるほどアブラハムやモーゼの英雄伝説が登場する。深い話だ。それにしても昨日まで読んでいたバルカン半島しかり本日の舞台であるパレスチナしかり、宗教的な差異がこれだけ平面的に連続していればいざこざが絶えないのも無理は無い。