流れと淀み
私はこの建物で楽器を奏で、料理を楽しむことにした。最初はその二つの場所を一枚の壁で一旦区切り、次にこの壁に穴を開けて両側を見あうことを考えた。しかしその方法だと空間が行き止まりとなり、閉塞して息苦しい。そこで壁を短くし、短い壁の周りに回転する空間の流れを作ることにした。それでも一周した空間の流れは短い壁で堰き止められる。そこでバスルームのある箱に窓を開けて流れを少しだけ外に逃してやることにした。その結果空間は流れ、少し淀み、そして外へ漏れ出した。
私はここ4年間の実作:「anyplace.work Fujiyoshida」(2018)「Fujihimuro」(2019)、「子供の家」(2019)、「坂牛邸」(2019)、「地域総合子ども家庭支援センター」(2021)で「流れと淀み」について考えている。本作品はその延長にある。
今から14年前の拙著『建築の規則』[i]の中で建築は物と間でできていると書いたが、近著『建築の設計力』[ii]で建築は「物」と「間」と「流れ」でできていると修正した。流れに思いが至る経緯を以下に記してみたい。
少し原理的な話から始めよう。建築を作るときに私たちは建築に内在する空間や素材という構成要素を操作する。そしてプログラムや周囲の環境といった建築に外在する要素を操作の契機とすることが多い。この内在、外在要素は建築設計に不可欠なものである。
私の訳したジェフリー・スコット『人間主義の建築』[iii]ではゴシック建築を称揚する人は建築に外在する理屈(ロマン主義、倫理、力学など)でゴシックを評価し、ルネサンスを推す著者は建築に内在する概念「量塊、空間、線」を重視する。またエイドリアン・フォーティー『言葉と建築』[iv]を読めばモダニズムは内在概念(機能、構造、空間など)、ポストモダニズムは外在概念(歴史、自然、使用者など)を受け入れたことが分かる。そして現在はその延長として外在概念を重視した他律性の高い建築を評価する傾向がある。
そうした他律思考は建築やアートの世界の外にも散見される。アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートは民主的に弱い意思を束ねる水平的思考を、強い統率的な垂直的思考に対峙させる。そして国家、地域を越えて人々が水平につながり、帝国(垂直的)に対抗することを促す。一見かけ離れて見える、建築やアートの他律思考と政治の水平思考には多様な考え方を受け入れるという点において共通する部分がある。一方単独の強い思想に引っ張られる垂直思考は内在する論理でシステムを機能させようとする自律的思考に重なる。垂直から水平へ、自律から他律へと時代は変容してきているが、水平他律は現代において盤石なものだろうか。
例えば伊藤亜紗『ヴァレリー芸術と身体の哲学』[v]で、伊藤は現代の価値観を民主的でオープンな「水平性」としつつ、一方で水平性の過剰な尊重が垂直方向へ突出する私たちの可能性を抑圧してはいないかと警鐘を鳴らしている。哲学においてはカンタン・メイヤスー等が今まで物を物に纏わる外部的な思考や影響などからその意味や価値を考えていたのに対して、物そのものに内在する意味や価値から再考しようとしている。
伊藤やメイヤスーの思考は半ば盲目的な現代の水平―他律の思考を反省して垂直―自律の可能性の再考を示唆している。
私は伊藤らの考えに共感しつつも、他律から自律へ180度舵を切ることはしない。そうではなく、自律と他律の中庸を解像度を上げてよく観察してみることにした。そこで行ったのは、建築の構成要素の再考だ。既述の通り、建築とは物と間で構成されるという私の当初の認識を見直し、建築自体に回収されない、その他の存在者に目を向けた。それらは、家具や道具などの人工物、人や植物、ペットなどの生き物、光、風、などの環境要素である。こうした要素は建物にとっては半ば必然的な要素であり、準建築と呼んでもいいだろう。そしてここの準建築は建築内でブラウン運動のような無目的的な動きをする。あるいはその建築に適した目的的な動きをする場合もある。いずれにしてもそれらは建築の内部にある限りにおいては、建築の内在要素としての性格が強く、自律的建築の一部として運動する。
一方これらは不動の建築自体とは異なり、動的である。建物内外を行き来し、外の力を受けとり、建築の他律的要素となることもある。つまこ準建築は建築の自律性と他律性の双方の性格を持ち合わせるカメレオンのような存在でもある。さらに準建築には次の二つの特徴がある。一つ目は動かない建築が時として人々の意識の中で新鮮味を失うのとは異なり、動的要素として建築を常時活性化する。二つ目はこれらの動きが建築の部位や空間を造形する道具となる。上記三つの理由によって、私はこれら準建築の可能性を重視した。
これらの準建築は運動要素として速度を持つ。速度が早い時その運動は流れとなり、遅い時は淀みとなる。よってこの準建築を一言で「流れ」と呼び、物と間同様に建築の基本要素として位置付けることにした。私が「流れ」に行き着いた顛末は以上である。
前作坂牛邸(運動と風景)では建物の中心に上下する階段を織り込み。住人の運動(流れ)を前景化した。またこの流れは神楽坂という町の坂の侵入とも読める。そしてそんな流れは建物内では流れるだけではなく流れから外れた淀んだスペースにも連続する。
Fujimi Hutは前作からは程遠い、自然の中にある。緩やかに南に下る斜面に合わせて室内には85センチの段差が中央にある。壁面沿いには±0のレベルに連続する床・ベッド・ベンチ・テーブル・キッチンの流れと、+1520のレベルにあるベッド・棚・ベッドの流れが形態的な連続面を作り、そこで物やアクティビティの移動(流れ)が生まれるように計画した。冒頭述べたようにこの流れは中央の本棚のような壁の辺りで発生して建物をぐるりと回りバスルームの箱にぶつかる。そこで一旦淀むもののバスルームの中に入り込み窓から外に漏れ出る。流れ→外部とのつながり→他律と、淀み→閉じる→自律という二つの考えの中庸として建築を構想している結果である。
[i] 坂牛卓『建築の規則』ナカニシヤ出版2006
[ii] 坂牛卓『建築の設計力』彰国社2020
[iii] ジェフリー・スコット著、坂牛卓、辺見浩久監訳『人間主義の建築:趣味の歴史をめぐる––考察』鹿島出版会 2011 (1914)
[iv] エイドリアン・フォーティー著、坂牛卓、逸見浩久監訳『言葉と建築––語彙体系としてのモダニズム』鹿島出版会 2006 (2000)
[v]伊藤亜紗『ヴァレリー芸術と身体の哲学』講談社学術文庫2021