東海住宅建築賞2024 審査講評「 時代性と地域性」
時代性と地域性
関係性の時代
・形式性から関係性へ
私は去年に続いて今年2回目の審査をいたしました。去年は建築の形式性に注力した作品が多いように感じました。それに対して、今年は建築とその周辺との関係性を表現しようとしているものに優れた作品が多かったと思います。
多治見の住宅では近隣の空き地や建築形態との関係、稲荷の家改修では既存部分との関係、雲谷町の家では周辺ランドスケープとの関係、エア・ガーデンハウスでは外を通る人の視線との関係、ハウスLS では人の力との関係、3匹の同居人と駆け回る家では猫と人間との関係、White caveだけが比較的に自律的な建築独自の理路で生まれているように思えました。
さて去年が形式的で今年が関係的と言うのはたまたまのことで、2010年代くらいから日本の建築界には関係性で建築を作る作法が富に増してきたと言えると思います。その契機となったのは2011年の東日本大震災です。そしてそのことを象徴的に表したのが、2014年に金沢21世紀美術館で行われた2つの建築展です。一つはポンピドゥー・センターパリ国立近代美術館副館長のフレデリック・ミゲルーが監修した『ジャパン・アーキテクツ1945-2010』展。そしてもう一つは五十嵐太郎等が企画した『3.11以後の建築』展です。これらは2011年の前後を取り扱った展覧会です。よって双方を見ると東日本大震災の前後で建築がどう変わったかが分かるようにできています。そして前者は建築独自の強い形式性が顕在化され、後者は建築と人間やコミュニティとの関係性が浮き彫りにされていました。
・関係性の美学と建築
こうした建築の関係性は日本の自然災害が契機となって前景化したのかと言えば必ずしもそうとも言えません。実は建築が参照項としている美術の分野ではすでにだいぶ前から関係性を元に作品が作られています。フランス美術界の理論家であり、キュレーターのニコラ・ブリオーは1998年に『関係性の美学』というタイトルで美術の状況をまとめました。それによると、美術においては美術の持つ超越的で美的なものが人を感動させていた状況が、人が参加できたり人が変形できたりする新しい美術が登場してきたのです。つまり美術がそれに内在する強い力を露わにする時代から、美術とそれに関与する人や物との関係を作る時代に変化してきたことをブリオーは主張したのです。そして五十嵐太郎はそれを受けて「関係性の建築」と言うタイトルで上記の展覧会を説明する論考を書いています。つまり建築は美術の影響を受けながら21世紀に入り徐々に関係性の建築を生み出してきたのです。そして2010年代に入り、震災を契機にさらに多くの関係性を考えた建築を生み出すに至ったと言うことです。今回の住宅建築賞への出品作に関係性の建築が多く登場したことの背景にはこういう美術と建築の関係があげられるのです。
街との応答
・心の余裕
その関係性の持ち方は東京とはだいぶ異なることを感じました。そしておおよそ三つの関係性の生まれ方があるように感じました。一つはそれを生み出す建築家、クライアントの心の余裕のようなものに派生した関係性です。それは作為的ではなく、ごく自然に向こう三軒両隣と対話する姿勢のようなものです。それはそこを流れている空気のようなものに誘われ、それに自然に沿って、それに乗っていたらこうなったと言うふうに見えると言うようなものです。多治見の住宅、稲荷の家改修、雲谷町の家では特にそんなことを感じました。
・自然とのつながり
二つ目の都会との差は自然に囲まれた家は自ずと隣の自然との関係を考えざるを得ないということです。自分の土地にある土は隣の家の土と地続きでありそれは視覚的にも明らかです。東京では地面が続いていたとしても地面など見えない。だから建物の連続は立面図の連続のようなもので地面やそこに生えている緑の連続というようなことにならないのです。しかしここではその連続性は否応なく思考の対象になるのだと思いました。そうした関係性が多治見の住宅や雲谷町の家では強く感じられました。
・形の生まれ方
さらに三つ目は形を作る根拠です。多治見の家に見られる周辺との構成の原理や雲谷町に見られる農業との関係が生み出す外壁の工夫などです。それらは周りにある形を踏襲するというような単純なことではありません。周りにあるものをあるフィルターを通して自らの建物に投射するというようなプロセスを踏んでいると思いました。しかしそのきっかけは周辺にあるのです。
関係性があるから建築が良くなるとは必ずしも言えません。これは一つの時代性です。そしてその関係性の創出は世界中で行われていて、東海地方ではその関係性の現れ方に、地方性がよく現れていると感じた次第です。そうした時代性と地方性を持った建築群の中でも今回最優秀、優秀となった案はその表し方が緻密で意味を持ったものだったということです。