対談[原型をめざすか、ヴァリエーションを求めるか] [篠原一男氏、萩原剛氏、鈴木隆之氏]
篠原一男
萩原 剛
鈴木隆之
坂牛 卓
(敬称略)
建築を規制している「制度」の変貌
篠原 今回は、世代がさらに若くなって、大きな組織に所属している萩原剛さん、坂牛卓さん、そして個人的な組織で仕事をしている鈴木隆之さんに、今、何か問題となっているかを聞きたいと思います。イージーにモダニズムが口にされるような情況を睨みながら、どのような効果的な問題提起ができるか。まず、断片的なところから会話を進めていきましょう。
萩原 今、気になっている言葉のひとつは「制度」です。第二回建築会議の伊東豊雄さんの発言にも、ある意味でそれを読みとることができるように思いました。私は今、住宅を設計する人たちのスタンスとは正反対の位置ともいえる大きな組織の中で仕事をしているわけですが、その中で「制度」という枠組みが建築をある意味で規制していると感じています。50年代、60年代の住宅建築の革命的な時代には、建築は、家族あるいは封建的社会のような大きな制度に向かって闘っていた、という読み方がおそらくできると思いますが、それに対して今は、実はそういう制度は小さな問題になりつつある、あるいは違う問題に変わりつつあり、それに替わって、近代が残した都市的スケールの問題やモダニズムのもたらしたアプリオリなもの、あるいは、日本、ヨーロッパ、アメリカといった地域固有の社会的制度といった問題が浮上し、かつそれを受け入れていくことの矛盾もわかり始めてきた。大きな建築というのはそうした変化しつつある大きな制度の問題と立ち向かわざるを得ないわけですが、その制度に一度真面目に立ち向かってみようかな、あるいはその変化を逆手に取ることから建築の変貌もありうる、と感じているのが組織の中にいる私の今のスタンスです。
篠原 今、建築の設計に対して「制度」が厳しい条件としてありますか?
萩原 例えばかつての住宅設計は家族制度、封建的社会制度といった問題に対峙したがゆえに建築の批評性を持ち得ていましたが、それに対して都市は、戦後の復興の中で爆発的な量のビルをつくることに邁進していたわけです。それはある意味では制度を度外視して巨大な気積をつくってきたわけで、現在のわれわれは、その結果として生まれた東京のような巨大な都市をまったく無視したかたちでは建築はつくれなくなった。それが一つの大きな制約条件、制度としてわれわれの前に現れている。実はいま、そういうことの方が建築にとって家族制度と対峙するよりも難しい問題になっているのではないかと思います。
鈴木 伊東豊雄さんはこの会議の中で、住宅にはもはや闘うべき問題が見つからない、公共建築にのみ批評性がまだ存在し得るという旨の発言をしていた。モダニズムにはさまざまな方向の可能性があって、その中で、圧倒的な資本主義、つまりモノとお金と人間それに情報の流通によって成立する、そういう巨大な運動としてのモダニズムが残ってしまった。そうすると、モダニズムが公共建築、巨大空間、あるいは都市の問題として立ち現れてくるのは当然なのかもしれない、と一方では思います。しかし他方で、そういう言い方で小さい空間を捨象してしまうのは、モダニズムの別の可能性をどこかに置いてきてしまうような感じがする。そう思いながら、荻原さんの話を聞いていました。
巨大建築ブームをすべて否定するつもりはありません。しかし、「東京フォーラム」ができて、「京都駅ビル」が話題になり、それから名古屋も駅前再開発をやっているし、長野オリンピックでも非常に大きな建物がつくられた。モダニズムをその原点に立ち戻って考えなくてはいけないこの時期に、大空間や巨大建築ばかりが目を引いてしまう状況には、何か納得できないものを感じてしまいます。
篠原 それは制度にぶつかっているからではなくて、むしろ制度にうまくのっかっているからですね。
鈴木 巨大で「新しい」空間の実現、という題目の陰で、根源的な批評性がどこかに飛んでしまっている。巨大建築の量産が可能になって、それ自体が目的化している。零細企業の社長としては無力感を感じるところでもあります(笑い)。
篠原 例えば、丹下健三さんの最初の都庁舎というのは、制度と相当ぶつかっていたはずです。ガラス張りのあの建築が当時の、今でも同じかもしれない、役人の職務スタイルとどのくらいギャップがあったか。書類の山でお互いのプライバシーをつくるという日本の役所の典型的なスタイルがあの中にぶち込まれていた。でも、われわれは丹下さんがあそこで導入した最盛期モダニズムをそれとは切り放して分離して見ていた。賢い分離だった。今、建築家が持っている方法が制度、社会、資本主義の何の制度と、具体的にどうぶつかっているのか。
坂牛 建築家が制度から逸脱するということは現在ではたいへん難しいことだと思います。丹下先生の時代、あるいは磯崎さんが違犯と称して銀行をつくったり、篠原先生が伝統を解体していった時代と異なり、現在では制度と闘い、制度を突き破ったかに見えた瞬間に次の制度を生み出すようなところがあるわけです。だから制度との距離を過大に取ろうとしてもそれは徒労であり、微少に保ちつつ、あるいは制度に埋没しているかの如く振る舞い、しかし何か得体の知れないカビのようなものを少しずつくっつけていくことが現在の制度との付き合い方だと思います。もちろん、ミクロに見れば制度との摩擦はたくさんあると思いますけど。
萩原 今まで、さまざまなクライアントとお付き合いをして、日本の社会というのはある家族社会の集合だということを、日本の「制度」の根幹として実感しています。例えば大企業の意志決定の手法は、いまだにピラミッド型の封建的システムでなされるわけで、建築家はそのシステムと対峙して建築をつくっていく。それは、かつての住宅設計が直面した意志決定の仕方と似たものがまだ残っているわけです。
そして、先ほどのモダニズムの問題と関連しますが、われわれの世代はもう一つ新しい「制度」を貰っちゃったなあ、と感じています。というのは、われわれは戦後のモダニズム建築が都市の中につくり出してきたスカイラインを既存のものとして建築をつくらなければならない、という状況にある。つまり、平板なプレートの上に建築をつくるということはもはやあり得ないという中でつくらなければならない。今進めているプロジェクトも50年代にできたモダニズム建築三棟を段階的に解体し、新たな建築を移植していくというものです。まるで複雑な手術のように。そういう意味でわれわれは新しい制度を貰ってしまったし、こえも今日的な問題なのかなと感じています。伊東さんが行っている公共建築における制度とか制約は、比較的リアルな問題で、その根幹にもうちょっと大きな問題が出てきているのかな、という感じを持っています。
篠原 住宅設計も同じで、今、誰もその「制度」にぶつかっていない、全部素通りしているのではないか。問題は、かつて、われわれが出会った日本封建制度社会の生活様式との闘いや対決はもう存在していない。しかし一方、建築家のかつてのその活動も、制度そのものと真正面からぶつかり、闘い勝ったというわけではない。民主主義社会の外国から学んだモダニズムという説明をすれば日本ではそれで通るわけで、これこそ新しい世界、新しい社会であるという旗印のもとに、建築家は生活と空間をめぐる制度と真っ正面からぶつからないでやってきた。建築家は社会学者ではないから、制度とまともとぶつかったら仕事はできないはずです。だから、制度に関しての根本的な改革ではなく、モダニズムを通すための戦術を考えながらやってきたと思う。その点は今も同じだけれど、ただ、半世紀前の社会が持っていた封建的なものは薄められてきているのではないか。それは、公共建築もそうで、今はそんなに強くないのではないですか?
問題は、制度の問題が建築を良い意味でも悪い意味でも変質させていく契機になるかどうかですね。
「合理」だけではクライアントを説得できない
坂牛 組織に10年在籍して思うのは、組織にいると「個」が薄められる、あるいはあえて薄めているのか、いずれにせよ、個人というか主体が消える部分がある。「個」が消えて、残っているのは何かと考えると、誤解を恐れずに言えば、それは「技術」だと思っているのですが、技術というのは料理人にとって包丁みたいなもので、使い方次第でどうにでもなる。そして、組織の技術の使い方の根本にあるものは、これも誤解を恐れずに言えば「合理」ということだろうと思う。その「合理」の意味が難しくて、下手をすると「制度」にからめ取られてしまうけれど、制度をすり抜けていく一つの技でもあるわけです。そして技術をすべて徹底的に合理に委ねてしまって主体を消して行けばいいのかというと、現在はそうではないと思うのですが、それで前進できた時代もあったわけです。林昌二さんの時代というのはたぶんそういう時代で、それで建築のある進歩、ある価値観が得られたわけです。それが正にモダニズムだったと思うのですが、ぼくらの世代は大学に入学したときに、ジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』やリオタールの『ポストモダンの条件』が既にあった、つまり、ポストモダンの真っ直中で建築教育を受けたわけで、その時、モダニズムは既に伝統だったのです。
篠原 大学には入ったのは何年ですか?
坂牛 1979年です。ですから、僕らの世代は実感として合理だけでは建築がつくれない。それは、ぼくらのみならず、同世代のクライアントの側もそうなってきているという感じがします。そうすると、その合理を突き破るようなエロスみたいなものがないことには、いたたまれない。そのエロスがどこから出てくるかが重要な部分だと思うのです。
篠原 ポストモダンがその一部、あるいは全体を担ったと思いますか?
坂牛 いわゆるヒストリシズムのようなポストモダンはまったく担っていないわけです。ぼくがアメリカに行ったときには、チャールズ・ムーアがヒストリシズム的なことをやっていましたけれど、フランク・ゲーリー、モーフォシス、オーエン・モスみたいな人たちがうごめき始めていました。ぼくの認識の中でポストモダン建築と言ったときには、ヒストリシズムだけではなくてもっといろんなものが含まれていて、それに対してある種の期待感はあったと思います。
篠原 ヒストリシズムではない、ポストモダンのさまざまな造形を単純化して整理すれば、合理主義に対する新しい解釈ということ。モダニズムの合理主義というのはその頃すでに役に立たなくなっていた。しかし、それはもう一つの新しい合理主義なんですね。かつての合理主義とは異質の合理主義。そうすると、制度というのはどの辺にかかわるのだろう。
鈴木 整理してみますと、今言っている「制度」とはいくつかに分かれていると思うのです。一つは合理主義やモダニズムが闘ってきた封建制などの制度がある。ところが制度への反旗をひるがえしていたはずの合理主義も、次の時代にとっては新たな制度となってしまった。そしてこの新しい制度は、普遍的な理にかなっていたからこそ逆に、非常に強い制度になった。ポストモダニズムは、その新たな制度、しかも強力で普遍的な制度に対する批判として出てきた。しかしそれも合理主義から抜け出ることができたわけではない。むしろそれは、それこそ資本主義の運動から見れば理にかなった「批判」でしかなかった。合理的な運動があるところまで来ると、一遍それを粉砕して不合理に見えるお祭りをやる。次にそれが沈静化してまた合理的な運動に入っていく。それは経済と連動していて、バブルという名のお祭りをして、また長い沈滞期に入って、そのうちまたお祭りをやるというところで理屈にかなってしまっている。もちろん、お祭りはお祭りでもいいんです。そこにエロスなり、人間の生を肯定するようなものを見いだしたのであればいいのですが、ポストモダニズムはそのお祭りに表層的に、言い換えれば軽薄にのっかっただけだった。本来、合理主義を徹底的にやっているはずの大企業が、お祭りになればお祭りの先頭に立って御神輿をかついでいた、というような情況だった。この情況に、ポストモダニズムがいわば理にかなった経済的運動であったことが現れていると思います。
坂牛 制度にからめ取られているという意味ではお祭りにのっかっていた部分もあるけれど、しかし組織のクライテリアとしては、頑固に「合理」だったと思う。
篠原 それは全面的に認めるわけにはいかないけれど、一応、第一次の肯定をしておこう(笑い)。とりあえず日建設計の合理主義は筋が通っていると認めましょう。問題はその合理主義の有効性です。かつての日建設計のたくましさ、その合理主義、大組織の強力な合理主義はそれはそれで見事だった。
坂牛 合理主義を信頼して、新しい技術を開発することで生まれたものがある前進をうながした、という評価を受ける情況にあった。グリコではないですが、合理人粒で300メートルだったのです。しかし、現在ではそんなに飛べないというところでしょうか。ポストモダンについて、鈴木博之さんが、建築が技術や合理でつくっていくことができなくなったときにフラストレーションから発生した、と書いていましたが、確かに合理とか技術だけでものをつくっていても前に進めなくなったわけです。
萩原 かつては西欧という概念でクライアントを説得できたように、林昌二さんの時代には技術というものでクライアントを説得できた。しかし、今は西欧も、技術も、大衆化した知識、言語になっている。おそらくこの二つは戦略にならないし、そのことがわれわれの世代にとっては重たくも感じます。
篠原 いや、何もないんだから、軽い、という言い方もできる(笑い)。大組織の設計部でも、信頼に足る武器が見えなくなりつつある。現実には今までの延長上で、ある文脈の合理主義、ときにはミニマリズムのような手法を使い、あるいは反対に複合性というコンセプトでカバーし得る範囲の戦術を使いながらやってきたと思う。そして、そのやり方は決して間違っていなかった。実際に見ていませんが、「東京フォーラム」を例に取ると、とりあえずその路線で巨大なものが実現して、それなりのポピュラリティを獲得している。でも、建築家が空間をつくるという根源的な問題としてみると、それは既に完成し切った方法ではないだろうか。一種の合理主義。50年代の合理主義とレヴェルが違って、さまざまな条件に対して「合理」という答えが返ってくる、懐の広い合理主義。しかし、なおかつそういう意味での合理主義だけでは頼りないというフラストレーションが起きている。
萩原 西欧とか合理という言葉はあまりにも一般言語として理解されていて、武器として通用しないというよりも、それを使えばクライアントとの共通認識が簡単に得られてしまって、そこには何も起きないということだと思います。しかし、その「武器」という言葉もモダニズムの特徴で、これからはそれは例えば「薬品」だとか、そういう言葉に置き換えられていくのかもしれない。武器というのは正にモノで相手を威嚇するわけです。一方、薬品は徐々に効いてくる、目に見えない空間の力のようなものでしょうか。先ほど鈴木さんが言ったように、お祭りと安定した時代が繰り返すということがおそらく歴史の原理で、2000年を超える頃にまた何か起こるという予想もあるだろうとは思うけれど、その起こり方はたぶん今までとは違うかたちを呈してくるだろうという気がしますけれど……。
鈴木 「東京フォーラム」についてのぼくの感想は、「制度をくぐり抜けていく合理主義の亜種・変種がいかに多いか」ということでした。どんなかたちをとったとしても合理主義には変わりがなくて、それが手を替え品を替え出てきて、それなりのものができていくものだ、と。こういうものが出てくる時には何が制度であり何が反制度なのか、曖昧になっている。「武器」といっても、それが槍であるのか盾であるのかわからなくなっているような状態になっていると思います。
なぜ、ポストモダンが結局のところ制度をこれっぽっちも揺るがすことなく、時代の空洞をくぐり抜けてしまったのか? やはりそれは一つには規範的な問題をきちんと考えなかったからではないか。他の芸術の分野を見ても、本来ポストモダンというのは、個と全体の関係をもう一度問い直すということだったはずです。モダニズムが「一般化」という方法で合理化を進めていったのに対して、「一般化」をやめて少し特殊なところで解答を見つける必要がある、というのがポストモダンのモチーフとしてあった。ところが建築におけるポストモダニズムというのは、ヒストリシズムにしても、別のかたちで一般解を出してポピュラリティを確保したという話にしかならなかったわけです。
唯一、個と全体の関係があらわになるのは、坂本一成さんの星田アーバンリビングとか、山本理顕さんの熊本・保田窪団地といった集合住宅でした。それらはどうしても個人とか家族、全体と関係があらわにならざるを得ないビルディング・タイプだったからです。ところが、東京フォーラムをはじめとして今の公共建築は、その辺をすっ飛ばしている。例えば、公共のスペースといっても、結局それは昔ながらの広場やピロティの焼き直しでしかない。「一般化」していく限りにおいては問題は常に常にすり抜けていかざるを得ない。大規模な建築ではまさに「一般化」の極みの中で、この問題をないがしろにしている。ですから、それが武器になるかどうかは別として、建築家はもう少し小さなレヴェルの空間から考え始めた方がいいんじゃないかなという気がしています。
篠原 それは「個」という問題になるわけですね。「個」の建築家と生身の人間がぶつかり合う「個」の空間。小さな空間がもう一度出てくる可能性がある。
坂牛 小さい空間の中に凝縮した意味を見いだし、それに一般性を持たせるという考え方は確実にあると思いますが、例えばコルビュジエやミースの空間の祖型が住宅に表現され、それが彼らの一般的な建築論、建築になり得たという大きな理由は、モダニズムの一つの概念として「反復」というものがあったからです。マスプロダクションに乗っかるというような意味でも「反復」という概念が重要だったわけです。彼らのドローイングなどを見ていても、画面からはみ出るように集合住宅が描かれていて、ドミノでも、シトロエンでも、住宅の祖型が並んでいく中に全体としての意味を持っていた。モダニズムにおける小さい空間が持っていた大きな効果がそこにあったと思いますが、それが今の時代、小さな空間の有効性をどういうふうに見いだし得るのか。また、個性的なものがあり、それが大きな空間を貫くなにがしかの思想になっている必要性はあるとは思いますが、そのとき個の空間、あるいは小さな空間に現在どのような状況を凝縮することが有効かということを考えます。実際の仕事の上ではわれわれに住宅の仕事はほとんどありませんが、ドーム建築みたいなものを別にすれば、結局大きな建物もシーンの連続、小さな空間の連続と考えてよいのだと思います。
個の空間を読み解くヒントとして、以前、竹山聖さんが妹島和世さんの建築を評して「妹島さんの建築は見る人に対してお前は誰だと問い掛けない建築だ」と指摘されていましたが、これは妹島さんの建築において建築と人間主体の対峙が希薄であり、もっと言えば建築をつくる人間主体もぎりぎりまで放棄しているかに見える雰囲気に魅力があるのだろうとぼくは理解しているのです。別な言い方をすれば、個がその周囲の状況からデタッチする雰囲気を持っていると思うのです。これはニヒリスティックになることを運命づけられた現代の状況にフィットしている。ただオウム事件とか震災などに見られるボランティア活動を見ていると、なにか若者の中にニヒルな構え方に飽きたらないものが出てきている、あるいは癒されないつらさみたいなものがあるような気がするのです。そこで個がもう少し周囲の状況にコミットしていくような空間というものが出てくるのではないでしょうか。
篠原 例えば妹島さんの住宅はコミットに入る?
坂牛 いえ、妹島さんの空間はデタッチの空間だと思う。
篠原 あなたの文脈で言うと私がデタッチで妹島和世さんがコミット、と言おうと思ったのだけれど(笑い)。
坂牛 それはどちらかと言えば逆のように思います(笑い)。
篠原 「住宅は建築の集中表現である」というのは、モダニズムを支えた基本的な構図で、ポストモダンではそれはもう言えなかった。モダニズムの初期、50年代、60年代に成立した全建築の原型としての住宅という性格は、モダニズムの成長期に許された幸運であったと思う。もしこれから「個」あるいは「小空間」の中で新たな建築の確認ができるとすれば、実はそれは次のステップに入り込んでいるという証明になるはずです。ポストモダンでも、ある小さな家具の中に全体的な思想が凝縮されたようなデザインもありました。私はポストモダニズムを冷たく批判したけれども、それはポストモダニズムは第二幕にはならない、幕間劇にしかすぎないということで、それが楽しいものであるというのは否定しなかった。みんながあそこまでなだれ込んでいった理由は、やはりチャーミングな力があったからです。ただ、その運動の一番大きな問題は、技術を捨象したということです。楽しければいいという、その楽しさの度合いがかつてと違っていて、複合的な楽しさ、俗悪さも抱え込んだテクニックで、目的のためにはすべて合理、調子に乗った、限界まで拡大された合理主義でした。
原型か、ヴァリエーションか
萩原 鈴木さんに質問したいのですが、個と全体というときに個人と組織という言い方もあるし、空間としてのリアリティの中の個と全体もあると思うのですが、「個」を重視するということをもう少しかみ砕いて下さい。
鈴木 それは単に現れ方の違いで両方だと思います。いずれにせよ重要なのは、一般的な問題としてとらえるのとは違う方法で考えなくてはいけない、そこに「個」の問題が必ず現れてくるはずだ、ということです。ところが、言語や建築言語によって、問題を数量的に、あるいは集合的にとらえようとすると、「個」の問題は必ずといっていいほど、すり抜けてしまうようになっている。例えば東京フォーラムでは5000人の劇場をつくっていますが、どう見ても現代の日本の文化状況では今から5000人のホールをつくっても仕方がない。本当は、そのことには誰もが気がついている。ポストモダンで一番言われたのは多様化ということです。多様化というのは、「数量化」「集合化」を拒否し、逆の方向へ向かうベクトルのことです。このベクトルについては、多くの人がさまざまな角度から言及したはずです。しかし、その割には100人、200人の素晴らしい小屋というのはなくて、結局何千人も入るホールや何万人も入るドームをつくってコンサートをやるという話にしか、文化の発想がいかない。多様化の「た」の字も見られないような状況です。これは一体どうしたことなのか、という素朴な疑問がぼくにはあります。とにかく一般化し、一般的な問題、全体としてしか考えられない、あるいは考えたくないということが、この時代、この社会にはあるんだろうと思うんですね。しかし、ぼくはこの傾向を拒絶したい。
モダニズムにおいて原型をつくるというのは主体的な作業だと思います。コルビュジエのドミノ・システムにせよ、ミースが示したドローイング、あるいはファンズワース邸にせよ、原型をつくり、さらに「これはいろんな展開が可能ですよ」というふうなつくり方だったわけです。個でもあるけれど、一般化もできますよということだったと思う。これを現在の状況に置き換えて考えれば、新しい原型をつくることを探究するか、それとも原型とは呼べないようなものでもって何かをやるということに賭けるか、その辺りが方法としてあり得るんじゃないかと思います。
篠原 原型に対して、変形をたくさんつくるという方法が一つある。原型を一つつくって他のものはつくらないというミースのような方法もある。私の場合はたくさんつくることに関心を持っていない。しかし、ヴァリエーションをつくるという方法も、一つの闘い方かもしれないとは思う。
鈴木 例えば、妹島和世さんは素晴らしい建築家だと思いますが、妹島さんは原型をつくりたいのかどうか、聞いてみたところがある。もちろん、つくりたいといってすぐにつくれるものではありませんが。
萩原 これは直感ですけど、妹島さんの建築は距離を置いてみると実は原型ではないのかもしれない。しかし、その文体は今までにないものがある。小説家の鈴木さんの前で文体と言うのもなんですが、今、すごく興味があるのは、われわれは言語を発明する時代にはいない、ということです。それを認識しないと次のステップは出てこないのではないか。
今、私は大きなオフィスビルの設計をやっているのですが、実はオフィスのあらゆるヴァリエーションがこれまでに考え尽くされているんですね。ですから、クライアントもすべてのいヴァリエーションの良さ悪さをわかってしまっていて、そこで建築家は何をするのかというところで、大きな問題を立ててももう先へは行けない。完成されたあらゆるヴァリエーションの中からどれかを選択せざるを得ないわけです。選択の中で問題を提起していく、闘争を仕掛ける時代に入っている。先ほど篠原先生が、小さな空間が建築を再び包含し得るとすれば新しい時代のスタートの予感がするとおっしゃいましたが、まさにそれは建築の規模に関係なく起こりつつあることかもしれません。
篠原 大きな架構が次々とできていますが、その感じは1970年の大阪万博の時とはちょっと違う。私は楽天的な技術主義とは遠く離れていますが、あの時はお祭りとしての楽しさが感じられた。私は関心はなかったのですが、ある新聞にコメントを求められて見に行きました。日本の祭礼のような不思議な雰囲気、懐かしい風景でした。スイス館だったと思う、完全なミニマリズム、キューブの外観でさえも、今思うとモダニズムがまだ原型の活気みたいなものを失わずにあった。丹下健三さんのお祭り広場でも、人間と巨大架構との関係が和やかで、非人間的ではない。懐かしいような風景、子供の頃にどこかで見たような。でも、多くの人たちが指摘していたように、祭りが終わった後、空虚感が漂った。
今、鈴木さんが言われた、東京フォーラムのような巨大建築ではない「個」の問題。それが若い世代の、ある種の連帯感のようなものとして断片的に出てきたときに時代が変わると思う。
今は、住宅の中に、大きな建築の中にある手法のミニチュアがたくさん入っている。方向が反対なんだな。ミースとかコルビュジエの住宅を発展させた大きな建築が彼らの後を追った。今は逆です。ものわかりが良くなったクライアントたちの寛容な、何やってもいいですよという励ましのもとに、建築家は大きな架構ですでに繰り返された手法のミニチュア版を住宅の中で再現している。その技術はすでに試されているから失敗はない。だから、穏やかな情景が続く。
鈴木 第4回建築会議の岡部憲明さんと妹島さんの話の中で、「ポンピドゥー・センターのフレキシビリティ」という話題に、どうも妹島さんが乗り切れていないな、という印象を受けました。フレキシビリティというような言葉が出てきたときに、大きな空間の中でそれを考えようとする建築に対して、個人的なところでフレキシビリティを保証しようという建築もある。例えばワンルームにおけるフレキシビリティという方がむしろわれわれにとっては実感がわいてくることなのかなと思います。妹島さんの「戸惑い」は、そんなところに理由があったのではないでしょうか。
篠原 ポンピドゥー・センターのフレキシビリティというのは、すごい技術だと間違いなく言える。それを可能にするために、膨大な地下室もあるという。しかし、もしあれの何百分の一の小さな規模だったら、あのような結果を得たかどうか。ミースのファンズワース邸は、誰が名付けたのかわからないけれど、ユニヴァーサル・スペースという言葉のプロトタイプが持っている迫力がありました。ポンピドゥー・センターのフレキシビリティというのは、小さいものの中でどのようにうまくまとめたところで、そのものの迫力は出ないだろうね。
鈴木 それこそ携帯電話とかコンピュータとかいったものの存在が当たり前の今の若い人たちにとっては、むしろ小さな空間でのフレキシビリティの方が実感を持ったフレキシビリティで、そこから新しい原型が生まれるのかもしれない。
ミースもナルシスト?
坂牛 情報化時代がどんどん突き進んでいくと、ハードな建物は不要になっていくという話があるわけですけれども、一方で人間として生きていくためには、コンピュータの末端と情報源だけのサイクル系の中だけでは生きていけない、という情況もある。そうしたときに人がハードな殻に何を求めていくかというと、個人個人がリアリティのある生活の中で実際に何を求めているかというあたりが鍵になるんだろうと思う。その時に、情報化時代の中で癒されきれない人間が、空間の中で癒して欲しいという部分がきっと出てくる。例えば本を読むにしても末端で出てきた情報をクレジットカードで買ってプリントアウトするというようなことではなくて、この本がいいよというコミュニケーションと、そういうコミュニケーションをする原型的な空間が一人一人の周りにあって、それがどういうふうにつなぎ合わされていくかというところにすごく重要な鍵があるんだろうと思っています。つまり、カンニングです。人の行動を盗み見るようなことがとても重要になってくるような気がします。例えばオフィスでも忙しいからいちいち打ち合わせなんかしていられないけれど、あいつは何をしているかとか、部長は今ちょっと声をかけられるかとか、実は知らぬうちに盗み見ている。そういう意味で、個とその周囲の原型みたいなものができていくのではないかと思うのですが・・・・・・。
篠原 「個」をどういうふうにとらえるか、手続きが見失われている。ミースやコルビュジエの頃の社会は、いわゆる第一次工業社会であり、非常に明確なヴィジュアルな時代だった。ところが、進んだエレクトロニクスがつくり出してくる様相を建築の方へ誘導する方法、例えばコンビニの配置の持つ意味を建築と結びつけていくその方法を調子に乗ってやっていくと、社会の変化の方が先。あるいはまた、情報技術の一つとしての携帯電話、その末端の器具デザインはほとんど問題にならない。ところがモダニズムのデザインというのはそこまで守備範囲としたわけです。ある時点で仮にこの技術と対応するうまい方法が成立しても、今のエレクトロニクスを前提とした技術は日進月歩、午前と午後で違うというくらいに変わっていく。現在の技術社会、経済社会の表層に浮上してきた現象と対応するようなデザインの原型がつくれるのかつくれないのか。
鈴木 ミースが描いた空間においては、個は個でありながら、個が構成する全体がそのまま社会になっていく、あるいは個と社会がダイレクトにつながっていくという図式が見える気がします。一方で、今若い建築家たちが描こうとしている「個」は、それは近代的な「個」とは違うのかもしれませんが、ある意味で自閉的で、ある意味でナルシスティック。ナルシスティックでないと生きていけない、そういう感じがある。ナルシスティックというのは自分の中で閉じて行く感情です。社会から、あるいは共同体から切断したところでのみ、辛うじて成立しているような「個」の姿がある。しかし、自閉的なところでのみ成立する「個」とは幻想のようなもので、基本的にはあり得ないことなのです。やはり全体との関係、社会との関係を明らかにしないとどうしようもないんじゃないか。伊東さんが遊牧少女とパオとか言って、布のような建築を出したときに、それは軽やかで魅力的なアイデアだった。しかし、どうも伊東さん以降につくられていった伊東的な建築、伊東的な空間は、非常にソフトな自閉空間、ソフトなナルシシズムを秘めていたんじゃないか。それが衣服的でファッション的だからナルシスティックという単純な構図ではないのですが。今、こうしたプロセスを振り返って、これを批評的に考えることが必要だという気がします。
篠原 「ハードなナルシシズム」に変化するのか、あるいはナルシシズムを変化させて、「ソフト」は残るのか?
鈴木 少なくとも、「ソフト」なという方は残るように思います。他者との関係がどういうふうに取り込まれるのかはわかりませんし、携帯電話やコンピュータがものすごいスピードで進歩していくのを建築が追いきれるのかどうかわかりませんが、いずれにせよソフトとしかいいようのない関係がどこかで入り込んでくる。
篠原 例えば携帯電話、それはソフトな技術、それがどんどん変わっていくでしょう。そのような事物、対象とは、ソフトな方法で対応しない限り、ハードな方法では初めからわかり切った結果しか出ない。そこでナルシシズムが動き出す。それは本能的な逃避術であるかもしれない。ナルシシズムは、相手がどう変わっても、自分は自分といって行けるところまで行く。最悪の場合、外との回路を閉じればいいわけです。
昔、斜め読みした、心理学的な建築家分析の翻訳書に、世界的に有名な建築家に共通する要素はただ一つ、女性的であるという結論があった。とすれば、ここで、ナルシシズムとの重なりが浮上するかもしれない。
萩原 ミースもやはりナルシストだったんでしょうか?(笑い) 建築家の本質としてミースがナルシストだったとしたら、なぜああいうヒロイズムが演出されたのか。ミースの軌跡を読み込むと、ヒロイズムで出ていく場合に、社会とか他者を自分の中に取り込んでいっている。
鈴木 ミースが建築のある種の原型をつくって、それがアメリカに渡りフィリップ・ジョンソンに受け継がれて、ジョンソンがそれをインターナショナル・スタイルとして資本主義と結びつけて全世界に拡げたという言い方がありますね。現在全世界の都市を埋め尽くす勢いのアメリカン・モダニズムの流れとして、日本の大組織事務所の建築もある。そう考えると日本の大組織事務所の建築というのは、ミース的なものを受け継ぎつつ、ミース的なものから変形されたものと見るのが普通でしょう。それとも組織も建築家の持つナルシシズムの本質を持っていると考えるべきなのでしょうか。例えば、組織事務所の中で、ミース的なものがフィリップ・ジョンソン的なかたちでもってアメリカの資本主義と結びついたものとしてあるという意識はありますか。
萩原 私個人としては後者に近いと理解しています。組織も基本的には個人の集団であるわけで、その個の表現と方法が問われている。極端にいえば「ファンズワース邸」までのミースと、それ以後の彼の作品は全く違っていて、みんな、「シーグラムビル」をベタ褒めしますけれど、あの全体の骨格を決めたのは実はアメリカ社会だという気がするんですね。その他者性に彼がうまく乗ったのかどうかわからないけれど、そういうかたちでナルシシズムが変貌していった。もし、われわれの世代あるいは建築家がナルシシズムだととらえられるとすれば、それぞれが他者と混血状態になったときに、違う展開、楽しいことが起こってくるのかなあ、という気がします。
坂牛さんが1959年生まれ、私と鈴木さんは61年生まれですが、80年代、モダニズムのタイポロジーがほとんど出尽くした中で何か好きかという質問自体が難しい情況になってきた。だから、好きが嫌いかではないところでの議論の仕方をしている世代だと思うんです。
篠原 好きか嫌いか、つまりオール・オア・ナッシングの選択ではない。われわれの世代は、この素朴な単位デジタル、好きか嫌いかを初めに言っちゃう。でも、今は単位デジタルは機能しない。
萩原 多チャンネル時代ですね。
自分の中に仮想敵をつくり出せるか
鈴木 建築の教員をしていて感じることがあります。最近の学生たちは住宅、特に集合住宅の設計をやりたがる傾向があるのですが、それが今までと違う。家族というものを単位にしない集合住宅を考えようとする。で、何をやるかというと、閉じられた個室をやたらと数多く並べたりするわけですね。家族は、たまにその個室から出ていって会えばいい、そういうロジックをたてる学生が多いのです。そんなに閉じられた個室ならば、どこか遠いところで独りで住む家を建てればいいじゃないかというと、やはりそうではなくて集合はさせたい。それを見ていて思うのは、おそらく彼らは(ぼく自身も含めてかもしれませんが)基本的に情報を共有したいし、情報があふれている中にはいたいんだけれども、しかし同時に閉じてもいたい。こうした欲求の構図はいま出ているナルシシズムの空間にも近いところがある。こういうところに今の「個」の気分が共有されているように思います。
篠原 奥野建男さんの「原風景論」は70年代はじめに建築家に影響を与えた言説ですが、原っぱと洞窟という明快な二者択一が議論を建築を含むさまざまな現象に拡げさせた。そのような「0、1」の単位デジタルだったから力を持った。今はその手立てはない。単純な一つに収斂していくものがない。そして携帯電話は原っぱよりも身近な問題だけれども、あれは社会化の方向よりも個人の内側に関わっていく。どんな群衆の中にいても自分の身の回りのことをそこで持ち込むための器物になっている。第二次世界大戦敗戦の頃だった、哲学者、三木清の「孤独は群衆の中にある」という言葉が好きで今も覚えている。彼の孤独のその先は覚えていませんが、私の場合は、個に至った認識をどこかの地点で、その内部に含まれた力によって方向を反転させ、社会との新しい関係を提示するというプログラムです。私の住宅設計のある文脈と重なります。私は街を歩くのが好きなのですが、それは旅行者のように通過するだけで、たまり場は持たない。そういう点では個が好きなタイプの建築家に入るけれども、完全にすべてを断ち切って内向することはなくて、徹底的に個まで持っていってそれを反転する。
しかし、今、若者が関心があるソフトな個は、方法を自分に引きつけたところで完結していく。それは、もしかしたら数多くつくっていき、そしてそれをつなげていく、という私にはない方法が、次の方法の原型になるのかもしれない。さきほど、コミットかデタッチかを質問したのはそのような文脈からです。
これからは小空間が残るという条件よりも、小空間は最初に消えてしまう条件の方が強いのではないか。個と向き合った小空間こそ残る、というのは一種の正義論です。今それを支える確実な理由もないのにそれを信じるんだから、ほとんど宗教。さしあたり教祖(笑い)。でも、何かが、そこにあると思う。問題が少しずれますが、音楽がテープやCDに吸収されていって、音楽ホールの重要性というのは消えていくかもしれない。しかし、まだ建築の世界に入っていなかった頃見た「オーケストラの少女」という映画で、指揮者あるいは演奏家の不思議な身振り、それも音楽の一つの属性であって、そこにも意味がある。
坂牛 指揮をしながら歌う人もいる。これはCDになると消えてしまう。でもそれを聞きたいからホールに足を運ぶ人もいる。情報がパッケージ化されるとどうしてもノイズは飛ばされてしまう。でもそのノイズの中にも人が欲しているものはあるし、それを残してあげるというのが情報化時代の建築だと思うのですが。
鈴木 大空間というのは、人の意識についてはともかく、肉体は消し去るものです。簡単に言えば、CDで聞くのもテレビで見るのも、遠くの方で歌っているのも見るのもほとんど一緒ということは言えると思うんですね。しかし、小空間であれば、歌っている人のマイクを通さない声や息づかいが聞こえてきたりする。今、若い人の中に唯一残っている音楽はダンスミュージックですが、こうした、肉体というものが出てこざるを得ない表現が、これから先も残るかもしれない。身体、肉体に関わるものだけが、最終的に残る。
ただ、その時に、住宅が身体に結びついたものとしてあり得るのかどうか。それとも住宅ではなく、もっとコンビニエントなスタイルになってしまうのかもしれませんね。キッチンがなくても生活はできるわけで、それを住宅と呼べるのかどうか。どうなるのかわかりませんが、いずれにしても、身体、あるいは身体に基づいた人間関係というところの空間だけは残っていくと思うんですね。逆にいえば、大規模な空間もそれをうまくつなげていくことでつくれるんじゃないか。大規模な建築も小さなものの集合であるとすれば、小さな事務所にもやる仕事は残っている(笑い)。
篠原 50年代の機能主義は身体論という言葉は使わなかったけれども、例えば池辺陽さんの方法は身体論的な機能主義だったと思う。透明な身体論だったけれど、今は身体論でもすぐ精神論が出てくる。精神論が出てくると、伝統もそこに入ってくる。もう一度モダニズムの原型を通り抜けるという手続きでも精神論が入ってくるでしょう。前に触れたように戦後の変動期、建築家は本当の意味で家族制度、社会制度にぶつかってきたわけではないし、それはあり得ないわけです。それをやっていたら住宅などはできるわけはなくて、個対社会という部分はかなり曖昧にしてきたわけですが、今はそれを気軽に語り行動することができる時代にもなった。例えば今のファッションも、新しい古いは関係なくて、不思議な個に向かいつつある。そこにあるような個が、建築のこれからの具体的なステップのどの部分に参加してくるのか。今の「個」は、そのままでは「だらしな系」の風俗論になる。何をやってもいいという文脈と、すべてのものは消えていくという文脈が重なる。そうすると、東京というのは世界で一番素晴しい都市だということになる。ハードなものの意味が希薄になって、ソフトなものだけで生き生きとやっていけるとすれば、東京くらい舞台が整っている大都会はない。増設も、排除も、簡単にできる。電柱でさえも実に見事なファンクション。私の1960年代の「東京の混沌の美」はこのソフト系の機能を予測していたものです。間違いのないようにお断りしておけば、電柱の林立を「混沌の美」と言っているわけではなく、それも一つの日本の都市の現実、あるいは特性として眺めているという意味です。
個と全体の対立が希薄な中で新たな空間の力をどう生み出すか
鈴木 今の50歳以下、つまり全共闘未満の人たちは喧嘩の仕方を知らないと言っても、まあいいでしょう。そういう意味でいうとこれから先、われわれの次の世代が闘いの仕方をもう一度覚えるとも思えない。社会へのコミットに関しては絶望的かなという気もします。逆にいえば、コミットできる範囲でやるしかないわけだから、やっぱり小規模だ、ということになる。
萩原 その時に、素朴な意味で空間の力という問題が再浮上するのではないでしょうか。何がこれから空間の力として意味を持ち得るのか。建築家もつくる前にいろんな情報をヴァーチャルに知ってつくっていたけれど、おそらくこれからはそういう単純な縮図だけでは、原型はもちろん、ヴァリエーションすらつくっていけないのではないか。小さい建築の可能性があるとすれば、人間の知覚領域まで踏み込んだ空間の力まで分析がなされたものが出たときに、新しい展開があると思います。例えば、パースペクティヴに変わるような問題、山を歩いているといつも思うんですけど、歩きながらでも、空中から俯瞰した時でも、戦後の人工林と太古からの自然林とは一見してわかる。前者はグリッド状で均質に見えるんだけれども実は高さも植生もバラバラ、一方後者は平面的にはランダムなんだけれども、それぞれの植生は均質に確保されています。ある意味ではパースペクティヴ、個と全体の関係性は時間によって逆転するものだとも感じます。
篠原 以前のような「個」と「全体」の対立関係がなくなっている。今の携帯電話グループというのは、初めから「個」未分化のままの「集団」との連帯がある。その集団と個というのは、かつてのクリアーな対立の構造を持たない。絶えず時代は平板な方向へと進んでいる。文化的事象を熱く受け取るというようなことは、もはやあり得ないのではないか。絶えず醒めている。建築も醒めている。今は、制度といい、問題意識といい、社会意識といい、すべて平板化しつつある。強いリズムが起こり得ない。むしろ、それは幸いなんだろうと思う。そこからエネルギーを取り出す、その取り出し方が今までとは違うのではないか。
萩原 われわれには、0にも1にも枝葉が存在している。単純に個だけでは何も起こり得ないけれども、0の何番と1の何番を選択して自分の中で結合して、まったく違う個になる可能性がある。0か1かというドラスティックな選択はできないけれども、やり方によっては0か1かを気にしているよりも、新しいものが生まれる可能性があると思う。確かに敵がいるという時代ではないけれど、ある意味では自分の中に敵を仮想する余地が残されている。それは個人で闘っても、組織で闘っても同じ条件で、どういう敵を自分で見つけるのか。その敵も、一つ見つけたらそれが一生の敵ではなくて、次の日、変えてもいい。そこが今の時代の現実性のある面白さで、それができるようになると少しずつ変わっていくと思う。
モダンへの回帰についても、ポストモダンの後に一過的な現象としてはそういう現象があるように見えるけれども、そうだと決めつけることが危険だということも、われわれは前の時代から学びとったわけです。だから次に伝統かというと、そうではない。そういう思考方法が一番危ない行為だということもわかっている。今までの建築家のスタイルとしては日本の中でつくるというのがフィックスした条件に近かったと思うのですが、おそらくは日本の中でつくるという条件すらない状態で、新しい建築が生まれてくると思います。
坂牛 確かにテーマは日々変化するようなところがあるし、0、1的発想では前に進めなくなっているのは事実なんですが、しかし、差異だ差異だと騒いでいても前に進めないということもだんだん実感してきたのではないかと思うのです。差異を強調するのと同じくらい、共有するモノあるいはコトを探すことが必要だろうと思うのです。その時に重要なのは何か大きな技術や大きなプログラム変更、あるいは大きなイズムへの傾斜といったことではなく、もう少し日常性の中に垣間見えるさまざまなコト、特にその中にある非日常的なことや不条理といったことに目を向けていくしかないように思います。その一つが、個人の日常的欲望のレヴェルでのデタッチからコミット、篠原先生の言葉でいえば、連帯という意識ということのように思います。
篠原 社会の人々が持っている好みが変わっていくというのは、全世代が一斉に変わるわけではなくて、それは一番若い世代に端的に表れる。その時に、どの辺の部分を押さえて、社会の動きとして見るかは戦略としてかなり重要で、それを巧みに取り扱うのがファッショナブルなデザインの動き方だと思う。しかし、一方、社会の表層にあるヴィジュアルなものを建築に巧みに取り入れたときには、社会の表層が変わるとアッという間にその効果は消えていく。その辺のスタンスの取り方が問題なのでしょう。
鈴木 繰り返しになるけれど、もう一押ししておきたい。モダニズムの最大の問題点は、極端な一般化とか、個を抹殺するような論理です。自由などの普遍的な価値を求める一方で、何か個というものが消えていくような仕掛けというものがモダニズムのどこかに隠されていたはずで、それをとにかくもう一度問題にしようということが、ポストモダンの議論にはあったと思うんですね。モダニズムにはいろいろ問題があった。ポストモダンはそれをもう一度意識の上にあげようとしていた。ところが、いろいろな事情、それはバブルの崩壊というようなことも大きいと思うのですが、とにかくポストモダニズムはもうだめだ、ということになってしまった。ポストモダニズムの中の歴史折衷主義みたいなものは、これはどう見ても出口のない話ですからどうしようもないのですが、しかし、それと一緒にモダンに対する批判が消えてしまうというのはどうにもおかしな話です。それで今、もう一度「モダニズム」だ、「モダニズム再評価だ」といいながら出てきているのが、まあ、モダニズムの理念も何もないような、ファッショナブルな、軽やかな四角形。例えば、レムのスタイル。単なるスタイルとしてのモダニズムを、皆と競って模倣しているわけです。コールハースの批評的視点が「レム・スタイル」になってしまうのでは、コールハースもお気の毒です。
ミース・ファン・デル・ローエは、もちろん、誰もが否定し得ない偉大な建築家で、何を引き継いでいくかというのは考えなければいけないけれど、それを批判的に見るというのは次の世代に残された責任なわけですから、それはやらなくてはいけない。無批判に模倣したりアレンジしたりするのは、歴史に対する責任を放棄するのも同じです。
今日の話題の大組織や大規模建築に結びつけて言うならば、大組織も、個人も体制に組み込まれているわけだから一緒ではありますが、先に述べたような一般化されたかたちのモダニズムの力が強力に表れるのが大組織であって、そして大空間であり、大規模建築です。だからこそ、もう一度小規模建築なんだということを言いたい。つまり、モダニズムが本当に理想として掲げていたものをちゃんと検討するには、それこそミースのシーグラムビルから見るのではなくて、やはりファンズワース邸から見るべきだし、コルビュジエもシャンディガールではなくて、もう少し小さなところから見ていくべきではないか。
篠原 そのモダニズム再批判は面白いから展開していくといいですね。
デタッチとコミットの注釈に代えて
今、建築をどのようなプロセスで作っていくのが妥当なのだろうか?
坂牛卓
ダイアローグ
ある文芸評論家が、日本におけるいわゆるポストモダンは実は19世紀江戸におこっていたと述べていました。すなわち、当時の主流の学問であった朱子学という「理」を重んじる学問に対し、荻生徂徠や伊藤仁斎といった人たちがこの「理」を批判した。面白い例はこの仁斎の塾では、師弟関係を廃したセミナー形式を用い、真理を教えるのではなく、対話を通して物事の意味を浮かび上がらせようとしていたということでした。
建築思考の枠組みを形成しているさまざまな事柄を、常に懐疑的にクリアしながら前進していきたいと、私は今考えています。そのためには仁斎がやったように、セミナー形式で建築を考えるしかないような気がしています。ダイアローグできるような環境に身を投じる必要があるように感じています。
モノローグ
ダイアローグする環境というのは、しかし建築の意味体系の部分で重要なことではあっても、建築が意味から形に飛翔する視覚体系の部分では実は障害ではないかと思います。というのはそこでは何が出てくるか分からない。意味を超えたものが飛び出てくる。例えば有名な例で言えば、サヴォア邸にある浴槽の人体形のようなものです。こうしたものはダイアローグで生まれるものではありません。つまりこの部分でダイアローグするのは、そこでほとばしるエロスをそぎ落とすことになってしまうのではないかと感じます。そこでこの部分においては、基本的にダイアローグしない。モノローグで作る。
半透明
ところでダイアローグというのは、他者を投入するなかで常に外から思考を解体していくという姿勢であり、一方モノローグというのは自己の内面でその精神的なエネルギーを凝縮していくという姿勢です。つまり、前者は考える自分をどこかで疑いどこか信用していない。また後者は最後に自己を煮詰めて形を産み落とすところであり、頼れるものは自分しかいないという部分です。そこでは全面的に自分なのです。かくのごとく、どこかこれからの建築は自分というものが半分透明で半分肉体であるような所から生まれるのではないか、と感じております。自らを半透明にするような。
多少強引ですが、私がデタッチと言っているのはこのダイアローグと、またコミットと言っているのはモノローグと重なるところがあるように思います。言い換えるとデタッチというのは個の内面的な核のようなものから離れていくことであり、コミットというのはその部分を射止めるようなスタンスです。そして今、このコミット(モノローグ)の重要性を再認識したいということなのです。
初出:『篠原一男12の対話 世紀の変わり目の「建築会議」』、建築技術、1999