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Dec 2011

初めて野田に行きました

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by 卓 坂牛

博士論文の審査で理工学部の建築学科に初めて行った。東武野田線の運河駅。いやー寒い。川向先生に聞いたら東京よりは3度くらい低いと思うと言われた。野田は初見先生や川向先生に加えて新任の岩岡さんや安原さんがいてなかなか充実した教授陣である。工学部からは宇野先生と山名先生と伊藤先生そして僕が行った。論文対象はコルビュジエの土着性。土着性という言葉の定義を巡って前回同様になかなか議論が収束しない。もう一息なのだが。
ここの建築学科には廊下と一体化したプレゼンルームのような場所があり、そこに3年生がレーザーカッターを使って作った木製の不思議な形態が並んでいた。800万のカッターを借りて作ったそうである。なかなかこれは凄い。大学に申請して買う方針だそうで羨ましい。

大掃除&忘年会

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by 卓 坂牛


事務所大掃除。毎年とんでもない量のカタログとサンプルピースを廃棄する。でも今年は大分少ない。皆カタログを取り寄せなくなったからだろうか?カタログもペーパーレス化してきた。床はスクレーパーをつけてスポンジでこする。そしてワックス。すっかりきれいになりました。夜は荒木町の秘密の個室で忘年会。この場所最近見つけたがとある割烹の2階で10名でも貸し切りにしてくれる。時間制限無いからゆっくりできる。今年も(終わってないけれど)皆さんお疲れ様。

宮台さんの言うことはちょっとどうだろうか?

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by 卓 坂牛

誰かが宮台真司・東浩紀『父として考える』NHK出版2010が面白いとtweetしていたので読んでみた。
うーんこれを読むとなんだかとても居心地の悪い気分になってきた。彼らの言うことがある意味分かるし僕も同じことを言いそうなのだが、ちょっと引いて見ると、その上から目線が気分悪い。つまり半分自己嫌悪。くわえて全く理解不能な部分もある。
特に宮台さんの発言は気になるところが多い。彼は同じ年だから子供のころの生活環境の話はよーく分かる。でもそういう環境に育ったからこそ今の自分があるという自分優位を誇示するのはちょっとどうかしら?そんなの同世代ならみなそうなのであなただけが特別では無い。たまたま最近子供ができたからと言って周囲の若い親たちを上から目線で勘違い扱いするのはあなたが勘違いである。
加えて麻布に行きながら受験勉強を否定しても説得力無い(因みに僕は受験勉強賛成派である)。そして次のような発言にはもう自己嫌悪を通り越してついていけない。
「・・・子どもの頭を良くしたいと思ったり、喧嘩に強く育てたいと思うのはわかります。でもだったら頭のいい人と仲良くなる力や喧嘩に強いひとと仲良くする力のほうがずっと重要です。普通、そうしたことは誰もがわきまえるべき常識です」
僕はこんなことが常識だとはあまり思わないなあ。

町医者礼賛

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by 卓 坂牛

今日は朝近くのかかりつけの医院で区のがん検診。バリウム飲んで胃のレントゲン、肺のレントゲン。撮り終わっておよそ1分後、先生の前にあるモニターを一緒に見る。この速さは圧巻である。肺は特に問題なし。胃は襞がきれいに見えて腫瘍のようなものはないが少々変形しているので夜遅くに食事しないことと注意された。それにしても撮って直後に絵が出てくるのはなかなかすごい。20分で全てが終わった。
最近はちょっと大きな病院は分業制。どこか悪いと1階で血と尿とって2階でレントゲン撮って3階の担当医のところで待つこと30分。全てのデーターがそろうと先生に呼ばれ所見を言い渡される。それはそれで合理的だが大病院のそんな先生たちは自分で血もとれなきゃ、レントゲンも使えず、聴診器は飾りで音も聞き取れないと誰かが言っていた。本当かもと今日の町医者を見ながら思った。なんでもできる町医者は素晴らしい。
一昨年信大時代にスイスの建築家を呼んでシンポジウムをした時彼は自らを町医者のような建築家と呼んでいた。なるほどそういう万能選手で町の人に慕われるのが医者や建築家のあるべき姿かもしれない。

建築は設計者とクライアントの運命的出会いが作るもの

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by 卓 坂牛

ジムに行ってヨガしてからチャリで国立近代美術館へ行きオルジャッティ展を見る。http://ofda.jp/column/とてもよかった。帰りは半蔵門近くのスタバで休憩。
そこで鈴木志郎康のエッセイ集である『結局、極私的ラディカリズムなんだ―鈴木志郎康表現論エッセイ集』2011をマンゴジェラードを飲みながら眺める。その中にこんなことが書かれている。
鈴木自身の撮っているような映画は個人映画と呼ばれ、映画館でやっているような営利目的のものとは少々異なり自叙伝のような意味がある。その個人映画について彼はこう言う。個人映画は商業主義的ベースから外れるので作者が思いのままに表現を実現できるので見た人から理解されないことも起こる。すると独りよがりとか自慰的だと非難される。しかしたとえそうであれこれは人間の表現であり、こうした映像コミュニケーションの変化が個と個の関係の在り方を変えていく。と言う。そしてなにより大事なのは自分の表現を何処まで思いのままにやりきるれるかということだと締めくくる。
詩人で映画作家の鈴木志郎康は篠原一男の某住宅のクライアントである。僕は一度訪れたことがあり、鈴木の家としてぴったりだとその昔感じた。建築と映像表現はもちろん次元が異なるし、まして個人映画はそれこそ自叙伝のようなものである。でも鈴木の上の言葉はあたかもクライアント鈴木が設計者篠原に言ったかのように錯覚する。つまりあの家はまさに篠原の表現を思いのままにやりきったものと見えるからだ。
建築は設計者とクライアントの運命的出会いが作るものでもある。

信大がんばれ

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by 卓 坂牛


信州大学に残した修士2年生のゼミを東京でやった。彼らは僕の後任が決まっていないので心理学の先生や歴史の先生にお願いして面倒を見てもらっている。それなので修士設計をしたいという意志とは裏腹に、それぞれの研究室でのそれなりの論文を書くこととなり設計にはあまり力が入らない結果になっているようだ。しかし彼らは皆設計ができる学生なので少々残念ではある。残り1カ月だが是非頑張って欲しい。
その後信大2年生の住宅課題の講評会を行った。学内で行う講評会に飽き足らず僕に見て欲しいと言う連絡をもらったので東京に来るように促した。そうしたら10人以上の学生がやってきた。結構眼から鱗。教師冥利に尽きる。理科大ではゼミをやったって来ない学生が沢山いるのにこれだけ教えられることに飢えている学生がいると言うのが嬉しいい。
1人15分くらいかけて見て上げた。僕がいなくなってひどいことになっているのかなと悲観的に予測していたのだが、そうでもない。僕ができないようなことを誰かが教えているのだろうか?住宅の公共性をプログラムしている学生が多くいた。誰が教えたのか分からないが嬉しいことである。
終わって2年生+坂牛研のOBたちと九段下で飲んだ。僕がいるから信大に来たという2年生もいるようで、そう言う学生には申し訳ないと思った。でも僕の後任もくるだろうからいつまでもあきらめず建築を好きで続けて欲しいと心から思う。

ロース装飾論の2重性

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by 卓 坂牛

田中純によるロースの装飾論(『装飾と罪悪』)の解釈に納得。
田中のロース解釈はフロイトの精神分析と重ね合わせられるその理路はこうである。
ロースは装飾の起源は十字であるとする。十字とは横たわる女性とそれに交わる垂直の男性でありそれは性衝動の代理物である。言い換えると装飾とは性の代理物への崇拝すなわちフェティシズムである。一方性衝動とは性器の交わりでありそのシンボルはペニスである。ペニスへの崇拝が一つのフェティシズムである。ところがこの崇拝している対象が失われて行くと言うのがフロイトの性理論である。男の子が母親に失われたペニスを見出だし、自らが虚勢される恐怖にかられる。
フェティッシュな装飾に満ちた建築が虚勢されるとプレーンな箱となる。これは虚勢された男性器であり女性器そのものである。この虚勢状態の代替物が下着であったりハイヒールであったりする。それがまた次なる代理崇拝物としてフェティシズムの対象となる。これを建築で作ったのがワーグナーである。郵便局の外装石を取り付けるステンレスボルトが虚勢されたプレーンな箱に敢えて取り付けられた記号として装飾の代替物となっているというわけである。
さてこう考えるとロースの装飾論とはプレーンな箱に取り付けられた余剰物否定(ペニスの否定)という側面と装飾で満ちた彫刻物から表面を綺麗にスクレープして残った面への溺愛(去勢した女性器崇拝)という二つの側面を宿していることになる。
トラディショナルな何かを虚勢してその代替物へ関心の方向を転換させる、あるいは衝撃的にそちらを向かざるを得ないような状態にしてしまう。これがフェティシズムの技法である。これを性衝動と重ね合わせながら行うことができた時エロティシズムが見えてくる。

ノーテーション再考

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by 卓 坂牛

先日ノーテーションについて記すとある人が10+1の#3がノーテーションとカルトグラフィーの特集であることを教えてくれた。そんなことはすっかり忘れていた。古本を取り寄せ巻頭の八束さんの「現代建築におけるノーテーションの冒険―見えない建築へ」を読んでみた。時間系を取り込んだローレンス・ハルプリンの広場の設計がダンサーである妻のコレオグラフィーのノーテーションに影響を受けた例。磯崎さんがお祭り広場の人々への応答としての音や光をオーケストラのスコアの如くノーテーション化した例が書かれていた。それらはいずれも建築的ハードと言うよりはその場のイベント(出来事)を創造(想像)するシナリオである。
それらの現代版がラ・ヴィレットのチュミやレムの案である。いずれもドローイングに示された重要な内容はアーキテクチャーよりもイベント、あるいはそのイベントが生み出すシーンである。それゆえできあがってしまったチュミの案はドローイングがかき立てた想像的な場を生みだし切れていない。
つまりチュミやレムもハルプリンや磯崎同様、やはりノーテーションが生み出しているのは字義通り楽譜が生み出す音楽のようなふわふわしたものであり固定的な何かを生みだすものではないようだ。
しかし僕がノーテーションを考えた方がいいいというのはこういうふわふわしたモノを記譜するためにではない。あくまで固定した建築を創るツールとしてである。そしてそれは最後の成果品としての図面というよりは、建築を創る過程における創造(想像)のツールとしてのノーテーションである。建築家のドローイングはそういうものの一つではある。しかしもっと方法論に直結するようなノーテーションがあってしかるべきだと常々思う。そしてそれを何にせよ考え続けなければいけない。

kindle 使える

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by 卓 坂牛


アマゾンの電子書籍Kindleを買った。信大にいた頃から鞄が本で一杯になるのでkindleに入れて持ち運べればと期待していた。しかし欲しい本がまだ電子化されておらず時期尚早とほっぽておいた。その後何度もkindle storeをチェックしていたが一向に本が増えない。そこでこれ以上待つのを止めることにした。売っている本だけでもこの中に詰め込もうと思い購入。そしてすぐに数冊ダウンロードしてみた。
John Summerson The classical language of architecture,   Anthony Vidler Histories of the immediate present,    Steen Eiler Rasmussen Experiencing Architecture以下その凄さを並べてみる。
①ダウンロードは数十秒であっという間。
②値段はどれも13~15ドル。1000円ちょっと。ペーパーの本で買えばサマーソンは手元にある古い翻訳本で2300円。ヴィドラ―はアマゾンの原書が2146円。ラスムッセンの翻訳古本の値段は知らない。原書はアマゾンで1905円。つまりだいたい半分の値段である。
③必要なその瞬間に手に入る。
④軽いのが嬉しい。片手で長時間持っていられる。
⑤薄いから鞄に入れてもかさばらない。
⑥驚異の検索機能。例えばサマーソンの古典主義建築の系譜の中でオーダーという言葉の使われている個所を知りたいとする。Orderと入れると瞬時に全個所が現れる。因みに232個所で使われている。
⑦小さい字が既に霞となる私の眼には活字の大きさを自由に大きくできるのは実にありがたい。
というわけでこの機械はとんでもなく嬉しいものである。ただもちろんデメリットもある。それは一望に本を見渡せないという点である。そのせいかページをくくるリズムもつかめない。おそらく速読は難しい。何かをじっくり読むのには向いていると思う。
デメリットを差し引いてもこの機械がこれで1万円ちょっとなら絶対お買い得である。

建築のエロティシズム

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by 卓 坂牛

その昔信州大学の卒制でエロティシズムをテーマにした学生がいた。バタイユの理路を読み解きながら人間の根源的な感覚としてのエロスを建築に応用しようとした。なかなか上手くいったとは言えないけれどテーマとしては重要だと思っていた。そうしたら田中純が書いた『建築のエロティシズム』平凡社新書2011という著書を発見した。今日現場への往復で読んでみた。これは面白い。話は世紀末ウィーンの装飾とそれを取り巻く言説の中にエロティシズムを読み込んでいる。もちろん現代日本人の私がロースを見てエロティシズムを感じられるかと言えばそれは分からない。当時の言説空間と装飾空間の中に身を浸して感じ取ってみたいという欲望にかられる。