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Aug 2013

AV女優の社会学

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by 卓 坂牛

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ここ数か月、朝4時半に起きている。そうすると9時ころには既にいろいろなことを終えてさあ昼飯でも、という気分なのだが未だ9時なわけである。あたりまえだけれど。それで本当はおなかも空いているのだが我慢してもう一仕事してから今日は大学へ。前期のレポートを読んで採点。80近くあるから結構時間がかかる。その後助手といくつか打ち合わせしてから大学を出て品川原美術館で坂田栄一郎の江ノ島の写真を見る。http://ofda.jp/column/
原美術館は水曜日8時までやっているので心地良いカフェで読書。この本の装丁は傑作である。なんと題名よりも著者名よりも帯の推薦者のフォントの方がはるかに大きいのである。まあこんな二人が応援するんだから出版社も著者もそうしたいかもしれない。小熊英二と北田暁大である。そんな二人が絶賛するこの本のタイトルは『「AV女優」の社会学』著者は鈴木涼美さん出版社は青土社である。本の内容は著者が慶応4年で書いたレポートを東大に移って修論としたものがベースとなっているようである。修論が本になるなんていうのはめったにないと思うがやはり話題性だろうか?内容はスキャンダラスになることなく、ジャーナリスティックになることなく、「性の商品化」と言うテーマに真摯にそして実直にまとめたレポートである。

展覧会に出すと次の展覧会がやって来る

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by 卓 坂牛

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午後神楽坂で街づくり会議。帰りがけ市ヶ谷のハナマサで買い物して今日は一人で夕食。娘は早朝旅行にでかけ、配偶者は読売書法展の搬入で遅いとのこと。彼女はこの展覧会で奨励賞という賞をとりそれはそれで忙しいようである。一つの展覧会が終わると家の中が少しきれいになるがそれも束の間。次の展覧会がやって来て家は紙の山となる。
書の世界では賞の蓄積がポジションのアップにつながる。このレベルの賞をいくつかとると次の役職になるのだそうだ。
今年の読売書法展の賞のランクと点数は以下の通り。大賞1点、準大賞8点、読売新聞社賞(幹事対象)63点、読売俊英賞(幹事対象)127点、読売奨励賞(評議員対象)250点、特選(公募・会友対象)405点、秀逸(公募・会友対象)1,759点。なんだ、高だか上から数え500以内と言うところかと思うのだが、応募総数は25,991点。よって500の中に入ると言うことは50倍の難関で、それはそれで大変なことのようである。建築で言えば学会作品選集以上選奨以下というところだろうか?
それにしても書の世界はこうして賞の蓄積が地位の上昇につながるわけである。なんとも昔ながらの仕組みだけれどリーゾナブルナ気もする。先日とある建築家と話していて、異口同音に、「コンペも佳作がたまれば最優秀になるなんていう仕組みがあってもいいよね」と本音が出た。

ギャル的マネジメントはどこまで有効か?

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by 卓 坂牛

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阿部真大『地方にこもる若者たち』朝日新書2013によれば地方には郊外型の大型ショッピングセンター(イオンモール)があって、ほどほど楽しく、地方独特の面倒くさい人間関係もなく、そしてちょっと外に出ればほのぼのとした地方の良さもあって、だから若者は敢えて都会には出て行かない。と著者は言う。これは著者の膨大なアンケート調査の結果なのでそれを真実ではないなどと言っても仕方ないのだが、それが本当ならやはりこの大型ショッピングセンターって何なんだろう?と思ってしまう。
一方現代の若い男性は敢えて他者と交わりたいとは思わないが、そこに女性が聞き役として介入し全体を統合していく新たな人間の関係の仕方が生まれていると著者は言う。これを著者は「ギャル的マネジメント」と呼んでその昔の「ヤンキー的マネジメント」と対比させている。これはちょっと建設的で元気の出る結果である。そして納得する。というのも信大時代の坂牛研究室はこのギャル的マネジメントで持っていたからである。
しかしこのギャル的マネジメントが有効なのは地方においてのみでは??都会にはギャルもヤンキーもいない。良くも悪しくも。

1週間の親父生活終わり

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by 卓 坂牛

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早朝、肉のハナマサで冷凍讃岐うどんを買い、親父最後の食事は讃岐うどんと思ったが薬味のネギを買うお金が無かった。しかたなく10時ころネギを買いに出て、ついでに夕飯の食材も買ってくることにしたのだが、またしても主菜のポワレにするメカジキを買い忘れた。仕方なくまた昼食後買いにいくことになりそれならついでに銀座のギャラリーにでも行こうと資生堂ギャラリーを目指した。するとその途中に博品館なるおもちゃ屋があり、そこには配偶者がその昔から欲しがっていた母校(女子美)の制服を着た人形があることを思い出してしまった。遅めの誕生日プレゼントと早めのクリスマスプレゼントということでそれを買って帰ったら配偶者は大喜び。椅子やら机やら作り書道遊びに興じていた。一方親父は今日で我が家の生活も終わり、夕方西荻の兄貴の家(内の家)に戻る。一週間のここでの生活はどうだっただろうか?僕は食事もたくさん作ってあげて、たくさん話しをし、楽しい一週間だった。相変わらずクールにドライに「おー世話になったなあ!!」と一言。
僕がこんな仕事だからけっこう一緒にいられて本当によかった。この先も元気であることを祈ろう。

漂白される社会

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by 卓 坂牛

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朝から、大学の事務作業し、終わると原稿を書き、飽きると読書。開沼博『漂白される社会』ダイヤモンド社2013を読む。一言で言えば日本の裏社会を描いたルポ。よくそこまで調べたなと感心する。タイトルの漂白とは裏の猥雑さが今では薄れて、見えにくくなっているということの形容である。

江戸時代の石積みに明治時代のレンガ擁壁???

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by 卓 坂牛

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事務所のはす向かいの建物が解体され、そこにあった擁壁が露わになった。それを見ると何とレンガ積みである。レンガ積みの擁壁というのは時代的にはいつごろの物なのだろうか?ネットで見るとどうも明治時代の炭鉱の擁壁などにレンガ積みがあるという記述がちらほら見えるが真相は分からない。
因みにこのレンガ擁壁の手前側の石積みは松平家の本屋敷があったところで、この石積みは江戸時代のものではないかという人もいる。誰か調べないかな?

戦争も原発も根っこにあるのは無責任体質である

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by 卓 坂牛

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ディム・ヴェンダースの最近の写真も含む「Places strange and quiet」2013年editionには3.11以降に福島に来て撮った写真が3枚載っている。撮りながら計ったであろうガイガーカウンターの数値がそれぞれにつけられていた。そしてどの写真にもぼーっと霞むサインカーブが写っている。まるで心霊写真のようである。
3枚の内の最後の写真には下記(英語)テキストがついている。
「ほんの数週間してから私は自分の写真を現像した。
福島で撮ったネガは壊れ、崩れていた。
それらにはすべて同じサインカーブが写っていた。
セルロイドフィルムには不可視の放射線が究極のところ可視化されていた
と言うテキストとこの写真。
放射線が写るかどうかはこの際どうでもいい。問題はヴェンダースを含めおそらく多くのアーティストが国内外を問わずこの地をおとずれ、様々な発信をし事故の再発を恐れ警告している。しかるに、日本の首相はこの惨事の原因を世界に売ろうとしている。これを厚顔無恥と言わず何と形容できようか?この写真が「お前の父ちゃん相当ノータリンだな」と訴えているように見えてくるのである。
8月15日の終戦記念日に思う。日本が負けると分かっている戦争に突入して負けたことと、壊れると分かっている原子力発電所を稼働し続け壊れたことには必ずや同質の無責任体質が共有されている
我々国民はそれに対してある種の責任があるはずだ。しかし我々はそれを変えようとしない。それどころかそんな政治を応援している。見せかけの経済政策を代償に。悲しいほど恥ずかしいことと思う。

退屈を恐れる僕たちは会う必要もない人と会い、飲む必要のない酒を飲み、、、、、、

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by 卓 坂牛

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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』朝日出版社2011を読んだ。退屈というテーマがこれほど人間にとって重要な問題だということをこれほど分かりやすく書いてくれた本はないのだろうと思った。是非皆さんに読んでほしい。
そもそもなんでこんな本を読んだかというと、この退屈という言葉に惹かれたからである。というのも僕の娘が生まれたころ子育てで重要なことは何かという沢山ある教えの中でも今でも覚えている誰かの言葉が「子供を退屈に馴れさせろ」というものだったのである。これってふつう逆じゃないの?と思いそうだが、これで正しい。この教えの言わんとすることは子供に毎日のように朝から晩までわくわくするような楽しい刺激を与えると与えない環境になった時何もできなくなってしまうということだったように思う。僕はその考え方にたいそう共感したし、しているし、いまでも子供にはそんなつもりで接している。なぜかと言えば自分が子供のころの日常生活は実に退屈な同じことの繰り返しだったからであり、それが自分を作ってきたし、少なくとも退屈な生活の中での主体性こそが様々な技や思考力を生み出してきたと確信しているからである。 
と言うわけでこの本を読んでみて、著者にすこぶる共感すると同時に、現代人の悲しい性に同情する。現代人は退屈になることを極度に恐れ、手帳を予定で満たし、会う必要もない人と会い、飲む必要のない酒を飲み、見る必要のない建築を見て、行く必要の無い展覧会やら建築ツアーに行き、そして読む必要の無い本を読んでいるのかもしれない。いやーまさに自分がそうだと気付かされる。退屈こそが日常生活の重要なアイテムだと思っていたのも束の間、現代人病にかかっている自分が本の中にいるわけだ。さてどうしたものだろうか?もっと思考せよと反省しきり。
國分さんによれば消費するのではなく浪費せよと言うのだが、そう簡単にわれわれは消費社会から脱却できるわけもなく、、、

親父の背中を流す

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by 卓 坂牛

10時からゼミ。発表者10人で2時に終わり、帰宅後親父を銭湯に連れて行く予定。終わらなかったらどうしようと焦っていたのだが、研究室に着いたら「ゼミ発表者は結局4人でした」とのこと。「ええ?大丈夫かなあ?」早く終わるならそれに越したことは無いのだが、、、、、発表しなくてもきちんとした論文を最後に書いてくれるのならそれでいいのだがそうなった試はない。僕自身は論文を書くことに何の不安も無く、面白い論文が書けると信じていたけれど、それでも坂本先生の首に縄をつけるようにしょっちゅうゼミしてもらったものなのだが、、、、、、
3時に帰宅親父を銭湯に連れて行こうと思ったら娘がタイから帰国。親父が嬉しそうに孫と会話。一通り終わったところで親父を連れてやっと銭湯へ。四ツ谷駅の近くにある塩湯と言いう名の銭湯に初めて行った。まあこんなことでもなければ来ることはないだろう。こんな都心の銭湯ってどんな客が来るのかと思えば常連のおっさんが来て番台と長々話している。都心のコミュニテイである。銭湯のお湯は家より熱い。親父大丈夫かなあ?ちょっと熱そうだったがスーッと音もなく静かに入り終始無言である。90近い親父の背中を流した。いや背中だけではなく頭の先から足の指まで隈なく洗った。最近リハビリで鍛えているだけあってなかなかこの歳の体とは思えない逞しさである。
それにしても親父の背中を流すなんて小学校以来だろうなあ?よかったよかった。

肺結核小説は嫌いだけれどヴァレリーの言葉は好きである

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by 卓 坂牛

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親父が昨日から我が家で暮らしている。兄貴家族がオーストラリアに就職した甥っ子、つまりは自分たちの息子に会いに行ったので同居している親父はその間我々と暮らしている。たまに家族編成が変わると話題も変わって楽しい。
テレビで宮崎駿の「風立ちぬ」人気が報道されていた。親父が堀辰雄はいい作家だとしきりに言う。なんであんな肺結核小説がいいのだろうかと僕は思う。なんて僕は別に堀辰雄をじっくり読んだことなどない。ただそんな風に友達が言っていたのを聞いて(中学の頃だろうか)そう思っているに過ぎない。親父が言う「風立ちぬ、いざ生きめやも」。これはヴァレリーの有名な一句であるLe vent se leve, il faut tenter de vivre.肺結核小説は嫌いだけれどこの言葉は好きである。