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Aug 2011

創造的破壊

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by 卓 坂牛

タイラーコーエン『創造的破壊』作品社(2002)2011を読む。グローバリゼーションがもたらす文化的破壊を一般には否定的に見る風潮がある。それは世界が画一化されるという理由からである。しかし著者が示すようにこれまで世界は局地的なグローバリゼーションによって文化の多様性を作ってきた。それはそうである。鎖国していた日本が開国したことで日本は多様な文化を生みだした。選択肢を広げたともいえる。そして日本文化がすたれたかと言えばすたれた面もあっただろうが、豊かになった面も確実にある。文化的帝国主義があるからナショナルな文化意識は高まるわけである。これは八束さんが言っていたことでもある。
僕らは現在のグーロバリゼーションにかつてとは異なる脅威を感じている。それは経済に裏打ちされた全世界規模を持っているからである。しかしそれは正しい判断なのか?これも文化の多様性を生みだす一つのカウンターエレメントとしてとらえてよいのではないかと著者は主張する。
著者の主張はにわかに賛成も反対もできないのだが、世界中でマックを見ながらもそれで世界が覆われることは無い、あるいはそうしたマックに常に批判的な人間が登場してくることも世界的原理であろうと感じている。そうなるとこうしたグローバリゼーションの力学の持つ多様性の創出力に目をつぶり闇雲にローカリティ―の肩を持つのもおかしな話だろうと言う気にはなる。
それにしてもこういう話を語る著者は一級の経済学者であるということが素晴らしい。文化を語れる経済学者が日本にはあまりいない。

ドライミストは辻本先生が開発したんだ!!

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by 卓 坂牛

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●8月10日朝日新聞朝刊
あれ、秋葉原や六本木ヒルズでひんやり効果を生み出しているドライミストって、辻本先生が開発していたとは知りませんでした!!同じ学校で頻繁に顔合わせている先生のやっていることを知らないもんです。お互い何やっているかお伝えする会なんていうのをやった方がいいかも。辻本先生の多彩さに脱帽。尊敬の念。
辻本先生言うように家庭用ドライミストなんて開発されたら嬉しいですね。

高圧洗浄機の威力

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by 卓 坂牛

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高圧洗浄機を手に入れたのでベランダの床、壁、プランターを徹底掃除。しかしこのマンションは30年の年季もの。壁タイルは磁器タイルで汚れが落ちるが、どうも床は滑らないようにざらざらの陶器製が貼られているように見える。今ならこんなタイルを床には使わないだろう。吸水率が高いので汚れがすでに30年分染み込んでいて目地周りの汚れはもうとれない。風呂の水垢は浴槽に染みこんでいるように見えたがこれはとれた。すごい威力である。これから水垢のクレームはこれを買うことを勧めよう。
午後事務所でスケッチ。夕方研究室でオーストラリアハウスの議論。6時から延々4時間。お腹が減ったので終了。明日から節電の為入校禁止。家に持ち帰るものが多い。
外国の本に載るホタルイカのゲラが届くきれいなレイアウトである。

21世紀の社会とは?

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by 卓 坂牛

午前中事務所でスケッチ。午後打ち合わせ。夕方大学で10月アートフェスタのプロジェクト打ち合わせ。夜研究室で読みかけのジェイン・ジェイコブズ『都市の原理』SD選書(1969)2011を読む。有名な『アメリカ大都市の死と生』の8年前に書かれた本書は未来の都市が当時の都市計画家たちが描いていた単純で合理的な姿にはならないことを主張したものである。出版から40年経ち少なくとも東京はそうなっていない。いや世界中そんな風になった都市は人口都市のキャンベラ、チャンディガール、ブラジリアなどである。そして少なくともそんな都市に僕は全く魅力を感じない。
続いて落合恵美子『21世紀家族へ』ゆうひかく選書1994を読む。両方とも篠原聡子さんの推薦書である。著者は僕より一つ上の京大教授。家族にまつわる様々な概念を僕らは古来からの既成のもののように感じているがそうではないということを改めて実証してくれている。
たとえば戦後家族体制の変化として女性が働かず主婦をやるようになり、画一的に2~3人の子供を生むようになることが示されている。1952年に結婚した母がまさにこれを体現した。そしてそんな傾向は21世紀にはかなり変化している。
歴史にたらは禁物だが母が今ころ生まれていたら全然違う人生を歩んだろうと思う。まあそれが幸福なのか不幸なのかは分からないけれど。
20世紀後半にかけて家族とそれを包む環の双方はドラスティックに変化している。21世紀とはどんな時代になるのだろうか?

スーパージュリー

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by 卓 坂牛

国士舘大学のスーパージュリーに中村、大西、百田さんらとともにゲストで呼ばれる。これに常勤の国広さん、南さん、非常勤の丸山さん前田さん木島さんらが加わりなんやかんやで10人以上で講評する会である。
朝10時にスタートして先ず2年生。全員(恐らく50くらい)の作品を並べて15分くらいかけてまず発表者を選ぶための投票をする。それは教員とゲストだけではなく学生も行う。そして6名が発表し講評する。
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○二年の課題はアトリエ付き住宅
昼食をはさみ午後は3年生。同様に全員の作品をならべ(3年は選択なので作品数は20くらいにへる)発表者6名を選び発表講評。
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○三年生の課題は幼稚園
最後は修士。修士ともなるとさすがに作品が充実してくるので発表は全員である。
発表した後に再度投票して順位を決定する予定だったようだがそれがで来たのは修士だけ。講評者が多いので時間管理が難しいようである。
先ず全員の作品を並べ、学生も投票させるというのがよくできている。学生のモーチベーションがあがる。これはどこかで取り入れたいことでもある。
朝から夕方までやってとても優れた案に二つ三つ出会い驚いた。何処の大学でもやる子はやるということだ。もちろん指導者の力も大きいのだと思う。それにしても一昨日の理科大の講評会でも思ったが模型に比べて図面が余りに稚拙なのはどうしたものか。とりあえず今のところ建築は図面で表現するものだからこれはきちんと描かないとどうしようもない。

ろばの道、人間の道

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by 卓 坂牛

研究室でル・コルビュジエの『ユルバニスム』(1924)1967SD選書を読む。「ろばの道人間の道」という有名なフレーズがある。ろばは道草食って気紛れだからまっすぐ進まず人間は目的に従ってまっすぐ進む。これからの都市は人間のための都市であり、よって道は直線と直角で構成せよいという主張である。コルの近代的理性人という側面がここにある。しかし同じの本の中に「感情は溢れる」という章があり民族固有の感情とは意志を越えて溢れだし、それはそれで絶対だとする。
カントは人間の理性の力とその限界を見定めようとした人であり、人間の限界を超えたところに崇高と言う名の美的なものを定めた。そうである人間の理性をアプリオリに設定すると言う近代的な態度は必然的にその超越を将来する。カント、コルビュジエetc.
院試が終わり夕刻東工大に行き坂本、安田、奥山先生らにお会いし供花のお礼をする。夕食をともにしお話しながらふと坂本先生の詩学について思う。これも結局そうなのかもしれない。理性の限界を越えた所のものである。精巧な概念操作があるからこそそれでは表現しきれない詩学が発生する。つまり詩学というものが方法論として意識されるためには理性に基づく精巧な概念操作があるわけで決してその逆ではない。詩人と言う人たちも実はそうなのではないだろうか?明快なロジックで表現しきれないストレスがついに詩という形態を招来する。勝手な想像だが。

脱近代か超近代か??

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by 卓 坂牛

朝から大学院の院試。試験開始から研究室に。午前中、西部邁、佐伯啓思編『危機の思想』NTT出版2011を読む。今震災について9人の識者の論考が載る。概ね震災を契機に技術(近代)の無力を見直し、技術の危険と危機を再認し(脱近代)、復興、地方のあり方をどう考え、その際グローバリゼーションとどう手を切るか考えるものである。ここで脱近代とは近代の技術偏重の思想から脱すると言うことである。それは下手をすると不便になるかもしれないし、経済停滞になるかもしれないしそんなリスクも踏まえた思想である。
僕はしかしどれもこれもその通りだと思う。殆ど共感する。これが日本の識者のすべてだとは思わないが、恐らく大半の人はそう思っている。しかし一方で経済界、政界の多くは真逆のことを考えている。脱近代ではなく、今回の震災を技術への挑戦と受け止めこれを乗り越える方法を模索する超近代の思想の持ち主ばかりなのである。その方が経済が活性化するからである。そしてそれを後押しするのが経済産業省である。彼らの役目であるから仕方ない。しかしそう言っているとこの本の識者のような思想にはたどり着かない。
この本の中には通産省OBで京大教員である中野剛志さんのような人もいる。彼など、「単に戻すだけの復興では問題の克服にはならない」という今回の震災の特徴のように言われる言葉に痛烈な批判を浴びせる。この言葉には被災者への思いやりのかけらもないとする。被災者を見捨て孤独に貶めているという。重要なのは彼らの記憶であり、彼らの意志であるとする。僕はこれまでの復興への態度としてこれほど正鵠を射ている言葉を知らない。こんな言葉が元官僚から出てくるのである。経産省という役所の舵を誰かが修正しないことには日本の国は再び不必要な超近代への努力に駆り立てられることになる。こんなOBの力に期待したいところである。
夜3年生の製図の合評会。TNAの武井さんにゲストとして来ていただいた。彼の巧みなコンセプトメークとその形の作り方を堪能。富岡の優秀案も説明いただく。うーんなるほど。学生の発表はなかなか面白いものが数点あった。最優秀賞は秀逸である。形の作り方もさることながら、プライバシーが徐々に変化するシェアハウスの提案が斬新。これを見ながらとある著名な社会学者が奥さんとその彼氏の3人で住んでいるのを思い出した。そんな時代にこういう集住はリアルかもしれない。

すべての原発の耐震性能を開示せよ

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by 卓 坂牛

研究室で夏休みのスケジュールを助手の田谷君と決めて行く。ワークショップ、トークイン、新宿のアートフェスタ、オーストラリアコンペ、卒論、卒計、盛り沢山。今夏の理科大は2週間半節電の為入校禁止なのでその間のゼミは大変だ。
病院で親父の様子を見る。トイレに杖をつきながら行けるようになっている。元気で結構。先日吉本隆明の『老いの幸福論』を買ってきたら(親父は吉本と同年)その内容に共鳴していた。人生意志が2割で運が8割だそうだ。運命は自分では決められないと達観していた。
親父が寝ている間「科学」編集部編『原発と震災―この国に建てる場所はあるのか』岩波書店2011を読んでいて目から鱗。原発の耐震性能は一般の3倍と言われる。一般の設計は「100ガルで損傷せず、400ガルで倒壊せず」なのだが、例えば柏崎刈羽では1号機の原子炉建屋底面では一次設計に相当する値が273ガルだったそうだ(確かに約3倍)。そして地震時の観測値は680ガルである。柏崎でこの値である。たしか東日本では1000ガルを観測したところもあったはずである。となるとこの3倍の想定値とはどれだけの意味があるのかと思わざるを得ない。しかし何よりもそうであるならば、現在稼働中の原発の耐震設計は一体想定値いくつなのか??浜岡は既に停止の方向にあるが、2005年に1000ガルに耐えられる補強工事に着手していたそうである(それが完成しているかどうかは知らないが)。福島は津波と言う想定外で破損したと片付けられているが、本当なのだろうか?実は地震だけでも致命的な打撃を受けていたのではないだろうか?それも福島の耐震性能を開示すれば明らかなことである。即刻すべての原発の耐震性能を開示すべきではなかろうか?そういうことを建築学会は指摘すべきである。建築の安全性を謳うなら今こそ言うべき時である。

鎌倉の古い家

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by 卓 坂牛

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鎌倉から江の電で少し行ったところにある古建築を見に行く。100年経っている見事な和建築。これに何かを足してしてパブリックな場所を作りたいというのがクライアントのおぼろげな希望。わくわくするような話である。昼食は海岸通りの食堂で鯵の刺身といわしを焼いてもらう。
行き帰りの車中広瀬隆『東京に原発を』集英社1986を読む。チェルノブイリ爆発の年にこの本は出版されているがその年に僕は大学院を修了した。因みにスリーマイル事故の年に僕は大学に入学している。この本を読みながらいかにそうした事故の他にも世界中で多くの原発事故が発生しているかを知る。それらの多くは自分の怠慢もあろうが一般の日本人には届かないように規制がかけられているものもあったそうだ。
これを読むと以前読んだいくつかの本同様、使い終わった高レベル放射性廃棄物の処分方法が無いと言う問題にたどり着く。加えて健全と考えられている原発からも昔の公害工場同様に毒物が垂れ流しになっているのではないかという疑いが頭をもたげる。
イタイイタイ病にしても水俣病にしても国を含めた被告たちは数十年否定してきた挙句の果てに垂れ流しを認めざるを得なくなった。今後原発周辺で白血病や癌の発症率の上昇が明らかになりその挙句に垂れ流しを認めざるを得なくなるようなことは無いと言い切れるのだろうか?技術に危険はつきものであるから原発も仕方ないと言うような理屈をまことしやかに言う人もいるがそういう人の頭には原発のリスク規模が頭に入っていない。飛行機が一機落ちるのとはわけが違う。技術と言う一語の中に何でもかんでも入れるのは乱暴である。
そんなことを考えていると一時的な火力発電所の地球環境の汚染(火力に代わる創発エネルギーが登場することへの期待を含め)と原発の危険性のどちらを排除するかは明らかなような気がしてならない。

お得なアメリカ留学

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by 卓 坂牛

『米国製エリートは本当にすごいのか』の最後に日本人の留学生減少について書かれていた。そして若者の内向き化をその原因とする一般論に異を唱え、日本の少子化、貧困化、そして成熟化を挙げていた。つまり日本の成熟は昔ほどのアメリカ(ヨーロッパも含め)への憧憬を生まなくなったというのである。確かにそうかもしれない。こう言うと軽薄に聞こえるかもしれないが、UCLAに行きたかった理由の一部にポパイ創刊号に掲載された優雅なキャンパスと最新のファッショに身をつつんだモデルまがいの学生の姿が無かったと言ったらウソになる。
しかしここにも書かれているがアメリカ留学は今ならお得である。1ドル250円だった僕の時代に比べ今は3分の1。当時1年間で恐らくトータル450万くらいかかった費用が今なら150万くらいなのかもしれない。嘘みたいな話である。もう一回行きたいくらいである。日本は成熟したかもしれないが一度死ぬほど勉強して異国の強敵とあいまみえる意味で留学はやはりお勧めである。加えて言えば私大などが用意している学部時代の1年間の単位認定交換留学は勧めない。戻って留年する逃げ場があるからである。逃げ場なくがっつり単位をとらなければならない大学院への留学が理想的である。