「メタボリズム・ネクサスに学ぶこと」
八束はじめ『メタボリズム・ネクサス』(オーム社、2011.4.23刊)
1. ネクサス(つながり)の意味するところ
本書は著者八束はじめ氏の前著『メタボリズム──一九六〇年代
日本の建築アヴァンギャルド』INAX叢書1997(吉松秀樹と共著)に続くメタボリズム研究書である。前著がメタボリスト個々の活動に焦点を当てていたのに対し、本書はタイトルの「ネクサス」(つながり)が示す通りメタボリズムの関連系に重点が置かれている。よってメタボリズムのみが描かれているわけではない。関連系の主軸は中心的メタボリストの師、丹下健三である。その意味ではメタボリズムという局面で切り取った丹下論とも言えるだろう。しかしネクサス(つながり)の持つ意味はそれにとどまらず、さまざまな事件の因果の可能性を星座の如く布置した著者の描き方をも示すものである。
よく言われることだが、ある芸術運動の輪郭(何処までがその領域内で何処からがその外であるか)を見定めるのは難しい。如何なる場合も中心がありその周縁がある。加えてメタボリズムは初期メンバーである菊竹清訓、黒川紀章、大高正人、槇文彦といった面々がそれぞれの理論を展開した総合であり、ひとつの強い理念に基づく活動ではない。メタボリズムの代名詞のようなカプセル、そしてメタボリズム(新陳代謝)の意味自体もメタボリズムという事象の一側面でしかない。よってその活動の総体を既述の通り星座を布置するが如く(ネクサスとして)描いたその描き方は著者の卓見である。
2. メタボリズムのアクチュアリティ
上のように書くと本書はメタボリズムにまつわる膨大なデーターベースであるかのような誤解を招きそうなので、著者が読者に期待する本書の目的についても記しておきたい。
著者は国家を擬人化し、フロイトの用語法を援用して国家の規範を「スーパーエゴ:超自我」、その対極にある欲望の原理を「イド」、そのイドを理性的にコントロールするものを「エゴ:自我」と呼ぶ。そして近代日本における建築家はメタボリズム(60年代)の時代まで建築的スーパーエゴ(規範)を掲げ、それを形(アルターエゴ)にしてきたと述べる。その時代までの建築家に建築的スーパーエゴが見えていたのはもちろん彼らの内面にアプリオリにそれらが胚胎していたからではない。文化としてのスーパーエゴが建築的スーパーエゴを喚起した結果である。その中核をなす文化的事件が「近代の超克」であり「世界史の哲学」である。これらはいずれも戦争へ突入する時期に世界の中での日本のプレゼンスを再確認し日本の参戦を正当化する言説でもあった★1。1940年代におけるこれらの文化的スーパーエゴをアルターエゴ化した建築家のひとりは丹下健三であり、20年後にその弟子たちは丹下のこうしたDNAを受け継ぐことになる。
著者はメタボリズム以降70年代は建築的スーパーエゴが後景化し、磯崎新、篠原一男という2人の建築家が「エゴ」を語る時代となったと述べ、そして世紀をまたぎ、現在では「エゴ」を通り過ぎ欲望「イド」のレベルで作られる建築が横行する時代になったことを嘆く。「近年の、とりわけ日本に見られる、繊細で柔軟だが、超自我とは無縁で個人的な身体感覚のみによって成立しているような「建築作品」は……やはり無意識(イド)の産物であることによってネオリベラリズムの無神経な都市を補完している……補完は批判ではない」と現状を厳しく批判する★2。
またネット上のサイト《Art and Architecture Review》に「こんな時だからこそ、カプセルばかりでなくメガストラクチャーを」と題した論考を寄稿し、19世紀前半の理想の乏しいドイツ文化の総称である「ビーダー・マイヤー」を現代建築の閉塞感と重ね合わせ、これを超えねばならないと読者を鼓舞する★3。特に震災後の日本において真に考えなければならないことはソフトの意味でのメガストラクチャではないかと主張する。つまり本書を通して八束氏が読者に期待することはメタボリスト達が持っていた「スーパーエゴへの意志」に学べということなのである。
3. ナショナリズムの時代
建築的スーパーエゴが強まる時代は既述の通り文化、政治のレベルで国家が前景化するナショナリズムの時代である。大澤真幸が指摘する通り、「ナショナリズムの本質は、背反する二つの志向性の交叉に、すなわち特殊主義的な志向性と普遍主義的な志向性の交叉にこそある」★4。これは八束氏が「インターナショナリズムvsリージョナリズム」と題した論考で冒頭述べている以下の言葉と相同的である「まず帝国主義という一種の政治―経済上のインターナショナリズムがあって、次にナショナリズムが生じたのであって、その逆ではない」★5。大澤の言葉でパラフレーズすれば、インターナショナルという普遍がナショナルという特殊を生みだしているということである。
さてナショナリズムのこうした構造を示したのは、著者の指摘するメタボリストのスーパーエゴの内実を補完するためである。メタボリスト達は丹下健三のように作る形の中に明らかな日本的ヴォキャブラリーをはめ込むことはなかった。その意味では一見インターナショナルな建築家と見えなくもない。しかし一方で彼ら及びそのネクサスには強く日本を支える意思が芽生えていた。それはさまさざまな状況の結果である。戦後の高度経済成長の牽引役としての自覚。インターナショナルな状況との対峙。日本製メタボリズムへの高評価、などである。こうした特殊と普遍の交叉の上で彼らはナショナルな建築家であらざるを得なかった、言いかえればスーパーエゴを掲げざるを得なかったわけである。
さて21世紀に入り現代日本は再び保守化していると言われている。それは大澤によれば、多文化主義の中で世界的普遍を語る困難が局所の(国家の)普遍を代理として対象化する中に生まれると説明される★6。こういう時代に戦争並みの災いが起こると国内的な普遍としての「救済」がナショナルな意識と連動して世に広まる。「がんばれニッポン」はまさにそうした空気を表わしている。それは必然でありわれわれは可能な限り連帯意識を持ってことにあたらねばならぬことは当然である。しかし問題はそのやり方である。われわれは60年代のメタボリスト同様なスーパーエゴを掲げてことにあたれるのだろうか?
4. 新たな架橋
既述の著者の論考「こんな時だからこそ、カプセルばかりでなくメガストラクチャーを」において著者は街を立て直す大枠をソフト/ハード双方から考える必要性を説く。その通りだと思う。そんな仕事に久しく手を染めていない私などはそう言われてもどこから手をつけていいのやらと呆然としてしまう。それは著者も言うとおりそんな簡単なことではない。大学教育の根底をも覆すような話でもあるかもしれない。しかし、とは言えこれをきっかけに著者が「ビーダー・マイヤー」と嘆く現代の建築状況を180度転回させることは必然であろうか?
言い換えれば、グローバル–リージョナル、普遍–特殊、メガ–ミクロ、全体–部分、都市–住宅という相関する対概念の中で恐らく後者の概念に閉塞しがちな現在の建築家の立ち位置を強引に前者の上に引きずり出すことが得策なのだろうか? というのも被災地のみならず、日本の都市や町を今後いかに手入れしていけばいいのかについて、そう簡単に答えが出ることとも思えないからである。単にきれいな青図(メガストラクチャ)を描けば終わるような話でもない。満身創痍の傷口にひたすら絆創膏を貼り続けることしかできないところもあると僕には思われる。それでも人々の心に安堵が訪れるようなそういう場所を作ることをわれわれは考え続けなければなるまい。そこにおいては後者の立ち位置にいることがむしろ効果的な場合もあるのではなかろうか?
ただし後者に立ち位置を構えようとも、前者と交信する努力はせねばなるまい。ミクロな発想(後者の立ち位置)をメガな全体(前者の立ち位置)に位置づける展望、言い換えれば二者択一ではなく双方をつなぐ架橋の構築が求められる。
メタボリズムの時代の巨匠たちから学ぶものがあるとすればそうした全体を見渡す広い視野とヴィジョンの構築力だろうと思われる。
さかうし・たく 1959年生まれ。建築家。東京理科大学工学部教授。1983年、東京工業大学工学部建築学科を卒業後、UCLA大学院建築学科修了。1986年に東京工業大学大学院修士課程修了。日建設計勤務を経て、1999年よりO.F.D.A associates共同主宰。主な作品に《リーテム東京工場》《角窓の家》ほか。著書に『建築の規則──現代建築を創り・読み解く可能性』。
註
★1──子安宣邦『「近代の超克」とは何か』(青土社、2008)
★2──八束はじめ『メタボリズム・ネクサス』(オーム社2011、p.434)
★3──Art and Architecture http://aar.art-it.asia/u/admin_edit3/yh9ECFjdZ8V0nuO3IQpJ
★4──大澤真幸『近代日本のナショナリズム』(講談社2011、p.14)
★5八束はじめ「インターナショナリズムVSリージョナリズム」『建築の20世紀終わりから始まりへ』(デルファイ研究所収1998, p.167)
★6──大澤前掲書
10+1webサイト2011年7月号 所収