「菊名貝塚の住宅」に見る重なりの思想
数年前SDレビューでこの建物の計画案を見せていただいた。床下を上手に利用するリノベ手法が興味深く、完成したら見たいと思っていたところにレビューの依頼をいただいた。2022年の真夏の暑い日に菊名の急な坂を汗して登ったところに建物はあった。二人の説明を聴きながら数時間滞在し、1ヶ月後にいただいた新著(塩崎大伸『空間の名づけ−Aと非Aの重なり』NTT出版2022)を読み、本稿を書き始めた。
アトリエコ
設計者のアトリエコは、塩崎大伸さんと小林佐絵子さんが2015年に作った建築家ユニットである。昨今夫婦で建築家ユニットというのは珍しいものではないが、彼らが二人でやることは、彼らの建築コンセプトからくる必然性があるのだろう。というのも彼らの主張のメインには「重なりの思想」なるものがあって、相異なる二つの考え方を重ねようとしているからである。二つの考えを昇華させると言えば、弁証法である。確かに彼らの方法は一見弁証法的だ。ただどうも弁証法的にAとBからCを生むというよりかは、AもBも取り入れて別にCを生み出すわけでもなく、AとBが混在しているという方が実態に則しているようにも思う。だから弁証法的ではなく彼らが言うとおり「重なりの思想」である。
人と犬と猫
私が訪れた時、迎えてくれたのは塩崎さんと小林さんと犬と猫だった。犬と猫はこの家では大事な存在であることに家に入って気がついた。もちろんペットが家族の一員となることはよくあるが、家の作りにおいてもそうなっている。
この家は築三年の中古の家を購入してリノベしたもの。そのリノベの仕方が特徴的だ。というのも既述のとおりこの家は菊名の丘の斜面に建っており、基礎の立ち上がりが深いところで3メートル近くある。そこで彼らは深い基礎をリノベのテーマとした。彼らの最初のアイデアは、大きな掘り炬燵のような場所を複数作るというものだった。しかし建設が始まってから彼らは考え方を変えて、基礎を使うことを徹底した。深い基礎全部丸ごと空間にすることにした。だから建物の約半分(基礎の深い西半分)の床を全部取って基礎底部の捨てコンを見える状態にした。
玄関を入ると細長い建物の半分だけ床があり、半分は大きな穴が空いている状態だ。さらに穴の周りに手すりはない。落ちたらちょっと危ない。実際小林さんはそこに携帯電話を落として壊したという。しかし、そんな穴の縁によく見ると高さ20センチくらいのネットが張り巡らされているのである(私はこのネットに足を引っ掛けてつまずきそうになった)。ネットは犬と猫のための手すりだそうだ。つまりこの家では人間以上にペットの安全に気が配られている。これは犬と猫のための家だなとつまずいたときに思った。人と動物が重なっている。
篠原一男
落下防止ネットが張ってあるくらいだから穴は犬や猫の遊び場というわけではない。となれば何のための穴なのか、どうしたらこんな発想に辿り着くのかと想像した。
塩崎さんは東工大で奥山信一先生の研究室で学んだが、篠原一男の未完の遺作「蓼科山地の初等幾何」の実施図面を描いた。加えて冒頭紹介した彼の新著には篠原一男がたびたび登場する。篠原一男から受けた影響の大きさを物語る。
篠原一男にはいろいろな特徴がある。その一つに土間がある。彼は第1の様式で「土間の家」を作った。家の半分が土間である、第3の様式で作った「谷川さんの住宅」では家の3分の2が土間で、しかも斜面である。そして塩崎さんが図面を描いた「蓼科山地の初頭幾何」には小さいが斜めの土間が部屋の片隅に現れていた。前二つは土間と他の部分の間に段差や壁があり明確な空間の分節がある。しかしこの建物では境界は材質と傾きの違いだけだ。壁も段差もないだけ、サイズは小さいが唐突で、前二つよりインパクトがある。
塩崎さんの自邸の中に現れた穴の唐突さは篠原一男の遺作の土間を彷彿とさせる。分節されない土間である。
塩崎さんは建築概念の様々な二項対立に着目し、その両極の概念の重なりに注意を払っている。建築の形についてもそれが他律的な要因で決まることと、自律的なルールで決まることがあるとしている。そこで自律的に決まりながらも、もしかしたら他律的であったかもしれない。そんな形があるだろうと言うのである。彼らの言葉で言えば「あったかもしれない形」である。その言葉に即して言えば、自邸の穴は篠原一男の「土間」という塩崎さんの記憶の片隅に「あったかもしれない形」ではなかろうか。
捨てコンとボールト
さて建物の半分を占める荒々しい大きな穴の上に目をやると、繊細にデザインされた円弧の連なるボールト天井がある。荒々しさと繊細さという二つの相反するテクスチャーが上下に重なっている。偶然の出来事ではない。意図して異なる二つを重ね合わせているのは彼らのコンセプトとおりである。
彼らはこの天井の発生をアブダクションという言葉で説明する。アブダクション(abduction)とは帰納(induction)演繹(deduction)とならぶ推論の方法である。それは結論を先に措定してその結論が導かれる仮定を事後的に決定する方法である。
彼らの建築(天井)にこの方法を当てはめるのであれば、まず繊細で優美な曲面天井が半ば恣意的に決定される。そして荒々しい捨てコンの斜めの地面の存在がその仮定として事後的に決定されたということだ。僕は荒々しい土間が最初に目についたので、そこから書き始めたが、デザインの決定順序は逆だった。
塩崎さんは帰納や演繹だけだと、決まり切った形しか生まれないというようなことを言っていた。それはそうだと思う。アブダクションというロジックなくしてこの二つの表現が生まれたのかと考えると、天井と床という対比は生まれたかもしれないが、こんな極端な状態にまでなったかどうかは定かではない。
彼がアブダクションを自らの設計の方法に採用しているのは、帰納がボトムアップ、演繹がトップダウンの思考法であり、双方画一化の危険性を孕むことを回避したいからである。しかし彼の思考法は二項対立の中庸を睨み、重なりを尊ぶ思考なのでアブダクションに固執しているわけではない(と思う)。自律/他律、内在/外在、一次性質/二次性質、普遍/多文化、水平思考/垂直思考などなどの双方の重なりの中に自分たちの位置を見出そうとしている。その意味でアブダクションも演繹、帰納の重なりの思想の一部に過ぎない。
緻密さと大胆さ
塩崎さんの新著を読むと、その守備範囲の広さに驚く。多くの思想家や建築家を参照しながら思想は組み立てられている。言葉遣いがとても丁寧で、概念を大事に紡ぎながら、まだ見ぬ建築を生もうとしている息遣いが感じられる。そんなにまでしないと建築はできないのかと問いたくなるような慎重さだ。しかし一方で彼らの建築そのものを見るとそこには「別にあまり深い理由はないのですがこんな形にしてみました」というような大胆な造形があったりする。なんでそうしたの?と聞くと「いや別に」という返事が返ってきたりする。言葉遣いの緻密さをわざと否定するような手の素振りだ。これはアブダクションという方法をとっていることによるのかもしれない、ではなぜこれほど緻密な人が、アブダクションという乱暴な(と言ってもいいような)方法を取るのかという疑問が湧く。しかしこれも対立する二項を重ねようという意図からのことなのかもしれない。
彼らの建築から受け取れることは二項対立の重なりだけではない。そのことだけでこの住宅を理解するのは間違いかもしれない。しかし紙幅に限りがあるのでそこにフォーカスした。加えて勝手な憶測を交えて書くことにした。設計者がそう見せたい建築と見る人がそう見てしまう建築は必ずしも一致しない。その重なりが建築なのだろう。彼らもそう思っているに違いない。