「フレーム・厚み・周辺」
角窓(JT200611)(図1)
建築はフレーム
その昔恩師に「人は建築に馴れるものだ」と言われたことがある。この言葉は建築が時間とともに意識の領域から消え、空気のような存在になっていくということを意味する。それは建築の身体化を示す一方で、建築が時間とともに生き生きとした活力を失っていくということも意味しそうである。それはどうにも癪な話でなんとか「馴れない」建築「活力を失わない」建築はできないものかと考えた。しかしそれは原理的にかなり難しいことに気づき始めた。なぜなら建築はじっと動かない石のようなものだからである。いや石だって精神的な活力を与えてくそうだが、生きとし生けるものにはかなわない。そこで建築の活力は建築それ自体からではなく建築以外の何ものか、すなわち外部の環境や、内部のアクティビティなどが建築と作用して生み出してくれるのではないかと考え、建築はもっぱらそれらをフレーミングする額縁のようなものでいいのではないかと思うようになった。
建築はフレームであるという考えはおそらく「連窓の家」(JT200211など)という縦にも横にも連続した窓を持った家をいくつか作った時から無意識に考えていたことだと思う。そんなフレームのヴァリエーションとして大小の窓(JT200410)や角窓(JT200611)(図1)という住宅、を設計した。そして『Architecture As Frame』(2010三恵社)という本を作ったころにこの考えはかな自覚的になった。昨今さらにこのヴァリエーションとして出窓を意識的につくるようになった。
つまり昔は切り取る風景の形に意識を注いだが、今は切り取るフレームそれ自体の形状と効果に関心が移ってきた。
でこつる建築
出窓を作り始めたのは上述したフレームとは別の理由もある。それは歴史的な視点からの考えによるもものである。
モダニズム以前の組積造建築は、壁が厚いので開口部の「だき」が大きい、加えて装飾的なため「でこぼこ」感があった。そしてその表面は往々にして切った石のざらざらした状態が現れていた。つまり「でこぼこ・ざらざら建築」だった。一方モダニズム建築は構造を壁から分離して壁は薄くなり窓のだきも小さく装飾も忌避され外観は「のっぺり」し、その表面は「つるつる」となることがよしとされた。すなわち「のっぺり・つるつる」建築となったのである。さてその後である。モダニズムから飛躍してさらに様式建築に戻ることなく、新たな外観のあり方を探るなら二つの方向性がある。一つは「のっぺり」していても「ざらざら」している建築。二つ目は「でこぼこ」しているが「つるつる」している建築である。出窓は「でこぼこ」な様相を呈するので、ここで様式建築にもどることのないように、外断熱の上にシリコン系の「つるつる」銀塗装を施し「でこつる」建築を目指すこととした。
厚みがフレームを壊す
話を内部に戻そう。この建物には外部を切りとる出窓フレームだけではなく内部から内部に開いた内部フレームもある。これら全体に共通して言えることはそれらフレームの「だき」が比較的大きいこと。そしてその「だき」が壁と同素材(コンクリート)同色だということである。外部に対するフレームはほとんど出窓なので「だき」は構造体200~300、に出窓分100~200を加えて300~500ある。これは確かに結構大きい。また外断熱をしているので内部間仕切り壁はほとんどがコンクリート構造体である。よってその厚みは200~300+増し打ち20、20の計240~340である。やはりこれも乾式壁に比べればちょっと厚い。
さてフレームの「だき」が大きく、あるいは「だき」がそのまま壁となっていて、それが壁と同素材同色だとすると何がおこるか?フレームを通してフレーム内の対象を見ているつもりが、フレームの「だき」に現れているところの壁というフレームの周辺を意識することになる。
フレームの外の風景を美しく切り取るためのピクチャーウィンドウは壁に穿った穴の周りにそれこそ額縁を回して「さあこの中の美しい風景を見よ」と言わんばかりである。それに比べると、額縁が無く、壁の断面としての「だき」が大きいフレームはフレーム内の対象を見ながら周囲に気が散るフレームである。
視覚芸術学者のノーマン・ブライソンは、人は見ているもの(フレームの内)と、見ていないはずのもの(フレームの外)をトータルに表象する可能性を持っていると言う。そしてその表象を可能足らしめるものについてこう言う「フレームによって排除される不可視なものを表すことができるのは、フレームそれ自体を崩すような技法のみである」(「拡張された場における<眼差し>」ハル・フォスター編『視覚論』平凡社2007所収」。近代的視覚はカメラの普及によって主体と対象の堅固な対応関係の上に成立したが、人間の表象とはカメラ的ではない。図である対象を見る視覚と地である床壁天井への意識が相互浸透的なはずである。ここではそれを建築化しようとしている。
フレームとその周辺が作る関係
ではこのフレームの地としての周辺について述べてみたい。外部フレームは各個室の外壁側についているのだが最も大きなそれは一階の広間に設けられている。建物前面の公園を一望するこのフレーム出窓の「だき」と「周辺」の壁天井はすべてコンクリート打ち放しの上にこげ茶系黒色のEPをスポンジで叩いた仕上げである。ここは天井が高いキュービックな空間である。
これに対して内部フレーム(内部から内部いに開くフレーム)はこの黒い広間上部の吹き抜け周りの4つの個室とそのロフトに設けられている。このコンクリート壁に穿たれたフレームは個室のアクティビティを滲み出す。このフレームの「だき」と「周辺」の壁はコンクリート打ち放し壁に白あるいはグレーのEPをスポンジで叩いた仕上げとしている。広間、吹き抜け双方において、このフレームの「だき」と「周辺」は同素材、同色である。この吹き抜けは断面形状が建物全体の短手断面と相似的なので家の中央に縮小したヴォイドの家が現れたように見える。現代住宅において可変的な個室に対して変わらないものとしてこの吹き抜けを位置づけるためにこれを筆者は「内の家(House House)」と呼ぶことにした。
家族のリテラルな関係性が意識的に作られる黒い広間と家族のフェノメナルな関係性が無意識的につながる「内の家」の連結がこの家の核となっている。加えてその両側にフレームを介した外部や個室が繋ることでこの家の中心的な構造ができあがっている。
住宅特集 2013年5月号 所収