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Oct 2016

中村敏男氏逝く

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by 卓 坂牛

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中村敏男さんの訃報が届いた。これで今年建築学会賞をとられた方お二人がおなくなりになった。お二人とも表彰式の日は元気に見えたのだが。
中村さんは僕が大学院の頃A+Uの編集長をされていた。ディビッドスチュワート先生が僕らの卒論(当時スチュワート研は3人いて3人ともル・コルビュジェ論を書いた)を中村さんにお見せになったのだろう。中村さんにある日呼ばれて行ってみたらA+Uの後ろの方に2〜3ページあげるからル・コルビュジエのことを好きなだけ書いてごらんと言われたのである。これが僕の文章修行の始まりである。スチュワート研の助手みたいなことをしてくれていた篠野さん(現東工大名誉教授)が徹底的に赤入れをしてくれたおかげでどうにか人に見せられる文章となった。辺見、藤田と3人で計5回コルビュジエの話を書かせていただいた。ありがたい経験だった。その後は中村さんと直接会ってお話をする機会はなかった。そして学会賞をおとりになられ我が事のように嬉しかった。授業があり授賞式後のパーティーに出られなかった。出ていればお祝いを直接言うことができたのに、、、残念である。

とある建築家の死

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by 卓 坂牛

青山に僕と同い年だった(現時点では)建築家の葬儀に行った。生前それほど深い親交があったわけではないが、要所要所で忘れられない記憶がある。私が大学を出て最初にお酒を飲んだ有名な(すでに有名だった)建築家であった(その時何を話したかは全く覚えていないが)。僕の作品集に率直な感想を話してくれた数少ない建築家の一人だった「ああいう考え方はとてもいいと思う」と。理科大に来た時に「建築家先生も6年経つとただの人なんだ」と言い残し別の大学に去って行った。この人の生き様を見ていると建築家人生が楽しく、そしてまだまだやれる(健康なら)という気になってくる。徹底してやりたいことだけをやった彼の人生はお手本である。
改めて今日しみじみとそんなことを感じて青山を後にした。ありがたい。

二つのアメリカ

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by 卓 坂牛

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Radio AmericaというIPhone アプリがある。ここにはなんと800近いアメリカのラジオ局が登録されている。大学への往復に聴いている。というのもアメリカ大統領ニュースをききたいからである。今日は3回目のディベートだったが、ついに彼はこの選挙が仕組まれたいんちき(rigged)で負けてもそれを認めない(refused to commit to accepting the election result if he loses)ここまでくるともう子供のケンカである。空いた口がふさがらない。なのに、トランプがこのディベートに買ったと考える人が4割近くいるのである。
以前ニューヨークで友人にブッシュの悪口を言っていたら。共和党を支援するアメリカの真ん中あたりは違う国なのよと言っていた。どっちがアメリカなのかは知らないが、両端と真ん中は違う文化(国)なのは確かである。

レネと会う

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by 卓 坂牛

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デンマーク王立アカデミーの先生をしているレネ・クーラルと最後に会ったのは3年前の夏。ヤコブセンが設計した彼の家でディナーをご馳走になったのがつい昨日のように思い出される。今東工大の5週間のスタジオのために来日している。2年前に彼のために買っておいた自転車のアート作品をプレゼントしてあげた。
彼は2012年の冬に理科大の学長招聘助成金で来日して、理科大の3年生と院生を相手に自転車のまちづくりというワークショプを行った。文京区役所で自転車を借りて皇居を一周した。飯田橋の混み合った歩道を数十人で走ってこの町は自転車に乗りにくいと実感した。今年は東工大で自転車ではなく高齢者のための公共空間というワークショップをやっているそうだ。
食事をしてコーヒーを飲んでいるときに彼が「僕は大学辞めるんだと」というので驚いた。どうしてと聞くと、本を書くための賞金に応募して獲得できたのでゆっくりと10冊目の本を書くのだという。大学の職をあっさり辞してそういうことやる勇気がすごい。その後どうするのと聞いたら別にという顔をしている。あきれるというか凄いというか、、、、

哲学と建築の整合

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by 卓 坂牛

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言語論的転回以降の3つの転回の一つと言われている自然主義的転回の理解に信原幸宏『シリーズ心の哲学1人間編』勁草書房2004を読んだ。やや専門的すぎて話が込み入ってくるとわかりずらいが要は人間の心が心身二元論から解放され、科学の分析対象となってから(80年代くらいから)何が解明されてきたかが書かれている。茂木健一郎で有名になったクオリアの話も出てくる。
さて言語論的転回以降の三つの転回で建築の思想も分類できると踏んだのだが、どうもこの自然主義転回は誤解していたようである。これは哲学の意識の部分に哲学的特権を認めないということであり、科学で解明できるという考え方なのである。はてそうなると人工知能なども関連するが、そうしたことをベースに建築を考えている人はどこにいるのだろうか?世界のファブラボを探せばいそうだが、名前がうかばない。また野毛啓一は哲学を⒋象限に分けていた。実在軸と自然主義軸である。ここに当てはめるのも良さそうである。しかしそうなるとメディオロジーが抜けてしまうのだが、、、、メディオロジーは建築に直接的な影響はないとして、アルゴリズミックを自然主義に入れるという手もあるのだろうか????

シンゴジラ vs 市民

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by 卓 坂牛

紀尾井町ガーデンというビルが近所に出来て東京はまだまだ巨大資本が町を更新していることを実感する。なんだかシンゴジラを見ているようである。キャピタルダーヴイニズムが弱肉強食の理論で東京を更新している姿は凄いものである。生物の自然淘汰は時間をかけた競争によってバランスされたものであるが東京のキャピタルダーヴィニズムは短期間で進み、バランスという状態とは程遠い。思うに、何かが起こる時にそれに競争するアイデアが登場しないのがまずい。葛藤、競争がないとダーヴィニズムにならないしバランスしない。例えば元の赤坂プリンスを使ったオフィスの提案とか集住の提案とかが出てきてしかるべきでそれと競争させるべきである。おそらくそういう案がどこかの時点で誰かが作っていたのだろうが、誰も見ないうちに捨てられたと推測する。それは一つの会社内で行っているからである。対抗するアイデアは公が行うべきである。そしてその決着は市民を巻き込み決めるべきである。シンゴジラの自由は認めるがそれと市民が戦う仕組みをつくるべきである。

こっちが変わればいい

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by 卓 坂牛

洗濯機需要が減って食洗機需要が増加した。だったら中古洗濯機を食洗機にコンヴァージョンすればいい。でも水の出し方だ、食器の並べ方だとか考えていると費用はどんどんかさむ。だから洗濯機を改良せず洗濯機に放り込んでも割れない食器を使えばいい。
建築も同じように考えてもいい。ホテルが多いからオフィスにとか、オフィスが多いから老人ホームにとかいう建築的要望をマジで受けているとどんどん金がかかる。だから壊しましょうという話になる。いやちょっと待って。壊さないで大した改良もせずにそのまま使えばいい。建築を変えるのではなく使う側が変わればいいというわけだ。ホテル→オフィスを考えるなら、もう大きな部屋で仕事をするのを皆でやめ、個室単位で仕事をすればいい。ただ入り口ドアを取っ払って、4室に1室くらいを壁とって打ち合わせコーナーにすれば出来上がりだ。オフィス→老人ホームというのもほとんど車椅子の方ばかりなのだから個室の仕切りも天井まではいらない。それも厚い布地でも問題ない。耳が遠い老人のプライバシーの建築的基準も健常者とは違うはずである。
建築は壊さなければ使えないという発想はやめた方がいい。建築を使う側が変わることだって十分考えられる。

人間も物も同等に扱うこと

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by 卓 坂牛

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Marukus Gabriel のWhy the World Does Not Exist (原書はドイツ語2013)2015 Polity press は痛快な本である。彼の新しい哲学は形而上学と社会構築主義を合体する。彼の比喩で言えばべスビオ火山をソレントから見るアスリットがいてナポリから見る私がいて、ナポリから見るあなたがいるとする。形而上学では誰がどこで見ていようとベスビオ火山は一つしかない。しかし社会構築主義ではこれがソレントからアスリットが見ているベスビオ火山と、私がナポリから見ているベスビオ火山とあなたがナポリから見ているベスビオ火山と3つある。しかしマルクス・ガブリエルの提唱する新しい哲学ではこの両方つまり4つのベスビオ火山がある。そういう前提にたつと、全てを包含する世界というものは存在し得ない。なぜなら世界はそれを感受するフィールドの中に成立するのだが、そのフィールドがいくらでも存在してしまい、世界がいくらでも存在してしまうことになり、全てのことが起こる一つの世界という程定義に矛盾するのである。世界以外の全ては存在するがその全てがいっぺんに収まる世界は存在し得ないというのが結論なのである。
その結論は置いておいて、実在としての物もあり、感覚で受け取られる物もあるという双方の考え方を認めること。これはとても新しい考え方のような気がする。言語論的転回と実在論を共存させることが実は普通の感覚なのだと思うからである。

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by 卓 坂牛

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医者から走るのは少し控えてと言われてから、自転車に乗っている。走っていたときは20分で3キロ走るのが目標。自転車だと皇居一周して帰るとだいたい10キロである。これを30分ではしれると、時速20キロでミニ自転車だといい成績だがまだ実現したことはない。だいたい40分くらいかかる。とくにいい景色があるといちいち止まって写真とるからますます時間がかかる。

建築学部

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by 卓 坂牛

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先日上越トークインで山代悟さんに会ったら、芝浦工業大学の先生になりましたと言って芝浦のパンプレットをくれた。そこには建築学科に3コースあり先進プロジェクトデザインコース(定員30名)、空間建築デザインコース(定員105名)、都市建築デザインコース(定員105名)である。山城さんはプロジェクト先生だそうである。定員30名というのがなんかいいね。全部で240名というのはちょうどサンチアゴカトリカ大学建築学部と同じくらいの人数である。
そばに木下庸子さんがいたので工学院の定員を聞いたら300人くらいと言っていたような気がする。ついでに建築学部になってなんかいいことありますか?と聞いたらあまりないというような返事。会議とか減るでしょうと聞いたけれどそうでもないという。