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Feb 2012

ザ・ケンチク

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by 卓 坂牛

一昨日の理科大の修士設計見ても思ったけれど多くの設計は建築を作ると言うよりは街並みだったり、増築だったり、ランドスケープだったり、ザ・ケンチクを上手に回避している。特に震災以降は世の中その傾向に拍車がかかっているかもしれない。今時建築を正攻法で作るなんてナンセンスなのである。
でもそれは日本にいて日本の状況で考えるからかもしれない。一昨日一番に選ばれた学生は唯一ザ・ケンチクを作っていた。図書館である。まるで学部の課題そのもの。しかし敷地がリオ・デジャネイロ。実におおらかで素敵な建築だった。
昨日僕は事務所にオープンデスクで来ていた早稲田の4年生と一緒に食事をした。卒制で何を作ったの?と聞いたらアアルト風のデザインをピアノのエンジニアリングで作ったと言う。モノはスポーツメディアセンター。これも内容を聞くと実にザ・ケンチクである。その上アアルトとレンゾ・ピアノである。取り組み方もリファレンスしているものも僕らの時代みたいである。時間が30年くらいフラッシュバックした。全然今っぽくない。
彼に君は早稲田の平均?と聞いたらやはり早稲田でも建築作らない傾向が強いと言う。でもそういう風潮には反対だと言っていた。
彼は僕の甥っ子がお手伝いしていた先輩にあたるが。僕の甥っ子も好きな本がパターンランゲージだったり、話していると全く今っぽくない。
時流に流されないことは素晴らしい。ただ逆らえばいいというものではないが自分なりの信念を持って最後までやることが重要である。理科大一位の子が一位になったのは信念と最後までやりとおしたことを誰もが認めたからである。日本は右向け右の文化。特に建築の学生に顕著である。ザ・ケンチクにまともに向かう学生がもっといてもいいと思う。

理科大理工(野田)の修士設計発表会は充実している

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by 卓 坂牛


午前中事務所。午後理科大の理工(野田)へ。修士設計講評会。常勤の先生(初見さん、川向さん、岩岡さん、安原さん、伊藤さん)に加えゲストに小嶋さん、宮本さん、駒田さん、山城さん、近藤さん、青木さん、そして僕。
発表者は全部で17名。1時から始まり1人15分。終わったのは6時。それからセッティングを変えて第一次投票。票の入らない人についても議論し学生にもコメントをさせ、第二次投票。ここでも1人ずつ議論し、第三次投票。ここまでくるとかなり絞られるが、ここでも先生方の応援演説。そして最終投票で1、2、3位を決める。この間講評者にはライトミールとドリンクが配られる。なんと優雅な講評会か。こうなると腹減ったとか飲み行きたいというような邪念もなくなり徹底した議論となる。学生の講評をしているうちに評者どうしのイデオロギーの違いも鮮明になりそこでの議論も起こる。
これほど質の高い講評会もそうはない。小嶋さんの作り上げた仕組みを助教たちが見事に受け継いでいる。設計のレベルもかなり高く面白かった。
修士の講評会はいずれ工学部と合同でコンペティティブに競うものにしたいものだ。加えてこの自由な雰囲気を工学部にも移植したい。
とても参考になる講評会だった。お呼びいただいたことに感謝。くわえて今日発表した学生達が設計者として育っていくことを願って止まない。

地下防水

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by 卓 坂牛


昼から野木の現場。この建物の依頼を受けたのが去年の1月。設計を終えたのが去年の5月。用途は児童養護施設。昨今のこの手の施設は小さなファミリー(6人が基本単位)をワンユニットとして構成するのが普通。ここでも収容人数を6つに分け二つのユニットを1棟にいれる計画。子供が入る棟は3棟。それに管理棟の4棟で構成されている。延べ床1000㎡ちょっとなのに建物は4棟。そこに設備インフラが這いまわる。納まりはとにかく厳しい。ダクトがあっちゃこっちゃで交錯しているのを現場でほぐしている。このところデザインよりダクトのことばかり考えている。頭痛い。
現場が始まり予想以上に地下水位が高いことが分かる。地下倉庫を作っているので地下防水には念には念を入れてシートでぐるっとくるむことにした。今日の現場は捨てコンの上に防水シートが敷き終わったところ。コンクリートにもベストンを混和する予定。その内側にもスタイロの防水板を入れる。それでも心配なので地下に置いていた設備関係の機械や盤を地上にあげる設計変更中。この現場には2週に一度来る予定にしていたが設備が納まらないことには心配で、当分週一。

住宅が機械になることはない

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by 卓 坂牛

親父+兄家族の家の図面説明を行う。朝から夕方まで3社。この建物はかなり複雑なので一社に2時間近くかかる。同じことを3回話していると図面の間違いに気付く。ある意味この時が図面の最終確認でもある(本当はそれではいけないのだが)。工務店側は図面がよく描けいているので間違いなく見積もれますと言う。間違いなく拾われるととても高くなりそうで怖いのだが、、、、
その昔図面は描き過ぎるなと言われることもあった。堂々と大きな図で難しいディテール描くと見積もり者の安全係数のようなものが無造作に掛けられてどんどん高くなると言うわけである。その代りに見落としそうな大きさで上手く紛れ込ませ、現場でいろいろ考えれば安い方法も見つかると言われた。
これも先輩に聞いた話だが村野藤吾の実施図面は縦線と横線が交わらないという。2Hくらいの細いか弱い線で描かれ、線の最後のあたりは定規が外されてフリーハンドで曲線となって消滅しているというのだ。交わってないのだからそのあたりがどうなっているか分からない。見積もり者は推測で見積もるのだが、現場で巨匠のとんでもないカーブのスケッチがでるそうだ。もちろん見積もりを遥かに超えた工事となるのだが施工者は泣く泣くやると聞いた。
図面と言うのは見積もり図書であり施工図書ではあり契約図書である。けれど実寸で描かれているわけでは無いから、そりゃそこに描ききれないことが沢山ある。それでもその図書で見積もって建物を作るのだから、その描ききれない部分は施工者と設計者の阿吽の呼吸で埋めていくしかない。そう考えるとこの契約図書はなんとも曖昧なものである。よく建築の契約はひどく曖昧であるとクライアンとに言われる。工事契約約款の内容を言う人もいれば、機械工学を学んだこの建物のクライアント(兄)のように図面の精度が低いと驚く人もいる。そりゃ機械製図の縮尺と建築図の縮尺は当たり前だが比較にならない。
まあこういうわけなので建築業界というものは何時まで経っても曖昧である。しかし建築ってある程度そんなものである。住宅が機械になることはない。

文化は外交手段?

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by 卓 坂牛

先輩がフェイスブックで渡辺靖『文化と外交―パブリック・ディプロマシーの時代』中公新書2011を勧めていたので読み始めた。渡辺靖はどこかで聞いたことがある人だと思って経歴を見るとサントリー学芸賞を受賞した『アフターアメリカ』の著者だった。並行して幕末の話を読んでいるのでパワーポリティクスとカルチャラルポリティクスの差が時代を象徴しているようで興味深い。
話の内容は現代の世界外交は必ずしも外務省が外交ルートを通して行うものばかりではなく様々な文化の位相の中で様々立場の人によって行われるという話である。もちろんその流れを大きくバックアップするのは国であり、そう考えるとやっぱり国の外交政策の一環であるとも言える。
しかしこの手の話は生意気なようだし偉そうだがどうもすっと腑に落ちるモノでは無い。文化が外交手段に利用されることへの抵抗である。この本の中でも紹介されるフルブライト奨学金を創設したフルブライトも同様の感覚を持っていたようだ。彼の1961年の上院での演説は心に染みる。演説の主旨は留学生を通した文化交流事業は闘いの武器に代わるものでもないしプロパガンダでもない。教育交流を通じてお互いが同じ人間であり、喜びや、悲しみ、残酷さや優しさを持った同じ人間であることが感じ取るためのものである。
文化は外交の道具では無く人々の共有できる価値の集合体でありそれ以上でもそれ以下でもない。

大学教員の成り方

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by 卓 坂牛

先日とある人から櫻田大造『大学教員採用・人事のカラクリ』中公クラレ2011という本をもらった。書いてある内容は概ね僕の知る範囲のことで「カラクリ」というほどのこともないのだが、もちろん学外からは見えないことであり、その意味ではカラクリである。
大学の教員は小中高と違って資格はいらないとよく言われるが、実は法律で一応規定がある。教授の場合は大学設置基準法第十四条に記されている。そこには5つの規定がありそのいずれかに該当すべしとある。5つの規定は下記の通り。
① 博士の学位
② それに準ずる業績
③ 既に他の大学で教授、准教授、講師の経歴がある
④ 芸術、体育の場合はその秀でた能力
⑤ 専攻分野の特に優れた知識、経験。
法律ではこのいずれかとなっているが、このいずれかで教授になるというのはまあ聞いたことは無い(と言っても知っているのは工学部の範囲だけれど)。ほぼ全部を兼ね備えて尚且つ人間性が問われる。
著者は大学教員を目指して人生設計をするのは殆どギャンブルであると書いてある。僕のように人生半ばで半ば偶然この道に入りこんだものにはこのギャンブル性を身にしみて分かることはなかったのだが、周囲を見ているとなんとなく分かる。しかしギャンブルとはいえどもそういう道を歩む人が0になっては困るわけで、今頑張っている人は是非諦めずに持続して欲しいものである

巻き添え被害

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by 卓 坂牛

娘が四谷の大学へ受験に行った。学科は新聞学科。英語、国語、社会、小論文。僕は午後森美術館にLEE・BULの展覧会に行ったhttp://ofda.jp/column/。会場で偶然SETENV入江君にお会いする。
帰宅後ジグムンド・バウマン(Bauman, Z)伊藤茂訳『コラテラル・ダメージ―グローバル時代の巻き添え被害者』青土社(2011)2011を読む。コラテラルとはタイトルに沿って言えば巻き添えという意味である。一言で言えばグローバル化が拍車をかけている格差は天災が起こった時に災害分布に影響を与える。言うまでもなく貧しいものの被害を大にして富める者の被害を小にする。
例えばハリケーンカトリーヌが来た時に富めるものは速報が入った瞬間に保険がかけられた家財に何の未練もなく飛行機で逃げた。貧しいものは自家用車に家族全員で乗って逃げるものの食べるものもなく泊まるところもなくそのうちガソリンもなくハリケーンに追いつかれる。仮に生き残っても既に我が家は無いわけである。
バウマンの相手にする貧とは日本では想像できないような最低線なのだが、日本でも天災の分布を所得にクロス集計すると貧に大、富に小と出るような気がしてならない。これまではまだしも。これからは?3年で70%という数字が出た現在、富める者は必ずや免振構造のマンションに引っ越すか、外国行くか、耐震補強するか考えるだろう。一方生きることに精いっぱいの人々にそんな余裕はない。おそらく東日本クラスが来たら崩壊する木造密集地帯は分かっているのだけれど、経済弱者にそれらを補強する余裕はない。若きワーキングプアたちは漫画カフェを渡り歩き、違法建物の中で生き埋めになる可能性だって高いのである。

研究室と言う不思議な場所

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by 卓 坂牛


研究室という大学内のシステムは日本独特のもの。その昔東工大でスチュワート先生の下で卒論書いて(英語で)表紙にStewart laboratory と書いたらStewart kenkyushitsuと書き直された。諸外国にはこういう学生の居場所は無いようだ。僕の留学先にも無かったし一昨年行ったブエノスアイレス大学にも無かった。
確かに考えて見れば卒論やるにも卒計やるにもゼミ室と工房(製図室)と図書館と実験室があれば事足りる。UCLAにも大きな木工場とどでかい製図室はあったし教授室もあったがそれに附属する研究室なる不思議な部屋な無かった。
一体この部屋の効用は何かと言うとおそらく儒教的な先輩後輩、師弟の上下関係を叩きこむ場所なのである。それが証拠に欧米の大学には先輩後輩なる人間関係は殆どない。私の留学先にも無かった。お互い歳がいくつかも知らず話していた。ただ社会人大学院に入った若い僕は5つ以上年上(に見える)のクラスメートとは人間的にも能力的にも差があったのでそれに対するリスペクトはあったように思う。
繰り返すが日本の研究室は厳しい上下関係のもと軍隊の如く助手がいて、院生がいて、学部生がいるという階級制度が確立し先輩の言うことは絶対なのである。しかるに、わが研究室は初年度で学部生しかおらず先生も助手もリベラルな上に彼ら二人は学生からの何のリスペクトも受けていないのでまったくもって無秩序状態に陥っている。時あたかも卒計提出まじかということもありその無政府状態に拍車がかかっている。来年度は院生も登場し厳しい規律と管理のもとに研究室が美しく保たれることを祈るのみである。

問いのたて方

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by 卓 坂牛

岩波新書からシリーズ日本近現代史というのが出ている。全十巻だが以前第九巻の吉見俊哉『ポスト戦後社会』を読んだ。とても面白かったのだが幕末から始まるこのシリーズを最初から読む興味は無かった。
最近例の『中国化する日本』を読んで明治維新を中国化と捉える視点にたいそう興味が湧いた。そしてその中国化した日本は何度か再江戸化すると言うのも面白い。このシリーズの最後のまとめである第十巻岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか』岩波新書2010を読んでみる。そうすると実は『中国化する日本』と同じことが静かに書かれているのに気付く。
曰く、明治初期は政府と民権派の2極構造では無く、この他に自由競争に乗る気の無い民衆なるものがいた。つまり明治は2極構造ではなく3極だったと言う。こんなことは高校の教科書ではあまり注目されていなかった。それが明治を再江戸化する力へつながるわけだ。今でいえば新自由主義の自己責任を回避したい人々がもっと福祉をもっと保障をと訴えるのに似ている。
やはり日本人は江戸から脱却できないのか?
でもそんな必要があるのか?
あるいは江戸に代わる未だ試したことの無い新しいシステムがあるのか?
どう問うのがこれからの社会を豊かにするのだろうか?

シラバスどうなってるの?

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by 卓 坂牛


今日は午前中電話をかける用事が多い。現場に行くまでに終わらず、行く道すがら、着いてからかけ続ける。2時からの打合せ終わると夕方。日の落ちるのが早くて現場は真っ暗。今日は見るのを諦めようと思ったら照明をつけてくれて根切り底の捨てコンを見る。この辺りは寒い東京より更に寒い。朝は-8度くらいになると言う。まるで長野。事務所に戻り明日出す確認図をさらりと見る。
明日はW大学の学生がインターンシップに来る。4年生の卒業間際にインターンシップ単位が学外でなければいけないと言われたとか(例年はコンペ提出でもいいのですがと泣いていた)。67時間が規定ということで実質一週間あれば終わるのだろうが、それにしてもこの単位のシラバスはどうなっているのだろうか?この大学の違う学部で非常勤やっているがやたらとシラバスの書き方が厳しい。しかも毎年厳しさを増し書き換えさせられる。今朝もその件で事務とやりとしていた。学部が違うからと言ってシラバスの書き方の厳しさが違うとも思えない。であればこの単位も学外でしなければいけないのか学内でいいのかは当然書いてあると思うのだが?????