「そこにあるべきだがそこに見慣れないものを探してくる」こと
1月16日〜3月22日まで「増田信吾+大坪克亘展 それは本当に必要か。」がギャラリー間で開催されている。二人は80年代生まれの未だ30代の建築家ユニットである。妹島和世さんがオープニングの祝辞で「新しい感覚の人たちが現れた」とおしゃっていたが皆そう感じているだろう。そしてそれは一体何なのだろうか?
裏返る「歩」
展覧会のタイトルである「それは本当に必要か。」は彼らが事務所で常に発している言葉だそうである。それは彼らの徹底した無駄の削除であり,選び抜かれたエッセンスの表現ということでもある。21世紀の表現は多かれ少なかれこの傾向がある。豊穣な,あるいは過剰な表現や情報がもたらす無感覚を超えた向こう側にたどり着こうとするのはデフォルトである。となると彼らの表現はそうした引き算(デフォルト)だけで生まれたものではない,計算し尽くされた足し算がそこにはある。今回の展示作品のほとんどは既存に対するリノベ,コンバージョン,内装などである。常に前提がありそこに一手を打つ行為である。そしてその一手の打ち方を彼らは「当てはめる」ではなく「当てはまる」と呼び、環境に順応することだといっている。しかし気をつけなければいけないのは彼らの順応は現状をそのまま肯定した結果ではない。将棋でいえば歩を打ち金に裏返えることを読んだ打ち方なのである。
理念
一般に設計者には自らの経験の中で蓄積した思考がありそれがまとまりとなってその人の理念というようなものに昇華している。設計とはその理念から演繹的になされる場合が多い。しかし建築とはプロジェクト毎の異なるプログラムや環境があるわけでそれぞれの固有性の上にも成り立っている。もし、増田+大坪に経験が蓄積した理念があるとするなら、それは「固有の条件に金に裏返る歩を打つこと」である。そしてそれは、固有の条件との関係性の中で選び抜かれた要素を布置することである。そんなことは最近の建築家は誰だってそうしているのだろうけれど、彼らのそれは人と異なり金にひっくり返るのである。
関係性の強度
ここで彼らの方法を鮮明にするために、2月16日まで東京都現代美術館で展覧会が行われていたミナ ペルホネン,ダムタイプを比較材料としてみたい。ミナはテキスタイルからデザインするファッションデザイナーである。そのデザインは技術に裏打ちされた装飾である。その表層に込められたパターンは豊穣であり,それ自体がすでに十分な表現の強度をもっている。あの圧倒的な人気はその強度に依拠している。一方、ダムタイプの作品はその解説に浅田彰が書いているように「情報過剰の果ての忘却を超えて」いく。ミニマルであるが単なるアンチマキシマムではなく、マキシマム機能不全の向こう側にたどり着くエネルギーを内包している。選び抜かれた音と映像が見る側の耳の奥に,目の奥に強烈な痕跡を残すのである。
見慣れないもの
二つは豊穣とミニマルという対極のスタイルではあるが、それ自体に表現の強度をもつ点で共通する。一方、増田+大坪のデザインはそれ自体に強度をもたない,もたないように慎重にデザインしている。つまりそれは、将棋の駒でいえば「歩」のようなものである。しかしそこに既にある何かとの関係性に強度をつくるのである。関係性に強度をつくるとは、見事な和音か不協和音を作るということである。彼らの場合は後者である。しかもここが重要なのだが、その不協和はシュール・レアリズムのような説明不可能性ではない。なぜなら、それはそこに必要なものだからである。展覧会のタイトルが語るとおりである。しかし、必要ではあるがその場所に普通見慣れたものではない。構成や大きさや形や材質が、そこに見慣れないものなのである。その違和感が「歩」を金化している。彼らの力はそこにある。つまり、「そこにあるべきだがそこに見慣れないものを探してくる」ことが、彼らの新しい感覚を支えているのだと思う。