「窓を巡って」
連窓の家 #1 窓図
連窓の家 #2 窓図
連窓の家 #3 窓図
質料
2年間に3つの住宅を設計し竣工した。これらの住宅はどれも窓を主題化した建物である。そこで一体窓を通して、何が見えてくるのか記してみたい。
本題に入る前に、少々長くなるが本題の背景となることに触れておこう。
この3つの住宅のうち一つ目をやり始める頃、あるいはそのもっと前からと言ってもいいが、世の中には透明建築が蔓延していた。もとをただせばピーター・ライスのDPGの発明という技術的な革新、そして後述するが、素材を問いただす姿勢がごっちゃになって、とにかく世の中ガラス建築、透明建築が有象無象混在する状態となっていた。流行にのっかったガラスはもううんざり。きちんとガラス(素材)、透明、について考えなければと思っていた。
丁度その頃、ある雑誌社の素材をテーマとした雑誌創刊に参画していた。ガラス素材を議論していた時、編集長が言った。「日本にガラス建築を作れる建築家はいない。ガラス厚を耐風圧計算で算出するようなスタンスじゃあ、ガラスの美しさは作れない。ファンズワース邸に一日居れば分かるけど、あのガラスは刻々と表情を変えていく。」そうそうそのとおりと思った。素材は言ってみれば、ジッと見なけりゃいけないものだと。
そしてこれも丁度時期を一にして、僕はある大学の文学部で建築意匠の講義を引き受けることとなり、近代以降の建築を「形式と質料」というおよそ表現手段に共通な切り口で説明することとした。形式と質料。正確ではないが、言い換えれば形と素材である。
偶然なのか、時代の流れなのか、僕はその頃(まあ今でも少しそうだが)、頭は質料・素材漬けになっていた。
さてこの質料素材漬けの頭の中を少し紹介する意味で、授業の一部をお話したい。話はギリシアに遡り、建築が素材と形で出来ているのにヒントを得たプラトン/アリストテレスは,それまでの自然の生成の哲学を改め,形(形式)には理念(イデア)がありそれに向かって、素材(質料)が形作られているのであると考えた。建築に限らないが、その意味で重要なのはこの理念・形式であり質料ではなかった。そして時代は中世、近世となり、カントは美学的にこの形式を再度強く美の要素として認定した。曰く絵画でも建築でも、重要なのは輪郭線(形式)であり色(質料)は二の次であると。この結果近代の美は、この形式を純化させることに邁進したわけである。紙面の都合で、話を余りに単純化させていることはお許し願いたい。
しかし、本当だろうか? コルビュジェの建物はあの色(質料)抜きに語れない。ミースの建物はあの素材(質料)抜きに語れない。だからそうした質料が、モダニズムの重要な要素として語られなかったのは、単にそうした質料を無視する大きな考え方があったに過ぎない。
さて、こうした形式重視の考え方が20世紀前半に崩れてきた。高名な哲学者によってプラトン以前へ遡ることが提示された。要は形相の持つ本質への問いから、存在への問いへと視線が変更された。この視線変更が、所謂脱構築の基盤となっていることは、良く知られるところである。
この視線変更は、直接的間接的に建築界に大きな影響を及ぼした。形式から開放された建築は質料的、存在論的に動きだした。70年代の所謂ポストモダン建築は固より昨今のスイス建築に見られる素材主義は、形式からの開放により建築が質料と形式で成立しているという事実を再確認し、この質料に新たな光を当てているといえる。また建築を人間との関係あるいは、自然との関係、世界との関係、で問おうとする建築は存在論的な問題の立て方の現れである。
質料漬けの頭の中はこんなことになっていた。つまりモダニズム以降のさまざまな問題が、質料を巡る問題として見えてきたのである。そしてこの質料性がさらにいくつかの展開と内容を持って、僕らに示唆を与えてくれるように感じた。質料という言葉を文字通りに質料自体と受け止めると、それは建築においては素材という問題だけに限定されてしまう。しかし実は質料という問題は質料・形式というセットの概念であり、質料が形式化されるその間にもいくつかの問題がある。そう考えてもう一度質料・形式という対概念をギリシャ的理解で見るならば、二つのことがらがひっかかる。それらは先ず作るものの見取り図、つまり全体の形式(形)が事前的に決定されているということ。もう一つは、その決定が制作者(建築なら建築家)によって行われるということである。つまり全体形ありきか、制作者ありきなのである。何故部分では無く全体なのか、何故享受者(住宅なら住人)ではなくて制作者なのかと素朴に疑問が浮かぶ。
こうして3つの問題が徐々に意識され始めた。素材・形、部分・全体、享受者(住人)である。こうしたテーマは少なからず誰かがどこかで議論していたことであろう。だからテーマそれ自体がそれほど目新しいことだとは思わない。しかし多少これまでのこうした問題に対する議論で腑に落ちないのは、こうした対概念の反モダンの側面を単眼的に取り上げるスタンスである。質料・形式という対概念もこのどちらかの側面だけに偏るということが、そもそもの問題を起こしてきたのである。だから形式主義は駄目だから質料主義と言うなら、それは過ちをまた繰り返すに過ぎない。これはセットなのである。セットはセットとして扱わなければならないものである。だからこれらをなるべくセットで、表現のテーマとして繰り込んでいくこを考えないといけない。そしてこの質料・形式から生まれる主要な問題系を、一辺に一つの表現に繰り込んでいけないか。さらに、その表現を建築の一つの部位に集中させることができないか。こうした表現に向かう条件の作り方が、一見見慣れた質料を巡る問題を強度のある表現へ向かわせるのではないかと期待した。
表現するものが先か、されるものが先かそれはあまり問題ではない。いずれにしても,いくつかの試行錯誤の末に窓を対象としてみようと思った。多分窓以外にも、その表現の対象はあるような気がする。しかし今のところどうも窓である。そして僕はこの窓を外部から内部へ、壁から壁へ、壁から天井へと延長させることにした。延長という方法が素材と形、部分と全体、住人という問題を浮上させていくであろうと考えた。どのように現れてくるのか? そのことについて、この後述べていこう。
素材
言語化した素材を救えるか?
素材性は質料の一部である。悟性で能動的に切り取る形式性(形)に対して,感性で受動的に受け取るモノが質料性(素材性)である。質料つまり、色や、肌理、と言ったモノは、感覚的な対象であり、その美的判定は10人10色という危うきモノである。故にカントは、質料を美の範疇に入れなかった。しかしこうした色や肌理、建築で言えば色や素材感というものが、本当に感性で受け取られているかというとそうでもない。すでによく知られていることだが言葉が感性的認識に介在し、人はコンクリート打放しを見てそれを「コンクリート打放し」という言葉で理解し、その言葉を受け取っているということはよくあることだ。
そこで、こうした言語的把握を零度にすることのみに意味があるとする立場さえある。つまり質料はすでに言語化された領域の中でしか、把握され得ないという考えである。
しかし果たして本当に質料は、言語的にしか把握され得ないのであろうか? 事態はそう簡単でもない。つまり、質料が言語的に把握される時は、その質料が通常存在する形で存在する時である。たとえば、豆腐で三角錐を作ったとする。このピラミッド型の白い塊を遠目で見れば、なかなか豆腐で出来ているとは思いにくい。大理石かプラスティックと思うのではないだろうか。それは豆腐は四角という風に思い込んでいるからだ。ちょっと昔、僕は高さ60mのオフィスビルを見学に行った。建物に近づくにつれて、コアの部分が灰色に見えてくる。灰色のタイル張りかと思ったが、近づくにつれてテクスチャーがもう少し細かく見えてくる。目地が見えない。どうもタイルではない。さらに近づく。どうもこれはコンクリートのようだ。しかし60mのコンクリート打放しは現実的ではない、違うものだと思いつつ目の前まで来てその色、Pコンの跡、そしてコンパネの割り、を見る。またテクスチャーを確認する。乾式のパネルでもない。その60mの高さとこの物質感に改めて見入ってしまった。もちろんコンクリート打放しであることを最終的に認識する。
豆腐もコンクリートも、ここでは言語的に受け取られてはいない。その理由は普通ある在り方では無いからである。豆腐やコンクリートの肌理や色が、普通ある形を持っていなかったからである。
日常的形式の反復
つまり素材が言葉に回収されないためには、素材と形の組合せが重要である。もちろん未知の素材が提示されればそれは形とは無関係に言葉にならず、驚きが残る。しかしさしあたりそうしたエキセントリックな素材の露呈は、形式主義に対する質料主義という単眼的主張の隘路にはまり込むだけである。むしろ普通のどこにでもある素材が、その形の変化の中で新たな表情を提示することの方が面白い。
そうした前提で建築を見返してみると、建築とは、形と素材で成り立っているということが改めて見えてくる。屋根はいくらかの勾配という形を持ち、瓦、鉄、石、等でできている。壁は一般に垂直な面であり、石、土、鉄、木、等でできている。柱は垂直な線形であり、木、鉄、コンクリート、等でできている。建築の部分は形がありその形に、数種類の素材の選択肢があるものだ。
ところがこうした選択肢を持たず、ほぼ一義的に素材が決められている部分がある。それは窓である。建築が外部との関係を持つところが窓であるから、そこに求められる性質は透過性であり、少なくとも現代建築において窓の素材はガラスである。先述したとおり、素材の変化を示そうとするなら窓は適さない。しかし形との組合せにおいて、素材の異なる側面を浮上させようとするならば、窓は素材が一定であるだけに素材の微妙な変化が見て取り易い。
ではどのようにして、素材に新たな形を付与するのだろうか? いきなり丸や四角や三角などの、普通と違う形をあてはめれば良いのだろうか? 否。それでは丸や三角四角という言葉で、再び回収されてしまうのである。だから、窓が窓という日常の形を最大限維持しながら、その上で最大限離れていくという方法を取るべきであろう。
それは言ってみれば、拡大あるいは縮小コピーのようなものだろう。形のあるフェーズは残しながら、あるフェーズを変形するということである。だから、僕は窓をひき延ばした。ある時はx方向に、ある時はy方向に拡大コピーした。さらに窓が普通、部屋を部屋として特徴づける一つの空間のまとまりを作る装置であるという特性を崩し、部屋と部屋、あるいは外部から内部というように基本形状を維持しつつ、置き方を変えた。これも広い意味で形の操作ということになるであろう。こうした操作によって、ガラスは普通窓として持っている形のある面を維持しつつ変形される。この時、人は、この素材を今までと少し違う何かとして「気にする」のである。その気にすることの何回かに1回、この素材が今までと異なる現象をすれば意図は達成される。
部分
部分としての窓
建築に限らず、思考の過程でも良いが、一般に何かを構築するときはその構築の全体形のようなものを懐に持っているものである。それは形であったり、概念であったりするのだが。そして作りながら、あるいは書きながらその根拠に照らし合わせて、その全体形から脱線していないかどうか考えてみる。そうするのが普通である。さて実際に建築を設計していく中で、この線路から脱線しそうになって慌てることがある。建築の設計は、この脱線をどう逃れるかということであると言っても過言ではない。しかし果たして、この脱線は悪いことなのかと考えてみる。脱線が悪いのは事故を起こすからだが、それなら線路の要らない自動車に乗るということを考えたらどうだろうか。つまり構築の全体形を事前的に持たず、走りながら行き方を考えていくというのはどうだろうか。つまり全体の形を内に秘めて進むのではなく、部分を部分の要求に応じて進むという状況をつくれないかということである。そこで建築の中の部分を探してみる。建築は空から全体が降って湧いて来るものではない。部分の集積として出来ているわけだから、すべては部分だと言うこともできる。しかし、所謂主要構造部というもの(柱、床、壁)は建築の全体をシステマティックに構成する構造の一部分として、ある全体性と強い関係を持っている。また建築空間というものを考える時は、それを構成する床、壁、天井というものが空間を構成するものとして、やはりある全体性との強い関係が発生する。そういうように見ると、窓という部分は建築の全体性を構成する主要な部分ではないということが理解できる。またこうした、構成的、概念的な枠組みの中だけでなく、視覚的に見ても、窓は壁という背景の中で部分として認識されることが多い。
部分が部分であったり部分でなくなったりすること
さて、この窓という部分を全体と同時進行的に建築を考えていく軸に据えていく。そしてなおかつ単眼的にこの部分のみを浮き上がらせるのではなく、この部分性が全体性の中に溶解していくような、ある主張とその逆概念の絡みができないだろうかと考えてみた。例えば図と地の絵を想起してみよう。1枚の真っ黒い四角い紙がある。便宜上A4縦使いに置いてあるとする。この紙の上に5cm角の白い正方形の紙を置いてみる。この時確かに白い紙は黒い地の上に図として見えてくる。さてこの白い紙を少し変形して、横長の長方形にする。それでもこの白い紙が黒い紙より小さいうちは、白い紙は図である。さてもうちょっとこの白い紙を引き伸ばして、下に敷いてあるA4の黒い紙と同じ巾の長方形としてみよう。そうすると下の黒い紙は、白い紙で上下に二分されたかたちになる。そうするとどうだろう。この白い紙はすでに図とは見えなくなる。
ここで白い紙を窓に置き換えてみるならば、この実験は窓が延長という操作によって、全体の中に溶解する場合があるということを示している。つまり窓を部分として扱いながらも、壁という地の面を突き抜け縦横無尽に次なる面へと連続することで、部分でありながら部分性が消えていく瞬間が生まれる。部分を鮮明化しつつも、それが消滅しても見える。ここに、延長という方法の意味が生まれる。
住人
眼差し
建築が住人の意識に持続的に関わるなどということがありうるのだろうか。住宅がその住人にとって生きられたものとなっていくことを考えれば、どれだけ素晴らしい建築であろうとも、それは住人の意識の底に下降していくであろう。それは人が物に対して、常に意識的であることはないからである。一方、人は人に対しては意識的にならざるを得ない。だからここで考えてみたいのは、住人が窓を介して人と視線的にどう繋がるかということなのである。
窓は辞典的には採光、日照、通風、展望という機能を持つ。しかし辞典的な説明とは別に、窓の重要な機能は人を見、あるいは人から見られるという点にある。見られる問題は後で述べるとして、見るということはどういうことか?
人を見るためにわざわざ窓を設置するということはないように思うが、しかし建物が自然の中に孤立していない限り、地上レベルの窓からは外部の人が見える。また建築内部において室間において、壁に穿たれた窓というものも同様に人が見えてくる。そして人が見えるということの意味は大きい。窓から人が見えない。これは不気味なことである。人が見えることであるいは人影が見えることで世界がいつもの世界であることを確認する。
人を見る時の人の意識が風景を見る時と異なるのは、単に人を見れば世界が確認できるということに留まらない。人を見ることは同時に、その人から見られるということをも意味する。クライアントと打合せをしていて、開口部の議論の半分は内外を問わず何処から見えるか見えないか、というようなことである。また写真で見たときはガラス張りの建物が、行ってみるとカーテンでぐるぐる巻きにされていたというのもよく聞く話である。それほどかように窓は見ること以上に、見られるという問題を内包する。ある高名な哲学者はこの見られる状態の中に、自らの意識ではどうにもならない不自由さが存在することを指摘した。この不自由さはもちろんその見られる相手に依るところもあるわけで、外部からの眼差しと内部間での眼差しではその意味あいはかなり異なるであろう。内部においては、人を拘束するような眼差しの交換という側面に加え、家族の関係を密にする楽しげなものとなる可能性もある。
開くことと閉じること
さて、見ること見られることは、すべての窓において起こることではない。外部的には確実に空しか見えないあるいは海しか見えない、というような窓を作ることができる。つまり、人が現れない窓を設計することは可能である。既述のとおり人が現れない窓は、同じ窓でも人が現れる窓とはその質がかなり違う。片方が眼差し的に開いたものであれば、片方は閉じたものと言っても良い。一方内部に作られた窓は分節を緩和し、眼差しを介して柔らかな流動体へと空間を開いていくことに寄与する可能性も持っているであろう。つまり窓は縦横無尽に連続的に延長することで、眼差しを介して開き閉じるという二つの性格を共存させる。一続きのどこかに性質の変極点が生まれる。その点を境に開いた窓から閉じた窓へ、閉じた窓から開いた窓へとその性格が傾斜する。そしてこの傾斜故に人はただリテラルに開かれた窓より、一層開く状態に自覚的になると期待するのである。
素材・部分・人。なんだか脈絡がないことが散乱しているような印象がある。質料と形式という広範な領域を含んだ概念が、現代的に持ち得る問題を考えていたらこんなことになった。しかしどうも「なってしまった」という悔いた気持ちでもない。なんとなく散乱したテーマが、いろいろ転がっている方がどうもしっくりくる。それは、そもそも質料などというモノを相手にした瞬間に、宿命づけられていたと言えるのかもしれない。形相への疑念は全体形への統一性を嫌うのであるから。しかしそうは言っても、何とかその表し方が散漫にならないように考え、単一の部位でこの問題を扱おうとしたあげくの窓であった。もちろん窓以外のいろいろなこと、平面や断面、あるいは内部の展開等がテーマの表し方に、さまざまに影響を及ぼしていることは言うまでもない。また逆に窓が個々の建築に対して持つ意味、あるいは窓に期待する役割は3つの建物に共通してここに記したテーマだけということではもちろん無い。ただ3つに共通し、かなり明快に言葉にできるようなことだけをここに述べてみた。
初出:『建築技術』2002年2月号