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Jul 2016

すごい本

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by 卓 坂牛

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紀伊国屋じんぶん大賞という賞があって2016年の1位に輝いたのがこの岸政彦の『断片的なものの社会学』。この賞ウェッブサイトを見るとなんと30位までランク付けされていて。選んでいるのは店長さんたちのようである。さらにこの本の帯がまたすごくて上野千鶴子、高橋源一郎が推薦の言葉を書いていて、佐々木敦、千葉雅也が絶賛と褒め称えている。こんなすごい本見たことない。こういうのに限って大したことないよくある、それこそ断片的なエッセイ集なのだろうと思って読んだら、この賞と帯に価するということが分かった。その理由の一つはこの大学の先生の学生時代の数年の日雇い経験、不妊症の治療の末に子供ができない境遇、そして独特の感性と文体なのだろうと思った。あまり関係のなさそうに見えるいくつかの事象をアナロジカルに平行に書き、読み手の想像力でそれらを繋ぎ留めさせる筆力。平易な文体でエキセントリックな聞き取りを披露する力である。面白い。お勧めである。

ファッションを変えたのは

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by 卓 坂牛

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横田尚美『20世紀からのファッション史−リバイバルとリスタイル』原書房2012は成実弘至『20世紀のファッション文化史』河出書房新社2007と類似するテーマの本だが、後者がデザイナー別の章立てなのに対して、事柄で章立てている。面白かったのは20世紀ファッションの流れを変えたのは戦争、エキゾシズム、リバイバルという認識である。
例えば20世紀初頭にコルセットの呪縛から解き放たれた要素は3つあって、着物などの東洋の服のゆったり感の影響(エキゾチシズム)。二つ目は古代ギリシアローマの緩い服の再考(リバイバル)。三つ目は戦争に人が駆り出されたことでメイドがいなくなり人手を借りないと着られないような服は望まれなくなったということである(戦争)。またアメリカの消費文化で一躍名をあげたマッカーデルのジーンズ生地のドレスは普通の服を作る物資不足から考案されたものでもあるなどなど。さてこのリバイバリズムだが20世紀初頭はローマなどのはるか昔を省みたが、今では10年前のリバイバルというようなことがよく怒っている。つまりリバイバルのインターバルが短くなってきているというのである。
こうした傾向は建築にも同様にあてはまる。20世紀建築の流れを変えたのはエキゾチシズム(異文化の影響)、リバイバリズム(新古典主義、90年代のモダニズムリバイバル)、戦争(ファシズムデザイン、機能主義)。といえば言い過ぎか?

目地は見せる

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by 卓 坂牛

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今日来ていたTシャツはグレーと白の幅の違う3種類のボーダーの生地が19パーツに分かれていてそれが縫い合わされている。森永さん独特のパッチワークデザインである。建築的に言えば異常に目地の多い、目地デザインの建物である。ハリーウィーズの設計したアメリカ大使館宿舎なんかそれに相当する。目地は普通細くしたいものだが、あの建物は必要に迫られたというのもあろうが、そうなったら見せるというデザインである。

家か士か師か

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by 卓 坂牛

私の大辞泉によると、「家」とつく職業は「そのことに従事している人であることを表す」。例として噺家、革命家、芸術家が挙げられている。一方「士」がつく場合は「一定の資格・職業の人」で弁護士、イエズス会士が例示されている。また「師」がつく職業もありこれは」技術・技芸などを表す語について、その技術の専門家であること表す」とあり例として「医師」「理髪師」などが挙がっている。その技術の専門家はすなわちその資格を持っているようなものだから士でもいいと思うのだがそうはなっていない。
上記例以外にも家だったら書家、建築家、(身近なところで)、士だと会計士、税理士、技術士、師なら薬剤師などあり建築家も資格で言う時は一級建築士となる。こうしてみると士と家の違いは、士や師は技術や資格が前面に出る特殊技能であり間違いが許されない厳格な内容の職能である。かたや家の仕事は生活がそのまま仕事であり、特殊技能ではなくその人の信念と感性によってどうにでも変化しその良し悪しは一義的に判断できるようなものではない場合が多い(ように思う)。職業に貴賎はないのでどちらが上、下ということは全くない。ただ期せずして、そういう差がありそうだということである。
そうしてみると私の父は革命できなかった革命家であり母は薬剤に触ったこともない(だろう)薬剤師であり私は建築家であり建築士、配偶者は書家、兄はエンジニアだったが営業に変わり家でも士でもない人になった。僕の職能だけ家と士の双方の職責が課されているというのが面白い。こういうプロフェッションは世の中に他にあるのだろうか。二枚舌で生きろということであろうか?家だけの人、士、師だけの人、何もない人が少々羨ましい。

参議院議員へ

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by 卓 坂牛

早朝に選挙に行った。参議院はThe House of Councilors(評議員:重要案件の相談、確認者)で衆議院のThe House of Representatives(代議員:投票者の代理、代表)とは違いそれを意識して投票せよとテレビで言っているが現状の制度のままで投票者にそれを求めるのは酷である。そう言われていろいろ考えたがだから投票者が変わるかというと僕の場合は少なくとも変わらない。つまりこの選挙が衆議院であろうと投票者が選ぶ人間は一番信頼できる人になる(と僕には思える)。しかし選ばれた人がすべきことは衆議院とは異なる。仮に現与党が大躍進をしたとしても衆議院と一体となって暴政を進めるのが参議院ではないのである。当選者は心して欲しい。

世界の大学学年歴

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by 卓 坂牛

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僕は手作りの手帳を使っている。カレンダーとノートが一体となっているノート(カレンダー?手帳?)が欲しいのだがそういうものがないので普通のノートの最後の方に自分でカレンダーを作っている。だいたい10ヶ月分くらい作るのだが、ノート自体は8ヶ月くらいで使い切ってしまうのでその頃に新しいノートに更新する。更新するときに古いノートから新しいノートに引き継ぐ内容があって、それらはコピーをとって新しいノートに切り貼る。そういう情報の一つでとても大事なものがこれである。今付き合っている世界の大学の学年歴である。一年間いつが休みでいつセミスターが始まるかが書かれている。こういうことをパッと作れるアプリがあったら売れると思うのだが。
必要な大学をチョイスすると自動的にこういう表になると実に便利である。この表には上からウィーン工科大学(オーストリア)、パレルモ大学(アルゼンチン)、カタルーニャ工科大学(スペイン)、オールボー大学(デンマーク)、理科大(東京)、ニューヨーク州立大学(アメリカ)というわけである。これがあると双方の様々な交換、国際会議の企画をしたりするのに便利である。というかこういうものがないと何もできない。

トゥオンブリーのボケ写真

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by 卓 坂牛

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その中で学芸員の前田希世子さんはこう書いている。トゥオンブリーのドローイングが暗闇の中で視覚を捨象した状態で描いていたことからロラン・バルトが盲目性ということばで彼のドローイングを形容していた。彼が写真を撮り始めたのは写真にも撮った瞬間はわからない盲目性があることに気がついていたからだという。さらに80年代の彼の写真はクローズアップで輪郭線はボケているこの近視眼的な距離感はかれのドローイングが鉛筆(画面に近づかないと描けない)を使用することと関連するという。されにトゥオンブリー写真はポライドをカラーコピー機で拡大することで作者の意図を超越している。前田はそれを「目からの専制を逃れ、・・光によってもののディテールと色が消し去られ、世界の手触りだけが残されている」と表現している。

競争すること

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by 卓 坂牛

万民を相手にする一律の競争原理であるネオリベラリズムの主張に与する気はないが、ある土俵に乗った人々が競争するのは当然である。その昔日建設計が一律平等な呑気で平和な時代に競争原理を導入することを組合として提案した。考えてみればやることがあべこべでそういうことは経営側がすることだったかもしれないが日建の組合というのは経営をするというのが昔からの習わしである。またあるレベルの高等教育も競争原理の上に成り立っているのも当然である。そこまで来られる社会的条件を得た人間たちの集合なのだから。切磋琢磨しない教育に向上はない。だから大学では意識的に順位をつけている。1と2と3の間に厳密な差はないのだが、社会ではごく当たり前に1と2を識別する。ある建物の設計者は1がやるのであって1と2と共同することはないのである。まして10や11に順番がまわることは絶対にない。1でなければ仕事がないのである。
2番じゃダメかと言っていた国会議員がいたが、建築の世界ではダメなのである。だから学生時代から1をとる癖をつけておかないと設計者になる人は浮かばれない。しんどい仕事である。

建築は大変だ

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by 卓 坂牛

建築意匠は未だに前近代的な職人芸的なところがある。大学の成績が良いことと建築家としてうまく行くことにはまったく相関関係はない。
私立大学の研究室は4年生だけで20人近い。その20人がいくら自分の研究室を志望してきたとしても全員ピュアに建築家を目指そうとしているとは思えない。いやもちろん志望するならそれに越したことはないがそうは見えない。いや全員志望してなれるものでもないだろうからこのことが悲劇を生むということでもなければ教育に欠陥があるとも思わない。しかしもちろんその何割かは建築家を目指すのであろう。そして目指すのであればそういう人間は肝に銘じるべきである。人生の時間をどれだけ建築に傾けるかで将来は決まる。建築が職人芸的であるということはそういうことである。音楽やスポーツとなんら変わらない。音楽は1日何時間練習するかで一生が決まる。スポーツは一日中練習していたら体が壊れるけれど、食べることから遊ぶことまでスポーツ中心に生活を動かさない人間は一流にはなれない。建築もまったくそうである。
1日のすべての時間は建築中心に動くのである。世界に羽ばたきたければ語学を毎日勉強せよ。世界の動向を知りたければ世界の本を読め。毎日1時間スケッチを描け。友と議論せよ。必要な美術展はすべて見る。反省せよ。どれだけそういう努力を惜しんでいないか?そしてそうでないのであれば今すぐに生活を改めよ。即座にその気にならないなら即座に違う職業を探せ。建築家を目指すなんてやめたほうがいい。時間の無駄である。建築家以外にも建築の仕事はいろいろある。
藤村龍至さんが大学1年の時に教授にこのクラスで建築家になれる人間は一人もいないだろうと言われて奮起したと言っていたが僕も同様なことを言われた記憶がある。それは嫌味ではなく確率的にそんなものである。だから大変なのである。努力できる人がやる仕事なのである。建築とは。

今時、美術館課題

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by 卓 坂牛

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3年生の製図。課題は美術館。信大から考えても、美術館を課題にするのは初めて。今まで
どこかで社会性を課題設定の重要項目にしてきたが、そレだけでは教育が片寄ると反省。空間の美しさ、形の楽しさと向き合える課題とした。その期待に応えて欲しい。