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Jan 2006

竹内

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by 卓 坂牛

空間設計論の講義「structure」を終えて、センター試験の英語ヒアリング試験監督講習会を受け、研究室で雑務。すると携帯が鳴る「牛さーん」というこのとろけるような、鼻音。聞いたことのあるこの甘ったるい声はもしや竹内「17日変更できませーん?」やっぱり竹内。だから昨年暮れに念を押したのに、大丈夫?17日で?「いやー17日こちらの講評会だった」そんなことは知りませんよ。もう工学部長へ書類出しているし、無理無理、日にちの変更なんて。「ごめんなさーい」。とりあえず聞くだけ聞くよ。と言って不愉快に電話を切る。しかし理由が向こうの講評会じゃこっちを変更しない限り、断られるだけだなと頼んでいる側の弱みで、庶務の堀江さんと、会計の長井さんにお詫びの電話をしたら、明るい声で「大丈夫ですよ」と言われほっとする。しかし相変わらずルーズな性格は直ってない。
夕刻の電車で東京へ。車中いろいろ考え事。

手伝うことは学ぶこと

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by 卓 坂牛

白銀の長野は晴れても寒い。デザイン論の今年最初の授業は「NHK長野放送局」の見学。近くに見学できる施設があって良かった。60名くらいの学生を二つに分けて誘導していただく。みかん組のこの建物は竣工直前に見せてもらったが、はや10年近くたつ。ちょっと建物に疲れが散見されたが、ファサードはスマート。しかし2年生主体のこのクラスだと未だ建物の見方を知らないのか、腹が減ったのか寒いのか知らないが、解散したら一目散に大学に帰っていく。建物というのは周囲を一周して、近くから遠くから眺めなければいけないのだが。言わない僕が悪いのか、そんなことも知らない学生がアホなのか??
午後製図室で卒計、修士設計のチェック。図面の細かいチェックをしたいのに図面がない。一体どういうこと?あと一ヶ月で締め切りという時に図面が無かったら設計事務所なら夜逃げだ。どうしてこうみんな計画性がないのだろうか?段取りは設計者の基本的資質だぞ!!!と憤ったところで図面が完成するわけでもない。
2年生3年生は是非上級生の作品作りに協力してあげて欲しい。設計しているところにわいわい野次馬的にインヴォルヴすることも設計者の資質である。見て見ぬふりする奴は僕の部屋には要らない。設計があれば加わる、模型作っていたら手伝う。そこから見習うこともあれば批判精神も養われるのだ。自分の作品作りも大切だが、ぎりぎりまで手伝うこと打算的な奴は伸びないよ。何故かと言うと、社会に出て5年くらいは設計の仕事はひたすら手伝いなのさ。そこから吸収するのが仕事であり、その吸収の遅い奴、そこに批判精神のない奴はもう駄目なのだその時点で。だから大学時代からそうした訓練をしておかなければならないし、そうした行動が苦手な人は端から設計はあきらめなさい。向いてないよ。

松林図屏風が見られるぞ

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by 卓 坂牛

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国立博物館に国宝の部屋があるが、今は長谷川等伯の松林図屏風が見られる。こういうものは出てるときに見ておかないと一生その機会に出会えないわけで、とにかく行く。よく言われていることだろうが、この絵は本物を見ないと分からない。何が分からないかというと、遠目から見た筆触と、近づいた時のそれがまるで違うというところである。遠目ではとても柔らかな濃淡の塊に見えるのだが近寄ると、とても荒々しい筆遣いが見て取れるのである。赤瀬川的に言うと「乱暴力」である。これは竹を割って作った竹筆も使っているとのこと。この荒々しいタッチは竹であろう。しかし、竹を使ってこれだけ荒々しく描くと紙が破けるのではと想像するのだが、どうもそこが素人の浅はかさのようである。書をやっている人間に言わせると、荒れた線こそ渾身の力を腕の筋肉に蓄えながら、筆は紙の上をまるで小動物をなでるかのごとく優しく運筆させるのだそうだ。なるほど。
さてこれもよく言われることだが、桃山の当時、狩野・長谷川は2大デザイン企画事務所だったそうで、電通対博報堂のようなもの、仕事を取るためには必死で時の権力に取り入ったようである。そうした生々しさがこの絵には伺えないが。
国博を駆け抜け、東海大の岩岡さんのオープンハウスに行く。木造三階建130㎡くらいの住宅である。平面中央に螺旋階段があり四葉のクローバーのようにその階段の周りに床がある。床は全部で13枚くらいくっついている。しかしそんなこと理論的に可能?4分の1層上がるごとに床があったら頭がぶつかるでしょう。そうぶつかるような収納室と呼ぶ階高の低い階があるのだ。それら13の床は風呂とトイレを除けば空気は繋がっている。この連続感は眩暈がしそうである。岩岡さんらしい。岩岡さんは松本出身の人。今度信大にも遊びに来てもらうようお願いをして退散。
3時頃帰宅。読書。ベーメの『感覚学としての美学』を読む。7時頃かみさんがピザを買って帰宅。夕食後長野に。寒いので億劫であるが、朝出かけるよりまし。

読書

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by 卓 坂牛

ナタリー・エニック著、三浦篤訳、『ゴッホはなぜゴッホになったか』、藤原書店を読み終える。ゴッホは還元すればトマス・クーンの新しいパラダイムに位置しているという。ではどのようなパラダイム転換を図ったのか?その最大のものは「異常なものが規範化されて芸術における規範性とは規範の外部にあることだとされるようになった」ということだ。ゴッホがその最初なのかなあ?とふと疑問にも感じたがそうなのだろうか。その後、熊倉敬聡のエッセイ集『脱芸術/脱資本主義論』、慶応大学出版会を読む。がんばらなくてもいい社会を目指そうという話である。昨今多いこの手の話は雰囲気は分かるのだが、まだ実感としては共感できないでいる。夕食後ゲルノート・ベーメ著、井村彰他訳『感覚学としての美学』を読み始める。これは読み始めたばかりだがちょっと面白そうだ。美学をその原義であるところの感覚の学に戻せという議論(岩城見一の『感性論』とかW.ヴェルシュの『感性の思考』など)の一つだが、芸術批評の基礎となっているこれまでの美学を、芸術以外の二つの分野に適用しようというところから始まる。それはデザインと自然である。論旨が明快なスタートとその二つはたまさか今の僕の興味のあるところであり、その意味で期待したい。

寒い建物を暖かくする

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by 卓 坂牛

少し寝坊をした。午前中読書。某建物の漏水調査結果がメールされてくる。文章だけでは分からないので工務店に夕方事務所に来てもらう。昼食は娘とうどんを煮て食べる。昨日言われた食物分類表で1日2000キロカロリーを過度に上回らないように食事をしようと決める。そのために1週間くらいは意識的に食べ物のカロリー数を計算してみようと思う。
その後ヤマのクライアントと電話で話しをする。ヤマは開口部が多い建物なので夜の熱逃げが多くかなり冷えるとのコト。対策を考えて欲しいと頼まれた。
これは住宅に限らなずオフィスでもそうなのだが、いくら高性能のガラスを使っても、ガラス面の多い建物は外部の影響を受けやすい。つまり夏暑くて冬寒い。これはある程度仕方ないことである。開放感の代償なのである。しかしもちろん対策が0なことはなく、カーテンでコールドドラフトを窓際で食い止めるとかペアガラスを使うとか、断熱シートを貼るなどの方法はある。しかし根本的にはやはりガラス面は開放性に優れた素材であり断熱性には劣るものと考えざるを得ない。
食事後事務所に行って工務店と打ち合わせ。その後伊藤君の面白そうなプロジェクトの模型を見ながら少し雑談。木島さんのN/Eの写真が上がっていてポジを見せてもらう。撮影は西川さんだそうだ。その後帰宅。夕食後また読書。

大寒波

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by 卓 坂牛

寒い。東京も長野も寒い。数十年ぶりの大寒波が来ている。長野は数十年ぶりの豪雪だそうだ。例年のことが分からない僕にとっては、これがどのくらいすごいことか分からなかったが、早朝の学科会議で他の先生方からそう聞いた。住まいから大学までの道は雪がスキー場のように積もっている。大きな道は車が渋滞。
学科会議の後研究室で雑務。昼食後、某役所の方と会い市の施設の相談を受ける。ソフトウエアの技術者を育成するインキュベーション施設とメディアテークのような図書館を作りたいとのこと。大変積極的に挑戦的なことをしようとしている姿勢に心動かされる。協力しようと思う。
その後卒計、修士設計の様子を製図室で見る。模型は徐々にであるが進展している模様。3年生が手伝っている。2年3年はもっともっと手伝わなければ、ここで見たことやったことは必ずや+になるのである。
その後更に雑務。夜の電車で東京に。某新年会に顔を出す。小児糖尿病が専門の医者に酒を飲まずに甘いモノばかり摂ると危ないと警告を受ける。日本人は粗食の民族だから、現代の飽食の時代にはあっというまにインスリンが欠乏して糖尿になるとのこと。恐ろしい。研究室に栄養表を貼っておけと注意された。この間の高橋睦郎さんのレクチャーの教え「一汁一菜に戻れ」は正しいようだ。

Felice Varini

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by 卓 坂牛

朝、2時間ほど読書。10時半頃事務所に行く。今日はスタッフ全員10名そろった。午後一で中国プロジェクトの打ち合わせ。その後川崎の家の打ち合わせ。基本正方形案と台形案の図面と模型ができている。なかなかうまく解けている。いい感じだ。それに僕が午前中スケッチした第三案の模型と図面を作るように指示した。20日頃にはクライアントと打ち合わせができるかな?。
その後長野に向かう途中で東京駅の丸善洋書アートコーナーに立ち寄る。ここは大学の校費で買って届けてくれる便利な書店なので、月に2度くらいは立ち寄り、洋書の新刊をチェックする。しかし最近は校費で本を買うのは止めた。最終的に退官時、大学に返却することを考えたら、校費で買うのは、本当に資料的なものか、そのときどうしても見たいけれど将来は不要というものに限らないと後で悲しい思いをする。校費はだから、本ではなくコンピューターとか、模型材料とかそういうものに使うほうが賢い。
さてそこでFelice Variniという建築に絵を描くアーティストの作品集を発見して購入。中世の城とか、街並みとか、インテリアも含めてある視点に立ってみるとある形が見えるように描くのである。例えば手前の城壁、その向こうの塔、そしてその隣のパラッツォを含めて大きな円が描かれているように見えるように計算されて描かれる。もちろんそれはある一点からしかそう見えない。しかし逆に違う視点から見ると不思議な線や色の断片が方々の建物に飛び散ったように見えるのである。そしてそのほうがむしろ面白い。そして、そこにいくつかの建物に網がけされた関係性が見えてくる。
そう川崎の家では2個の家の関係がすべてなのである。二つのものは兄弟だけど2卵生でありぱっと見は違うけれど話してみるとああ兄弟、似てないけれど近い。例の矛盾を秘めたテーゼとなることを狙っている。
と、この日記を打ち終わって、トイレにたったら同じ車両に構造の五十田先生が乗っていた。新年の挨拶をする。

仕事始め

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by 卓 坂牛

仕事始めである。10時頃事務所に行く。これまで来た年賀状、戻ってきた年賀状を整理。住所録の書き換え、そして12月の経理チェックなどして、新宿の銀行で雑務を処理。まだ4日の新宿はそれほど混んではいない。世界堂により、小さなスケッチブックを買いだめする。事務所にもどり、秘書と打ち合わせ。その後、ナカジと中国プロジェクトの打ち合わせ。どうも中国からは理解困難な返答が返ってきて困ってしまう。このゼネコンは一体仕事をする気があるのだろうか?しかし、まあ責任ある仕事にはそれだけの金をはらえということか?安かろう悪かろうで後で泣くのは設計事務所。その意味では、バナナのように安くなっても信用できないのだが、こちらは理詰めで話しているのに、ある時開き直るというのは大人の会話とは思えない。
川崎プロジェクトのスケッチをする。するのだが、今日はとてつもなく寒い。ガスヒーターつけてエアコン2台つけているのだが、足元が寒くてもうだめ。夕食をとっていないのも響いて震え上がり帰宅。窓側で仕事をしている人たちはきっと僕より寒いだろう。かわいそうに。

衣・食

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by 卓 坂牛

朝、日課の『判断力批判』を少々読む。私の読んでいる宇都宮訳においてはasthetischが崇高概念を含むときは美学的とは訳されず、情感的と訳されている。だから第一編は「情感的判断力の分析論」となっている。(これが篠田訳では、「美学的判断力の分析論」となる)
食後午前中は読書。『ゴッホはなぜゴッホになったか』はおいておいて、先日ヴィヴィアン・ウエストウッドの展覧会の時に買ってきたファッションの本、ミッシェル・リーの『ファッション中毒』を斜め読みし続いて、スーザンフランケルの『ヴィジョナリーズーファッション・デザイナーの哲学』を読む。
ディオールの若きデザイナー、ジョン・ガリアーノは僕と同い年、ジバンシーの若き天才、アレクサンダー・マックイーンは10も下である。すごいものだ。しかしそんな中で色あせないのは川久保である。真摯にファッションは創造の発露の場であると考えている。著者も、ファッションをお金と無縁なものと考えるデザイナーは世界に二人しかいないと書いている。それは三宅と川久保だそうだ。
そんな本を読んでいたら洋服が欲しくなった。バーゲンの伊勢丹にふらりと出かける。殺人的な人ごみで長野用に暖かいパンツを1本買って退散。お米を買ってきてと言われたので地下で奮発して宮城産ひとめぼれを買ってきた。これはうまい。何か違うものを食べているようだ。

美食家

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by 卓 坂牛

1月2日に雨が降るのはあまり記憶にない。ラグビー大学選手権を少しテレビ観戦。雨中戦を制したのは関東学院と早稲田。、同志社、法政を破り決勝進出である。それにしても早稲田は圧倒的に強い。準決勝だというのに50点台の得点であった。優勝は確実だろうか?
先日の銀座のレクチャーで薦められた谷崎の『美食倶楽部』を読む。短編なので30分で読んだ。5人の美食家たちのグループが毎月美味しいものを食べるのだが、手に入るすべての美味しいものを食べ尽くしてしまった。そこで考え出された新たな料理とは味覚だけでなく触覚に訴えるような料理、という話である。いかにも谷崎らしい官能的な美食芸術である。
さてそれを読んでから、家族で河豚を食べに行く。私は美食家ではないので河豚で十分味覚を満足させて帰宅した。『ゴッホはなぜゴッホになったか』を読みながら就寝。