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Jan 2011

直観は最後に使う

On
by 卓 坂牛

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なぜか僕と娘の名前のまわりにぶつぶつが
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家を出ると東京nobody状態である
2011年元旦。9時起床。家族で朝食。雑煮を食す。おせちなるものは黒豆と栗きんとんだけ。昼ころ娘が賀状をとってくる。お互い様だが義理賀状が多い。義理でももらえばどこで何しているかくらい分かるのでそれなりの意味はある。一通り見てから初詣に出かける。近所の須賀神社。毎年拝むことは一に健康、二に建築、三が家族で変わらない。甘酒をいただき帰る途中スタバコーヒー買って帰宅後天皇杯をテレビ観戦。鹿島強し。サッカー見ながら読みかけのゲルト・ギーゲレンツァー(Gigerenzer, G, 2007)『なぜ直観のほうが上手くいくのか―無意識の知性が決めている』インターシフト2010を読む。直観は論理的思考の対局をいくいい加減な思いつきと思われがちだが、潜在的な無意識が作り上げた知性であり信用できるもの。というのが著者の主張であるが僕はかなり前からずーっとそう思っていたのでここに書かれていることにさほど衝撃は受ない。
ただこれを読みながら人を直観的タイプと論理的タイプに2分するだけでは片手落ちだろうと思い始めた。たとえば自分の人生の岐路に立たされた時3つのタイプがいる。一つは詰将棋のごとく徹底して論理的にシミュレーションするタイプ(論理派)。二つ目はケーススタディはするが最後は直観で決めるタイプ(直観派)。三つ目はなんとなく決めるタイプ(慣習派)。この本ではこの慣習派もなんとなく論理派より正しいかのごとく描かれているようなのだがそれは誤解してはいけない。
直観的が論理的に勝るためには最初にかなりのケーススタディが必要である。それなしのなんとなく決める思考は直観的ではなく慣習的なだけである
なんて書いたのは僕の研究室で直観的と僕が思う学生を思い返してみると、彼らは結構すごい量の選択肢を自分の前に用意してそれから「えぃっ」と決定を下しているように思うからである。
振り返って自分の人生における決定はと言うと実は少々心もとない。もちろんすべては常に最後は直観的である。しかしその直観決定を行うまでに膨大なケーススタディをしたのだろうか???大学受験(象の大竹さんと富田さんの言葉を信じ、あるいは裏切り篠原一男のもとへ)留学(うーん篠原の逆のところに行こうと数ある大学の中からムーアを目指した)、就職(唯一あまりスタディしなかったのがここかもしれない)、結婚(これは時間切れ)退職(これはケーススタディのしようがない)、再就職(これもあまりケーススタディのしようがない)、退職、再就職、、、、、、というわけでこうやってみると表面上ケーススタディがままならぬ場合が多いようにも見えるが実は違う。本当はそういうイベントが起こる前に選択肢がぶら下がっているのである。そのもやもやした時点で実は様々なケーススタディが行われ直観的決定が行われているのである。毎年いろいろな場面でそんな選択肢に出くわすわけでその直観が狂わぬように潜在意識のデーターベースが壊れないように祈っておきたい。