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Sep 2013

行ってきます

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by 卓 坂牛

昨日作ったパワポでもう一回予行演習したら40分くらいでちょうどいい感じ。だけど英語が未だアカンな。向こう着いたらちょっと直そう。
昼飯食って、家を出る。ネットチェックインしたらメールでボーディングパスが送られてきたのだが、空港着たら再度紙のパスを発行された。システムがよくわからない。空港で時間が余り浅野智彦『「若者」とは誰かーアイデンティティの30年―』河出ブックス2013を読み始める。その昔アイデンティティは職業、結婚、人生観で決定されていくとエリクソンが唱えたがもはやそんな要素は今の日本でそう簡単に獲得できない。となるとアイデンティティとはもっと別の要素によって生じるものだろうと言うのがそのイントロ。さあ飛行機の中で続きを読もう。

今回の荷造りは難しい

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by 卓 坂牛

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午前中パッキング。今回の出張は冬のブエノスアイレスから赤道近くのリオデジャネイロと着る服が冬と夏。加えてブエノスアイレスを拠点にブラジルに一週間いるので鞄も大きなスーツケースとブラジル用のそれなりにでかいバックバックと二つ持っていかねばならず配分が難しい。
昼に今回の一番大事な45分の英語レクチャの練習をした。そうしたらなん20分で終わってしまった。やばい!!事務所に行って必要な写真データーを加えて45分しゃべれるコンテンツに変更。もう一回トーク練習しようと思ったが時間が無く大学へ。コンペの打ち合わせ。いいとこまで来ている。終わって彼らをねぎらって神楽坂で夕食。坂の途中にいい店がある。しこたま話して解散。あとは彼らのエネルギーと情熱に期待している。頑張ってほしい!!!!!!!!!!!!

Pine Galleryの本完成

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by 卓 坂牛

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朝事務所に寄って昨日届けられたできたてのフォトブックを見る。大森晃彦さんが作ってくれた松の木のあるギャラリー(PINE GALLERY)の本である。30センチ角で20ページなので絵本みたい。写真が大きくて迫力がある。前回の「内の家」も良かったがこれもいい。さすが大森さんの編集力。一応ISDNもついていて売っています。でもバカ高い。
昼に久しぶりに金町に行き出張前の雑用。午後主任会議に出席。グアテマラからの政府給費留学生の受け入れがやっと工学研究科の会議で承認されたとの連絡。理科大がはこういことが異様に厳格で手続きに時間がかかった。
午後主任会議。終わって教室会議の資料作成を助手に指示して神楽坂に向かう。ぎりぎり滑り込みで製図の授業に間に合った。3年生の製図課題で今日がスタート。非常勤は柳澤潤さん、青島裕之さん、多田修二さん、川辺直哉さん、そして僕と呉先生である。
全てのスタジオは2つの課題を行うが、僕らの班は2つ目の課題を行わない代わりに外国人建築家によるワークショップを行う。ワークショップをやりたい人がどのくらいいるか心配だったが結構参加希望者が多かったのでほっとした。

やっぱり資本主義って問題だよな

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by 卓 坂牛

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保坂和志の小説を一時期読んでいた。とても心地よかったので『考える練習保坂和志』大和書房2013を読んでみたらやはり気分が良くなった。そしてなぜだか言っていることが大半配偶者と同じ。まるで配偶者が横でしゃべっているようである。たとえばスマホについて保坂はこう言う「ケータイにしたって普通のケータイは無くなりつつあって全部スマートフォンにさせようとしてるよね。でも、それって誰も望んでないじゃない。みんな望んでもないことをどんどん押しつけられている」。あるいはパソコン「Eテレみてたらさ使い方の講座をやってて、講師が、これ便利でしょ、これ速いでしょ、効率的でしょ、って言うわけだよ。それがどうしたんだよ。そんなこと、ハイデガーの前で言ってみろって言うんだよ。人生は便利と効率と速さかよっていう。人生っていうのは成長と深みだろう。そのために生きてるんだよ」。配偶者がこう言うと、前時代人が何か騒いでいると思うのだけれど世の中にはそういう人がいるわけだ。そして僕は85%くらい彼らに賛成である。そしてその原因は何なのか?僕は資本主義がその一因であるといまさらながら感じている。
資本主義というものは僕が子供の頃は資本家が労働者を搾取するということが一番問題だった。まあ今でもそういう側面が無いとは言えないけれど、今はもっと問題なことがある。それは作る以上消費しないと作る経済がストップするという点である。だから何が起こるっかというと、ケータイは何か新しい機能を付けて(不必要な)買い替え(消費)させようとする。コンピューターもハードソフトともに、微差を針小棒大に騒ぎ立て消費させようとするわけである。ビルゲイツがなぜ毎年世界の億万長者1位になるのか皆は不思議に思わないといけないし、阻止しないといけないと僕は思う。

そばにたたずみPTSDを癒す

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by 卓 坂牛

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朝一で金箱事務所。コンペの打ち合わせ。こういう打ち合わせは学生にとってはとても勉強になる。打ち合わせ結果を持って大学に戻る。さてうまく展開できるかな?夕方某施主のところで打ち合わせ。地盤の沈下とその対策を議論。湾岸地域の建物で、ある部分だけ支持杭なので周囲との間に段差ができている。それは想定内なのだが、止まる時期が未だ読めなく施主も心配になる。
先日読んだ鷲田清一の『「聴く」ことの力』の中に精神的に病んでいる人から苦しみをうちあけられた場合はその言葉をひたすら反芻するのが最も相手を癒すと書いてあった。それによって病んでいる人は自分の苦しみが吸い取られた気分になれると言うわけである。今日宮地尚子『トラウマ』岩波新書2013を読んでいたらPTSDを患う人にとっては傷ついたひとのそばにたたずむことの重要性が強調されていた。ここで「聴く」という動作に言及しておらず、むしろたたずみながら傷ついた心を吸い取ることが重要なのだろうと思われる。
鷲田を読んで「聴く」建築が作れないかと思ったが、もっと言うと「心を吸い取る」建築である。観念的過ぎるか?

日西交流400周年記念事業披露式典に行ってきた

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by 卓 坂牛

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1613年、仙台藩主伊達政宗公は、支倉常長を大使とする慶長遣欧使節をスペインに派遣した。今年はそこから数えて400年目。それを記念して様々なイベントが行われている。先日文化村で見たアントニオロペスもその1つであるし、秋に国立西洋美術館で行われるアンフォルメル展もそうである。そして僕らが来年の1月に行うアルゼンチンの建築展もその1つである。アルゼンチンなのにどうして?なのだがこれには理由がある。実はこの展覧会はアルゼンチン単独で行うのではない。僕らが展覧会会場を探し、麹町のセルバンテス文化センターを借りたいとお願いしたところ彼らに逆提案され、スペイン建築家と、僕、つまり日本との3国共同展覧会なら貸そうということになり、それをこの事業の一つに位置づけようと言われたわけである。今日はそんな沢山ある記念事業の披露式典がスペイン大使館で行われ関係者が招待された。私もその一人として呼ばれ、六本木1丁目のスペイン大使館に行ってきた。会場は大勢の関係者で埋まった。大使のあいさつ事業の紹介の後ワインを飲んでのパーティーだったが、コンペの打ち合わせのため早々に退去した。ワインが美味しそうだったが、、、、

エッセイのような楽な建築

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by 卓 坂牛

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早朝ブラジルのベロオリゾンテで会う予定の建築家Bruno・Santa・Cecilia氏から長文のメールが届く。心強い。ベロオリゾンテには1日しかいられないのでブルーノ氏とは昼食をご一緒することにした。
メールの返事をしてから嵐の中をジョッギンング。でも昨日の雨の方がよほど激しい。
朝食後鷲田清一『「聴く」ことの力―臨床哲学詩論』阪急コミュニケーションズ1999を読む。哲学はそもそも対話から始まったものなのに、ある時から自らを深く「反省」して物事を「基礎づける」学問となりいまその方法ではにっちもさっちっもいかない危機を迎えているというのが著者の認識。アドルノも同様の批判を行い、そこからの脱却の方法として「エッセイ」を挙げた。僕らはよく「君の論文はエッセイのようだ」と否定的に使う。それは論文と言うものが今でも「基礎づける」ことで成り立っていることの裏返しである。ということはアドルノに言わせれば論文と言う方法に乗っている大学での知の生成には限界があるということにある。僕らはもう少し論文というシステムに懐疑的であるべきだと思う。
さて「反省」「基礎づけ」という自己閉塞的な方法論の否定は「自己が語ること」から「他人を聞くこと」を必然的に招来するのである。この「聴く」という動作は「触れる」という動作と密接に関連し、「触れる」は「さわる」と異なり自―他、内―外、能動―受動の差異を超えた動作なのだと言う。ここまで来ると新たな哲学の位相である「聴く」力とは単に音を聴くということを超える。身体が何かを「享ける」力と言い換えても良い。
この力はとても示唆的である。恐らくこれから建築を作っていく上でもっとも重要な力の一つなのだと思う。我々が「享ける」べきものは様々ある。建築を使うひとであり、場所であり、材料であり、作るひとである。そうしたトータルな「享ける」をベースとして極度に基礎づけられていないエッセイのような建築が建築をもっと自由にするのかもしれない。つまり規則(アルゴリズム)に縛られ過ぎず、「享けた」ことに柔軟に対応する気まぐれが建築をもっと楽にしていくのだと思う。

わたしの考えとは「引用の織物」でしかない

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by 卓 坂牛

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特に人文系では「論文は引用の集積のようなものである」とよく言われる。史料、資料をつなぎあわせて何かを明瞭にするのだからそう言われてもおかしくない。何かを定め明瞭にするためのつなぎ合わせ方がその論文のオリジナリティと言えばそうだがその内容自体は自分のものではない。そしてその他者の言葉も誰かまた他者の言葉である。
鷲田清一『<ひと>の現象学』筑摩書房2013の中にこんな文章がある。「わたしだけの言葉というものはそもそも存在しない。わたしの考えは人びとのあいだを流通することばによって編まれている・・・「わたしの」考えとはいえ、じつは「引用の織物」でしかない」。
にもかかわらずひとは私的なものがあると幻想する。それは自分の肉体とこころが自分のものであるということを人は信じて疑わないからであろう。そしてその疑いの余地のない自分のものが発するものは言葉であれ、絵画であれ、彫刻であれ、音楽であれ、建築であれ自分のものだと、これも信じて疑わないのであろう。
しかし鷲田が言うまでもなく、我々が発するものは言葉に限らず、おしなべて「引用の織物」なのだと僕は思う。磯崎新もだいぶ前にそう言っていたのだが、再確認である。だから結局表現という行為における独創性(というものがあるとするなら)とはこの引用の織物の中でいかに表現物が引用ではないと見せられるかどうかにかかっているだけなのである。あるものはそれを計算してやるしある者はそれを本能的にやるだけのことである。

秋祭り

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by 卓 坂牛

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早朝外国からのメール返信に追われる。朝食後アルゼンチンビエンナーレでのレクチャー原稿作成。今回はブエノスアイレスでビエンナーレレクチャーをした後、計4つの大学でレクチャーやジュリーを行う。レクチャーコンテンツはできれば3つ作りたいのだが、、、とりあえUビエンナーレの45分のレクチャーに備えてパワポを見ながらトーク原稿を打つ。
午後ジムで一汗かいて大学でコンペスケッチ。3案同時並行進行中。火曜日の質疑の答えによってどれかが外れていくのだろう。3案ともブラッシュアップ次第で面白いことになると思うのだが。最後のクライテリアはこれ持って喜んで施主のところに行く気になれる案となっているかどうかである。夜大学を出ると正面の公園にぶら下がる提灯がきれい。秋祭り。

劇的(過ぎ)写真

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by 卓 坂牛

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午前中事務所で打ち合わせ。昼頃建築技術の橋本さんが10月号の出来立てのほやほやを持ってきてくれた。水戸のギャラリ―を表紙に載せていただいた。表紙写真は北側ファサード。ビビッドなオレンジ色である。それは僕が選んだ色ではなく、昔ここに建っていたリーテムの創業建物のオリジナルの色である。徹底して抽象化した復元であり、窓をレリーフ化して庇は取り除き輪郭線だけ踏襲している。一方南側にはメガホン状のαスペースがオレンジの箱に差し込まれている。差し込まれた残余のスペースがギャラリーとなる。この写真は建築技術で大野さんが撮ってくれたもの。光がハレっていて劇的(過ぎ)!