Taku Sakaushi

Diary

天井に丼が見える

On July 3, 2011
by 卓 坂牛

明け方、痛み止めの点滴でオフクロは眠りにはいった。10時ころ甥っ子と入れ替わりで帰宅してシャワーを浴び大学へ。昼から修士の推薦入試。僕の研究室は他大学から2名、学内から4名の受験者。8月に一般入試があり年明に社会人入試があり来年の院生が決まる。夕方病院へ。オフクロがうなされて「船ドンブリ」と連呼している。目はパッチリ見開いているのだが天井にあるカーテンレールがそう見えているようだ。
この連呼を聞きながら昨晩読んでいた古賀一男『知覚の正体―どこまでが知覚でどこからが創造か』河出ブックス2011を思い出す。知覚とは二つの部分で構成される。感覚と呼ばれる神経系が外界の刺激を取り入れる前半部分。それがどのように感じられたかという後半部分。前半は物理的客観的事実であり、後半は「環境、経験、学習を加味して適切に、あるいは不適切に修飾される」。さらにその後の段階は認知と呼ばれ知覚現象の主観的評価が行われる。そうした一連の脳の作業の中で我々は一体何処までが事実で何処からが創造なのかを見誤る可能性があるわけである。そんなことはどうでもいいではないかと思いつつも、建築の知覚をある程度客観的にとり出そうとするとどうしてもこういう問題にぶつかってしまう。下手するとオフクロのように記憶がオーバーラップしてあるものが違うものに見えてくることもあり得るわけである。

民に来て分かる官の甘え

On July 1, 2011
by 卓 坂牛

大学でミノルタ製の色測計の話をミノルタの方から聞く。数種類置いていってもらい1週間使ってみてどれかを購入するつもりである。
理科大は研究費が比較的よい。加えてその購入のシステムが分かりやすい。毎月買ったものの領収書と集計表を紙で提出して月ごとに清算していく。これが以前いた国立大学ではコンピューターで買ったものを一品一品(消しゴム一個まで)入力していく。一見スマートだが、入力の最中コンピューターはのらりくらり動き、時たまフリーズし、数万円の買い物を1時間くらいかけて入力し、、、それが会計係で止まりどこまで清算されているのかが分からない状態になる。にもかかわらず、これが問題なのだが、このシステムではコンピューター上に残金が出ているのである。しかしこの数字は何時の時点のものかは誰も分からないのである。この大学での最後の年は赤も黒も出せないので、予算と執行額を合致させようとこのシステムをもはや見捨てて、幾度となく会計に直接残金をヒアリングしていたのに、蓋を開けたら(つまりが4月になってみたら)結構な赤字だった。機械もダメなら人も頼れない。実はこのシステムは以前の入力システムを改善して数年前にできたものだった。何かを改善したモノがこれほど使えないのも珍しい。民に来て分かる官の甘えである。

初めて聞く母のこと

On June 30, 2011
by 卓 坂牛

病院にいると朝早く目が覚める。というか寝ているのか起きているのかよく分からないうちに朝となる。うつろな意識のお袋に「おはよう」というと「うー」と唸る。担当医が来て病状の説明をしてくれた。相変わらず危篤状況は変わらないということである。しかし医者と言うのもきっと安全率200%くらいで話すのだろうと高をくくり、可能性はあると勝手に確信する。
早稲田大学の建築学科に通う甥っ子が模型材料を世界堂の袋にどっさり持って部屋に入ってきた。僕は入れ替わりで帰宅する。シャワーを浴びて昼食をとって事務所に行き進捗状況を聞いてから大学へ。昨日の模型を撮影しておくように指示してから会議へ。明後日の院試の内容を確認。終わって発達障害の講習会。現代の自閉症であるLDとアスペルガーの話。信大でも全く同じ講習会があった。
夕方病院へ。オフクロが目を開けずにひたすら語っていた。
母:小さい、、、頃、、は高円寺の、、出窓の、、ある、瀟洒な、、、文化住宅に住んで、、いた
私:ええええ?青森にいたんじゃないの????
母:うー、、高円寺、、、、である
私:おじいちゃんは何してた?(若くして死んだので会ったことが無い)
母:おじい、、、ちゃんは、、、教師、、、、ったがそ、、、れは仮、、、の姿で本当は小説家を目指していた
私:小説家???????
母:その、、、、、、、小説、、、は早稲、、、田文庫、、、、、に入っている
母:喉が、、、、からからで、、、、アクエリアス、、、、、を飲みたい(誤飲して肺炎を起こす可能性があるので飲ませられないのだが)
私:ダメだってずっと言っているでしょう!!
母:喉の奥が乾燥して、、、喉が要求しているのだ、、、せとやませんせいは、、、、それが分かっていない、、、、、、、、私の所有物は、、、、、は、、、、ひそやかに、、、、、存在、、、、し、、、、ては、、、いない、、、、、
目をつぶりとり憑かれたように、酸素マスクでからからになった声帯をがらがらに震わせて延々としゃべっている。こちらが反応しようとしまいとである。恐ろしいことに母の若いころの話など今の今まで全く知らなかった。東京に住んでいたなんて50年間聞いたことも無かった。もちろん子供が親のことをすべて知っている必然など何処にもないのではあるが、、、、

なんだかよく分からないもの

On June 30, 2011
by 卓 坂牛

朝一で病院から帰宅。シャワーを浴びて研究室へ。あるプロジェクトの委託者が来研。以前トンネルのような建築を創りたいとこのブログで書いたが、そんなコンセプトで作った5つのモデルを見せて議論。トンネルのようなというときそのトンネル自体はなんだかよく分からないものであってほしいのだが、、、果たしてそうなっただろうか?
夜また病院へ。昨晩同様付き添いで隣のベッドに横になる。岡田温司『半透明の美学』岩波書店2010を読む。透明でもない不透明でもない、2項対立の中庸を掬い上げようと言うそのコンセプトは僕の建築の規則と同じである。そしてそうした中庸は絵画の色で言えばグレーである。そしてグレーを追求したアーティストとして、ゲルハルト・リヒターが挙げられる。僕はリヒターのグレーシリーズは知らないが、彼の描こうとするものがAでもなくBでもないものであることはよく分かる。
今朝プレゼンしたトンネルのような部分を「なんだかよく分からないもの」にするためにリヒターは参考になるかもしれない。ホワイトシリーズの白のような白では無い色、淡い雪のような綿のような白の上によく分からない色が乗っかった全体の色。これを使ってみるか?

何をやるかではなく、何をやらないか!

On June 29, 2011
by 卓 坂牛

朝一で栃木のクライアントと打ち合わせ。往復の車中で楠木健『ストーリーとしての競争戦略』東洋経済新聞社2009を読む。ビジネス本に興味は無いのだが帯に12万部突破、ビジネス大賞2011受賞と書いてあるのでつい読んでみたくなった。著者は一橋大学の教授である。学者など実際のビジネス成功者の経験談に比べれば何の役にも立たないと謙遜するが、様々な企業の戦略家と会って話をしていると語ることが分析に終わり戦略になっていないと言う。戦略とは「他と違うことをすること(doing different)」だという。そのためには「何をするかではなく、何をしないか」を考えなければならないという。これは名言である。「やりたくないことをやってはいけない」というのは僕の座右の銘でもある。しかしこれは残念ながら戦略にはなっていない。戦略の場合は本能の入る隙間は無いからである。僕のそれは残念ながら本能的なものである。篠原一男は住宅以外はやらないと決めて自分のSP(strategic positioning)を明確にした。実は住宅以外の設計依頼もあったのだがそれは弟子にやらせて自分は横で見ていたのである(晩年はそのSPを崩したわけであるが)。これは戦略だったのか本能だったのかそれは定かではない。
夕方研究室で研究プロジェクトの打ち合わせ。助手のT君にいろいろと注文。設計のリズムを覚えてもらうにはいくつかやっていくしかない。夜4年の製図エスキス。始まるころに電話。オフクロ入院。おっとあせるなあ。とりあえずエスキスを全員してから病院へ駆けつける。お茶の水のS病院。僕が浪人中も彼女はここに1年間入院していた。あれから30年以上よく生きていきたものである。東京に移るなりこんなことになるとは!オフクロに呼び戻されたのかもしれない。今日は病院で寝よう。

建築も文章も時間切れで決まる

On June 27, 2011
by 卓 坂牛

10+1の原稿を朝から推敲する。毎度のことながら締め切りの日になっても納得いくものにならない。建築も文章も同じだが最後の最後まで胃が痛い。日建の先輩だった加藤隆久さんが丹下事務所時代に丹下さんからこう言われたそうだ「建築は最初のアイデアで決まるか、時間切れで決まるかどちらかだ」。「最初のアイデアで決まったのは何ですか?」と聞いたらそれは目白のカテドラルだそうで他にはないとのこと。天才丹下にして最初のアイデアで決まるのは一つなのだから凡才たちは時間切れで決まるのだと言われた。というわけで加藤さんには最後の最後の最後まで「これでいい」とは言われなかった。そのせいかどうか分からないけれど自分で作っていても何時まで経っても現場に入ってもこれでいいと言う気持ちにはなれないし、文章も全く同じで何処まで直してもこれでいいとは思えない。八束さんが何かの本のあとがきで本と言うのは脱稿したその瞬間に最初から書き直したくなると書いていた。八束さんにしてそうならばもはや私などがそうでないはずもない。

九段会館はファシズム建築か?

On June 26, 2011
by 卓 坂牛

理科大は靖国神社の鳥居の前にある。そばには3.11の時に天井が落ちた「九段会館」がある。この建物は1934年に竣工し、当時は軍人会館と呼ばれ退役軍人が靖国神社へまいった後に集い泊まる施設だったそうだ。この建物のデザインの特徴である瓦屋根は国立博物館などとともに20年代後半から30年代の典型的なナショナルデザインだった。しかしそれをファシズムの統制下の建築と見るかどうかでは井上章一と八束はじめで意見が割れている。井上はモダニズムの白亜の大阪軍人会館を例に出しながら瓦はファシズムの統制ではなかったとし、八束はファシズムにつながると言う。そして八束のこだわりを推測した井上はそこにドゥルーズとガタリのリゾームがファシズムの理由として挙げられていることを指摘。本当かどうかはよく分からないが、ファシズムがリゾーム的な抑圧の権力関係の中に生まれるのであろうことは想像に難くないし、一方世の中は全てリゾーム的な権力関係の中にあるわけでそれをファシズムの因果にしたらすべてがファシズムになってしまうと言う井上の言うこともその通りである。どちらに分があるのかは全くわからないしでも面白そうな論争である。(井上章一『夢と魅惑の全体主義』文春新書20

近代の超克とポストモダニズム

On June 26, 2011
by 卓 坂牛

朝から原稿を書くための最後の参考書、子安宣邦『「近代の超克」とは何か』青土社2008を読む。「近代の超克」とは昭和17年に行われた座談会のタイトルでありそこでは当時のグローバリズムに対するアジア的共同体の提言がなされた。これには前段があり、大東亜戦争の理念的標語である(日本の)「世界史的立場」(日本は世界史の舞台に立つ使命がある)という哲学的言説(世界史の哲学)が京都の若い哲学者によって語られ、世界にもそれを認める発言があったという。そして建築もそうした言説に右往左往しながら、世界史の建築を作らんとしたわけである。誰かが言っていたが、日本はこの時期すでにポストモダニズムを通過してしまったのでポストモダニズムの時期にはもはやその運動が盛り上がらなかったと。そんな気はしないでもない。しかしそれを言うならイタリアでもドイツでもそんなことがちょっとは起こっていたわけである。
読み終わって原稿執筆。当初4,000字と言われてそれは時間的にも内容的にもつらいということで2,400字としてもらったのだが、、、書いたら限りなく4,000字に近くなってしまった。計画能力が無い自分に呆れる。

なぜモダニズム建築は保存されないのか?

On June 25, 2011
by 卓 坂牛

午前中早稲田の発表。消費性がテーマ。消費社会におけるデザインはその差異性だけが問題となる。しかるにその差異は瞬く間に類似デザインによって埋められ陳腐化する。
とある学生はこんな発表をした。
世の中には惜しまれつつも解体されていく建物と大事に保存活用されていくものがある。例えば前者は旧都庁で後者は東京駅。前者が解体に追い込まれたのは一般の世論がついてこないからだと言う。つまり保存されるかどうかは建築に内在する価値で決まるのではなく、人々が決めると言うわけである。
ではこうした民意が巻き起こるためには何が必要か?それはスタイルの視覚的差異性。つまり和風、擬洋風、モダン、ポストモダンという日本の建築様式の流れの中で、現在がポストモダンなら民意を巻き起こすヴィジュアルギャップは2つ以上前のスタイルでなければならない。すなわち洋風以前でなければならない。一つ前(モダン)は差異が少なく数多ある建築の中でそれが保存すべきものとして選ばれる理由が見つけられない。だから現在叫ばれる(専門家の中で)モダニズム建築の保存が可能となるためには、ポストモダニズムネクストが生まれなければならない。そうしてモダニズムが二つ前のスタイルとなり、同時代の中での差異性を獲得できた時、それは保存すべき権利を得るというわけだ。
笑いながら聞いていたけれどこれが事実だと思わざるを得ない。
だからこの仕組みを覆す方法こそが必要なのである。

短パンTシャツ

On June 24, 2011
by 卓 坂牛

信大修士の学生とゼミをした。修士論文の進捗と概要を聞く。相変わらずノロマである。変らねえなあ。でも自分が教育してきたのだから文句は言えない。指導教員が変わったからって急にやることがてきぱきとするわけもない。
東京は暑い。節電なんだか冷房の効きがそもそも悪いのか分からないけれど部屋の温度は下がらない。30度近い部屋に缶詰になって額に汗して頑張る姿は「微笑ましい」を通り越して「痛々しい」。
実は我が家も最近冷房が壊れた。うちは古いマンションなので屋上にクーリングタワーがあり、各戸のチラーと繋がり、そこでできた冷水を各室のファンコイルにポンプで送る方式。そのポンプが最近焼き切れた。節電にいいから耐えられなくなるまで放っておいている。なので家に帰っても額に汗である。せめて扇風機を買おうかと思い例のダイソンのと思ったが売り切れのようである。
しばらくは我慢大会の様相である。というわけでこれからは30度越えたら短パンTシャツで行動しますがこれは自己防衛手段ですので御容赦。

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