「書評 アートと建築の融解」
瀧本雅志訳
『アート建築複合態』
A5判変形 376頁 鹿島出版会
本体4,800円+税
9年前、2005年の本誌(『SD2005』)では「美術と建築の距離」という特集が組まれ、松井みどりさんが美術の側から、私が建築の側から両分野が近接しつつある当時の状況を論じた。その後、双方の近接については例えば、東京都現代美術館での展覧会「建築、アートがつくりだす新しい環境――これからの“感じ”」展(2011年)を始め、多くの論考や展覧会が同様のテーマを扱うこととなった。
美術史に即して考えれば、ハンス・ゼードルマイヤーが言うように芸術におけるモダニズムとは表現ジャンルの自律性を高めることにある。そのモダニズムが瓦解するなかでこの自律性は崩壊し、それゆえ境界線が曖昧になるのは必然であった。
ハル・フォスターはそうした瓦解の時期にまで遡り、双方の関係を繙いている。本書の冒頭で著者は「この50年にわたって、多くのアーティストたちが、絵画や彫刻や映画をその周囲の建築空間に対して開かれたものにしてきた」と述べている。著者の視線は60年代に向けられておりアーサー・ダントーが芸術の終焉を指摘した時期と重なってくる。
60年代のアートシーンといえばアメリカでポップ・アートが興隆し始めるころである。フォスターは「ポップ」が建築とアートを引きつけ合うきっかけとなったことを指摘し、ふたりの理論家に言及する。ひとりはレイナー・バンハム、もうひとりはロバート・ヴェンチューリである。バンハムはポップカルチャーに深い理解を示し、その建築的実現におけるテクノロジーの必要性を説いた。一方ヴェンチューリの思想はモダニズムが排除してきた装飾や広告の中にモダニズムを乗り越える要素を見出すもので、これはアメリカンポップアーティストが行ってきたことと直結する。
本書は「イメージの建築【★建築にルビ=ビルディング】」という第1章と「イメージに抗する【★抗するに傍点】建設【★建設にルビ=ビルディング】」という最終章の間が3部に分けられている。第1部はグローバル・スタイルと称して、ノーマン・フォスター、レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャースについて述べられる。彼らとアートのつながりは上述のとおり、ポップの精神とテクノロジーの緊密性に関係する。第2部は「アートと相まみえる建築」と題し、ザハ・ハディド、ディラー・スコフィディオ+レンフロ、ミニマリズム系ミュージアムの設計者が論じられる。ここではポップ・アート、コンセプチュアル・アート、ミニマリズム・アートに影響を受けた建築家として彼らが描かれる。そして第3部は「ミニマリズム以降のメディウム」というタイトルでリチャード・セラ、アンソニー・マッコール、ドナルド・ジャッド、ダン・フレヴィン、ロバート・アーウィン等が論じられる。ここではタイトルどおりミニマリズム以降、アートを成立させるメディウムの多様性に話が及ぶ。
そして最終章は著者とセラの対談である。著者はセラの表現態度に一定の評価を示しながら、それをもって現代建築への批判としている。それはひと言で言えばイメージ建築批判である。イメージ建築とはポストモダニズム時代に重要となった「イメージされやすさ(imageability)」を「ポップ・アート」と共有した建築である。イメージ建築はその後90年代には姿を消したかに見えたが、じつは、消費社会が存続するかぎりにおいて現代建築の中に引き継がれていると著者は見る。そしてこのポップのエッセンスに疑問を投げかけ、その対極をゆくセラの彫刻の中に「イメージしやすさ」に抗う精神を見出し、現代建築批判として最後に提示する。
ところでフォスターは本書執筆と同じ2011年にThe First Pop Age【★The~=イタリックに】(邦題『第一ポップ時代』中野勉訳、河出書房新社、2014年)を著し、ポップアーティストたちは世の中のゴミ(彼らの素材)を全面肯定しなければ否定もせず、アイロニカルな肯定をしていたのだと説明している。一方それに端を発する現代のアート・建築は世界を駆け巡る流動資本の投資対象としてメルトダウンし、過剰なヴィジュアリティを奪い合い、アイロニー無き「イメージしやすさ」だけが前景化している。本書を含めてフォスターのいくつかの建築・美術批評はこうした状況を再考するきっかけとして貴重な視座を与えてくれる。
(さかうし・たく/建築家、東京理科大学教授)