対談「質料としての素材考 美学のフィールドからの視線」[谷川渥氏へのインタビュー]
谷川 渥
坂牛 卓
(敬称略)
曖昧なモダニズム
坂牛 「素材」という言葉をテーマに、特にモダニズムを巡る状況を美学の専門家である谷川先生にお話をお聞きしたいと思います。まず、素材を広く質料と捉え、質料がモダニズム期にどう捉えられていたかというあたりから考えてみたいと思います。
モダニズムの建築というのは、新しく出てきた素材であるコンクリート、鉄、ガラスによって大きくジャンプしたわけですが、その建築史での評価を見ますと、多くが構造革命、つまりは形式の革命だと言われる。それはロンドンやパリの万博などで建てられた大空間や塔をみれば明らかなように、構造であり形だ、と思うわけです。それが建築を変えた、と。しかし、その時に現れた剥き出しの鉄とかコンクリート、あるいはガラスの表面などに、その素材自体つまり質料的な部分に人々は、どのような感情を持ったのか? そこにも革命的な受け止め方の変化があったのではないかという疑問があるのです。しかしそうした側面はあまり語られない。それは語らない視線があったからだと感じているのです。あったとするとそこには、美学のバックボーンがあるのではないかと思っているのですが。
谷川 ポストモダニズムという言葉が出てきてから、逆に「モダニズムとは何か」という問いが盛んになりましたね。美術の方面では、ボードレールあたりの美術批評から始まるフランス系のモダニズムと、1960年に『モダニスト・ペインティング』を著したアメリカのグリーンバーグがヨーロッパのモデルニテの問題とニューヨーク派を強引に結びつけたとも言えるモダニズム概念の、大きく2系統あると思います。
美学というのは18世紀の中頃に、ドイツ系の学問として起きてきましたが、それは反バロックだったのです。つまりバロックの質料性の過剰――物質性といってもいいのですが――教会、貴族、王家のいずれにせよ、権力と莫大な金に支えられたゴテゴテした質料性過剰のバロックがヨーロッパを一世風靡していたわけです。その中からある種の禁欲主義として出てきたのが、美学だと思うのです。まず最初は趣味論という形で出てきました。趣味(テイスト)というのは元々が味覚(テイスト)ですから、物質を水分に溶かして舌で味わうという質料性の概念を、美学の中心概念として持ってきたわけです。ところがカントは趣味判断=美的判断という形の非常に強引な操作の中で、味覚から質料性を排除するような理論を展開し、そこにある種の逆説が起きたと、ぼくは見ています。絵画の問題で簡単に言うと、線と色彩という非常に広い意味での二元論があって、美学は線を採ったわけです。その後、基本的にカント流の純粋主義あるいは禁欲主義がずっと続いてきたというのが、グリーンバーグ流の見方です。
ところがグリーンバーグのいわゆる「フォーマリズム」を、よく検証してみると、そのフォームという言葉が非常に曖昧に使われている。普通、フォームはコンテントとの対概念です。すなわち「形式(フォーム)と内容(コンテント)」。ところが元々のカントのフォームの概念は、「フォルム(形相)とマティエール(質料)」です。そのフォルムは、必ずしも目に見えなくてもいいある種の本質性みたいなもので、ギリシャ的概念でのエイドスです。それに対して「フォームとコンテント」と言えば、内容と外側に出ている目に見える形ということになります。その場合のフォームは、ギリシャ語のモルフェーにあたります。つまり目に見える形。そこのふたつの言葉が入り込んでいるのです。
グリーンバーグのフォーマリズムでは内容(コンテント)を排除します。絵画においては、図像学的なシュールレアリスムなどは基本的に無視する。とりわけダリなどは全く論じられない。その一方で、グリーンバーグは、メディウムということを盛んに言うわけです。つまり絵の支持体である布や顔料の性質など、普通は物質と言ってもいいようなものに意識を振り向けることを、フォーマリズムと呼んでいるわけです。コンテントを排除するが、マティエールは排除しない。グリーンバーグはフォーマリズムという言葉を使いながら、芸術の物質性に非常に敏感になりつつ、内容(コンテント)つまり図像学的なものを排除しようとしたのだろうと言えます。
総じてモダニズムは、ある種の新古典主義といってもいいと思います。要するに線を採る側だったのだろうと。ところがル・コルビュジエの直線と曲線の建築に見られるように、線を採る――ある種禁欲主義的な――モダニズムの内部には質料性を抱え込んでいます。つまり、モダニズムを非常に広い意味でフォーマリズムという言葉で置き換えると、そのフォームの概念の曖昧さゆえにその中に孕まれているコンテントとマティエールという二重の対概念のうち、マティエールの問題がどうもきちんと考えられてこなかったのではないだろうか、という気がしているわけです。
坂牛 ル・コルビュジエと言えば、1997年に『ル・コルビュジエのポリクロミー』という本が出版されました。それは、彼が30年代に作った壁紙のデザインカタログの再生に付した、建築の色に関する論文等をまとめたものです。ル・コルビュジエはモジュロールという人間定規をつくり、『モジュロール』という著書もあります。それはある種の形式です。ところが、コルはカラー・キーボードもつくっていた。つまり色という「質料のモジュロール」ですね。しかしそれは割と知られていません。当時のメディアがカラーを扱いにくかった(おそらく高額だった)ために、コル自身プロパガンダできなかったとも言えますが。後世の検討の俎上にもあまりあがってこなかったわけです。
谷川 ル・コルビュジエの概説史を読む限りでは、その色については論じられていませんでしたね。しかしそれ以前には、ゴットフリード・ゼンパーがポリクロミー(多色性)の問題を盛んに取り上げています。つまり新古典主義の白や灰色の建物はモノクロームで面白くない。そこで多色性を復活させなければいけない、と言っているのです。ところが芸術史の概説書には、ゼンパーは物質や材料を重視したとしか書いていない。しかしそのゼンパーの材料論も色の問題と非常に絡んでいたところがある。新古典主義的なあるいはモダニズム的な禁欲主義に対して、多色性の復活をいち早く19世紀後半から20世紀初頭にかけて言っているのですね。哲学的に言えば、色や音、匂い、味、それらはすべて質料です。その今まで考察されなかった質料性の問題が、モダニズム内部から膨れ上がる形で出てきたのが、ポストモダニズムだろうと思いますね。単線的にモダニズムからポストモダニズムになったはずではないですからね。
あまり知られていませんが、マルクスも『資本論』の中でこんなことを言っています。イギリスの産業革命が一体われわれに何をもたらしたのかというと――ロック流に言えば――第二次性質を消した、と。そのジョン・ロックの言う第一次性質とは、形や重さ、大きさですが、匂い、味、色、音といった普通は二次的だと思われるものを抹殺してきている。それが産業革命の一番の罪だと言っている箇所があります。ところが美学や芸術などは、全てそうした第二次性質的なものをどう考えるかが、一番の課題だと思うのです。建築の場合には、非常に物質的な営みなので、大きさや形や重さなどといった第一次性質がまず一番に来るけれども、実はそこで、第二次性質的なものをどう考えるかが大きな問題なのですね。
坂牛 グリンバーグもカント美学を変容して、この第二次性質に接近していたようにも思えます。また、この第二次性質(質料)に言及し称揚している人にバシュラールがいますね。
谷川 バシュラールは「物質的想像力」(イマジナシオン・マテリエル)という概念を提示しました。しかし「美学は形の科学だ」と言ったスーリオはその概念を批判してます。スーリオに言わせれば、バシュラールの「物質的想像力」というのは、基本的には文学作品の中に現れてくるいろいろな記述――例えばポーの『アーサー・ゴードン・ピムの冒険』における水の分析――への言及は物質を扱っているけれども、それはひとつの形式である、と批判しているんです。結局はフォルムであって、別にマティエールではない、と。
坂牛 形式化された質料ということですかね。
谷川 それでもバシュラールは、哲学的に質料性ということに意識を振り向けたという意味で、非常に大きな役割を果たしましたね。空気とか水とか、土とか……。
坂牛 大学で建築を教えている知人にこうした質料の重要性を話しても、「それは言葉にできないし、評価しようがない。結局は直感的に、解るやつにしか解らない、格好いいか悪いか、という判断になってくる。それでは教育にならない」、という反応が返ってきました。
谷川 とは言っても素材あるいは物質の持っている象徴性といった問題は議論できますね。それは、とりわけガラスに集約的に出ていたような気がします。例えばドイツの小説家・シェーアバルトが「ガラス建築」について書いたりする。ブルーノ・タウトはそれを受けてガラス・パヴィリオンを計画する。ガラスはある種の神秘性や宇宙性を持っている。ですからある物質が象徴性を帯びるということでの言語化はある程度できると思うんです。
カントの『判断力批判』を読むと、彼は質料性を排除しようとしているはずなのに、非常に古い認識がポロッと出てくるところがあるんですね。例えば赤が崇高などといった、色と既成の言葉を結びつけて、その象徴性をとくとくと語っているという、信じがたい箇所があるんですよ。ヨーロッパの古い認識みたいなものがカントの中にもそのまま出てきている。ゲーテの色彩論の中にも似たようなものが出てくる。ゲーテのほうがより精緻に色のシンボリズムを論じていますからね。
そうした問題は、ヨーロッパにはずっとあったと思うんです。最近、カンディンスキーやモンドリアンなどが影響を受けた神智学がよく研究されていて、彼らはただ単に抽象美術を標榜して構成的にやっていたのではなく、実は色の神秘主義といった思想が背後にあったのだという見方が増えてきました。ですから、抽象美術というのも、単に観念的な問題ではなくて、非常にシンボリックな面を持っていたのかもしれない。もちろん表現主義や象徴主義との関連は非常に強いですからね。
―質料における素材―
坂牛 質料全体およびその一部としての色の問題をうかがってきました。次に素材に備わるテクスチャーが美術・美学の中でどう扱われてきたのかをお話いただけますか。
谷川 理論の歴史で言うと、アロイス・リーグルが「ハプティッシュ(触視的)」と「オプティッシュ(視覚的)」という概念をつくりました。
かなり曖昧な二元論なのですが、視て触っているような感じがハプティッシュで、ただ視えるというのがオプティッシュ。つまりザラザラしている、ツルツルしているというのはハプティッシュです。
一般の芸術史の教科書では、リーグルを「芸術意志(クンストヴォルレン)」という言葉を考案し、ゼンパーに対立した人物だと書いてあります。しかし「ハプティッシュ」と「オプティッシュ」という概念が最も重要だとぼくは思うんです。これは、ゼンパーが多色性や材料と色との関係を考えようと主張していた時期と期を一にしています。ヴェルフリンの言う「絵画的」というのも「ハプティッシュ」の概念だと言っていいでしょう。
またグリーンバーグの「オプティカル・イリュージョン」という概念が、建築材料を考える上で有効に思えます。これは古典絵画のように絵画空間の中に入り込んでいくような幻想ではなく、ポロックの絵に眼が吸い込まれていくような幻想です。二次元性を感じさせながら同時にある種の深みを思わせるようなイリュージョン。これを建築に適用することができるのではないでしょうか。例えば、安藤忠雄の打放しコンクリートに対面した時、本当にコンクリートの肌理を視ているのだろうか、という疑念があります。そこにはコンクリートを透過してしまっているような、むしろ物質性を感じさせない観念性があります。剥き出しの素材だからといって、必ずしもわれわれの意識がそれと対面しているわけではありません。ある種のオプティカル・イリュージョンの中にわれわれは常に生きているわけです。剥き出しの内臓を想わせるチューブを顕わにしたポンピドゥー・センターは最初こそ醜いとの非難がありましたが、完成してしまうとそれを非常にシンボリックなものとして視てしまうということがあります。
坂牛 それは、素材のテクスチャーを志向しても無意識のうちに眼は形に向かってしまうということでしょうか?
谷川 そこが難しいところですね。空間の質、光、形や大きさなど全てを含んで出てくる問題だろうと思います。例えば、アメリカに行く前の荒川修作は、箱の中にコンクリートの塊をポロッと置いたりしていた時期があるんですよ。一種のボックス・アートが流行ったんですね。それはコンクリートの塊そのものとしか見えない。素材性がもろにこちらにぶつかってくるのです。ところが、コンクリート打放しの壁を目の前にしても、あまり素材性は迫ってこなかったりする。素材の持つ問題というのはそういう微妙なところがあると思うんです。
坂牛 そうですね。私もある時70人くらいの学生に、建築の質料と形式を見てこい、それぞれ2枚の写真を撮って、考察をせよ、という課題を出したんです。すると、10人くらいが、それはできないという答えを持ってきました。形式と質料を分離して建築を体感することはできない、と。そこに建築の素材論の難しさがありますね。
谷川 それはある種の現象学的な問題ですね。例えばコンクリートそのものを見るためには、現象学的還元を行わなければならない。そこにまとわりついたコノーテーションを意識的に排除しないと、素材性は迫ってきません。
坂牛 建築では昨今、ミニマリズムが目につくようになってきています。ミニマリズムを冠した書籍も多く出ている。これをモダニズム再来という人もいますがそれはちょっと違う。60年代にジャッドなどがやっていたミニマルアートに近い。そんな状況が生まれつつあります。そして同じミニマルの中にある差異は素材性です。単純ですが、非常に素材性を持った建築が増えてきています。
谷川 素材の問題は、美術ではランドアートと密接に関係します。砂漠に溝を掘ったり雷を導いたり、土や水など宇宙の四元素と戯れるという非常に素材性がかった芸術活動ですが、実は彼らの出発はミニマルアートです。それは、ジャッドを典型として、純粋幾何学形態をポロッと出すという芸術ですね。ところが同時に、例えば布をかけたり、画廊に土をぶちまけるのもミニマルアートと呼ばれていたわけです。つまりある種の素材への回帰という傾向を内に孕んでいたんです。それが画廊の中で我慢できなくなって外へ出ていったものが、ランドアートあるいはアースワークと言われているものです。ちょうどそれが60年代なのです。ミニマルからランドへの拡大変貌があるんですね。ぼくはここに60年代の変化が最も集約的に出ていると思います。ポップアートよりもこちらの方がむしろ重要だ、と。そこには素材性の問題が孕まれています。形と素材の問題が……。
坂牛 素材の問題が歴史的に常に人を惹きつけてきた本質的な理由は何なのでしょうか。
谷川 物質(マテリエル)が好きなんだと思いますよ。シラーが、形式衝動と質料衝動という非常に不思議な概念をつくっているんです。質料衝動というのは最初は子供の時に現れます。例えば母親にいくらしかられても、砂遊びや泥遊びを繰り返す。ところが、そのうちに、山やトンネルを造ったり、形で遊び始めます。それを形式衝動が出てきた、と考えるわけです,そして年をとるとまた質料衝動が強くなるのですよ。痴呆症例にある毛布をむしったり自分の汚物にまみれたりといった行動は――シラーが言ったことではありませんが――形式衝動が崩れていって、質料衝動に回帰していくことだと思います。
時代はバロック
坂牛 その質料衝動は多分チャールズ・ジェンクスが『ポスト・モダニズムの建築言語』を書いた70年代半ば、ポストモダン華やかしかり頃、そのある部分に照明が当てられた感はあるのです。でもやはり、主流はヒストリシズムでしたから、日本では根が付かない、基盤がないですからサッと消えていった。
谷川 日本では様式の折衷という形で捉えたでしょう。そこには廃墟趣味と呼べるようなものも出てきました。例えば磯崎さんにとっての廃虚は、戦後の焼け跡を見たニヒリズムみたいなのがあるようでした。しかし廃墟趣味の背後に潜んでいる質料性の問題はあまり議論されませんでしたね。
ヨーロッパで廃虚が一番ブームになったのは18世紀、新古典主義の時代です。ローマ建築を模した禁欲主義ともいえる壮大でモノクロームの建物が造られた時代。その時に廃墟趣味がおきたのは、新古典主義の中に巣くっている質料性の問題が出たのだとぼくは思います。アメリカの文化史家バーバラ・マリア・スタッフォードが著した『ボディ・クリティシズム』では、解剖学の発達と廃墟趣味は期を一にしているとされている。つまり人間の皮を剥いで内側を見ることと、表面が崩れて素材性が剥き出しになった廃虚に対する感性は非常に似ているのだ、という指摘です。ピラネージが描いた銅版画の廃墟と当時の解剖図を並べてみると、確かに似ている。絵画の新古典主義では、女性の肌はシミや皺ひとつない真っ白な肌が描かれています。その時代に廃墟趣味が出たのです。それは抑圧された質料性の回帰だとぼくは思うのです。
廃墟とは単に様式の折衷というポストモダニズム的な問題だけではないんだと思うんです。廃墟が時折ブームになるのは、素材の持つインパクトに対する欲求もあると思います。
坂牛 今のお話のような廃虚趣味的質料の噴出がある一方で、カウフマンの言うように、ルドゥーやブーレの新古典主義があって、それがカントの影響を受けて自律的な形態に進んだのがモダニズムの始まりだとするストイックな新古典~モダニズムという流れにおいては、やはり質料性は抑圧されるわけですね。
谷川 抑圧されます。それでも質料が時々出てきます。それをバロックと言ってもいいと思いますけれどね。モダニズムという概念だけで100年のスパンを規定できるはずはありません。実は伏在して反モダニズムの傾向はずっとあるわけです。それが時々出てくるのです。
坂牛 現代はそういう伏在している反モダニズムが噴出している延長上にある、と言っていいのでしうか。それともある時代が終わっての今なのでしょうか。
谷川 エウへニオ・ドールス流に言えば、クラシックに向かおうという欲求とバロックに向かおうという欲求は、時代や民族に関係なく永遠に、同時併行的に存在します。一方でグリーンバーグは、線的な時代とバロック的な時代が大体交互になっていくと見ています。ですから、どういう視点を採るかに依るのですが、ぼくは時代はバロックだろうと思っています。
質料性の氾濫
谷川 これまでのお話に大変関係のある映画がありましたね。ピーター・グリーナウェイの『建築家の腹』という映画です。ブーレを研究するアメリカの建築家がローマでブーレの大展覧会を開催する。彼はやたらと図面をコピーします。彼は「線」(形式)に非常に打ち込んでいるんですが、そこで抑圧していた質料性に復讐される映画です。自分の腹とコピーを重ね合わせる不思議な場面があるんです。後にその建築家は胃癌で死んでしまう。癌というのは質料性の氾濫です。形を持たない細胞の増殖ですから。一方「線」というのはあくまでもコントロールできるものです。新古典主義の建築家を偏愛していた男が、自分の内部に孕まれていた質料の増殖によって命を奪われてしまう。フォルムとマティエールの関係を強く感じさせてくれます。
坂牛 先ほどミニマルで素材性のある建築が多く出現していると言いましたが、別な形で質料性が噴出している建築があり話題を呼んでいます。1997年にスペインのビルバオに完成したグッゲンハイム美術館です。建築界では大きな話題を呼びました。20世紀を締めくくる建築か、あるいは21世紀を予言する建築か、あるいは、設計したフランク・ゲーリーという建築家個人のアーティスティックな感覚の発現と見るべきなのか。
谷川 バロックですね。完全に。ドールスのバロック論のひとつのポイントは、一番下に重い建築、次いで彫刻、絵画、詩、音楽と重ねたときに、バロックは上のジャンルに行こうとするということです。すなわち建築が彫刻になろうとする、これはバロックと考えていい。古典主義は逆に下がろうとする。音楽が詩に、すなわち音楽が語ろうとする。絵画が彫刻に、すなわち非常に立体的な三次元的イリュージョンを目指す。彫刻は建築のような堅固なものになろうとする。それらは古典主義です。そういう意味でこの建築はまさに建築の彫刻化ですね。ドールス的に言えば完全にバロック的アイオーンが噴出したという感じですね。でもこれはそんなに新しいんですか? ぼくはそんなに、衝撃は受けないけれど……。それでもこうした建築がいろいろとできると面白いですね。
(2001年2月8日/GAギャラリーにて)
所収:『芸術の宇宙誌―谷川渥対談集』(右文書院、2003)
初出:『GA 素材空間』2001年7月号