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Jun 2006

ジャン=リュック・ナンシー

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by 卓 坂牛

梅雨の合間の晴れ間である。東京も長野も30度近くまで気温が上がったようだ。本当にこの時期建物が完成するとこういう晴れ間は恨めしい。今日撮影できればなあと仮想現実願望が湧き上がる。しかし撮影が明後日なのは厳然たるもので変えようはない。
ジャン=リュック・ナンシー「はるかな都市」を読んだ。解題の文章を書くため。この文章は第一部と第二部に分かれているが前者は1987年に書かれ、後者は1999年に書かれている。ロサンゼルスについての文章である。偶然だが僕は1984年から85年にかけこの都市に住み。そして取材のために1998年にこの都市に少し滞在した。ナンシーの二つの文章の時期とぴったり合っているのにいささか驚いた。第一部の文章はまるで僕の文章を読んでいるようで、その意味で言いたいことはよく分かるが、第二部の文章はまるで詩のようでありちょっと手強い。共同体のこともかなり書かれているので『無為の共同体』をはじめ他の著作を読んでからまた読んでみたい。

これが現実

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by 卓 坂牛

今晩長野に行こうと思ったがそれは無理。
この試合を見ずに行くわけにも行かない。
明日の始発で行こう。
pkを取られたときはもう終ったかと思ったが、川口はすごい。
宮本が今ひとつ。柳沢もかわしきれない。二人は代えたほうが良いように思う。
とりあえずハーフタイムの感想。
玉田は全然駄目。
一番仕事をしていたのは中田という気がした。
しかし、よくもまあ一点も取られなかったというのが正直な感想。
引き分けになったのも幸運としかいいようがない。

色々

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by 卓 坂牛

9時から施主検収。指摘事項も少なく、来週のオープンハウスは何とかできそうである。渡辺組さん最後のスパートありがとう。11時頃jt豊田さん現場来訪「ヤマが横に広がったようですね」との感想をいただく。子供部屋の水色にはびっくりしていたようだ。午後奥山先生と鹿島の松口さんたちと篠原先生を訪問する予定だったが先生の調子が今ひとつで延期。そこでかみさんを呼んでポンペイ展を見る。越塚さんが画像アーカイブを作ったということで無料券をもらっていた。なぜか知らないがとてつもない混みかたで驚く。ポンペイというと僕などは発掘されたローマ時代の遺跡という認識しかないが、ヴェスビオ火山の大災害であったということがよく分かった。そして壁画の色が再現されいてたがとてもきれい。
夜テレビでドレスデン世界遺産を見る。初めてゼンパーオーパーをカラーで見た。ポリクロミーを標榜するゼンパーらしい凄い多色であった。

優秀研究に驚き

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by 卓 坂牛

住宅総合研究財団という清水建設の社長が私費を投じてできた財団がある。その研究助成に信州大学のT先生が応募して見事採択された、私もちょっとその研究の一部を執筆するということで東京に来たついでにその研究のキックオフミーティングに顔を出した。そこで昨年の優秀研究者のプレゼンがあった。その一つの研究にちょっとびっくりした。それはとある奇病の患者の生活実態を調査してそのプランニングと患者と介護者の位置関係、患者(寝たきり)の視覚、聴覚体験と家の意味を調査した物である。そもそもこの奇病患者世の中にそう沢山いない。そしてそれを探し出しても、中々調査させてくれない。そこでボランティア活動をしながらギブティで調査をお願いしてやっと調査可能となる。そして毎日のように患者の家に通いその生活を見て、聞いて、触って実態を感得するのである。そう話を聞いていると、実態調査というより実態経験である。
こういう研究も「住宅」研究の一環としてあるのだなあとしみじみと感じそして驚いた。

音楽家の厳しさ

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by 卓 坂牛

少しセンチな話だが、僕は小学校のとき何かの文集に将来の夢と称して小澤のような指揮者になりたいと書いたことがあった。ヴァイオリンをやっていたけれど最終的には指揮者になりたかった。小澤だって師匠の斉藤先生からチェロを習っていたことを知っていたので、弦楽器をやっていることはオケを振るにはプラスだと考えていた。だから小学校のかなり低学年からオケのスコアを読むのが趣味で一人スコアを見ながらレコードを聴いて棒を振るオタクだったのである。
ところが小澤はあまり日本にいないので聞くチャンスが無かった。やっと中学生になって第九を聞きに行ったときは感無量であった。そのころ外国からすごいのが来ると殆ど全部聞きに行っていた。小遣いは無かったが音楽会の切符と本代はいくらでも出してくれる親だった。カラヤンもメニューインもハイフェッツも、とにかくオケとヴァイオリンは行った。しかしやっぱり小澤の感動が一番大きかった。
そんな訳で小澤と武満の対談はいちいち応えるのだが、一番応えたことがある。それはあの厳しい武満が小澤が勉強不足で「おれなんか全然駄目だ」と悲観し、自分と戦っている姿を見てショックを受けたという話である。厳しい武満がショックを受けるほど小澤は自分に厳しいという話である。凄いなあーと思う。建築家(僕を含めて)なんてそう考えると本当にいい加減である。音楽家の方が厳しい。それはもう厳然とした事実だと思う。その差を埋めなければ駄目なんだとつくづく思った。そうしないと建築は何時までも似非アートである。

パーソナルか?

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by 卓 坂牛

k-project写真を上田宏さんにお願いした。本日撮影。今日のはうまくとれているだろうか?
k-project来週のオープンハウスのお知らせをお送りしたところ、化けているというメールを数名から頂いた。かなりの人に送ったものが化けているであろう。どうも最近のこのパソコンの調子がわるい。困ったなあ!!
長野県の某市の教育会からプロポ審査員のお願いがくる。指名者も決まっているのでまあそんな大変でもなかろうとお受けした。ただ塩尻市の審査員とは異なりあまりエキサイティングにはならないだろう。地元の建築啓蒙活動と思えばその意義がないでもないが、、、、
卒業設計巡回展の図面を見た。京都大学と早稲田大学の図面はすばらしい。建築がある程度できていないとやはり駄目。どうも途中で止めましたという図面がとても多いのでこの二つは光っていた。
ベッドで武満、小澤の対談を読む。異口同音に音楽はパーソナルなものであるという話が面白かった。3000人の聴衆全員に分かってもらおうと思ってやってない、一人一人と対話しているのだという。また平均律で音を作ろうとするのはおかしいという。そんなことをしていたら日本の楽器は消滅すると言う。更に洞察のあると思う言葉は武満が、こうした現状を悲観もしないし楽観もしない、という態度。それが現状というある種の諦観である。
建築もパーソナルか?奥山が建築の作家性についてインタビューしたという。伊東さんは建築は最後はパーソナルなものと言っていた。しかし本当にそうだろうか?学生の作品も光る二つは明らかにかなりパーソナルである。それが見えないものはもちろん駄目だと思う。しかしそれが光って見えるのは僕が共有する何かを持っているからでしかない。音楽だってそうだろう。何かを共有しているそれを見つけないことには駄目だと思う。

ゼミ、ふー

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by 卓 坂牛

ゼミが終ったら12時過ぎ、、、、と確か先週もそうだった。火曜の夜は院生ゼミ、m2の修士設計と修論。ついでに、m1のコンペ案の全員での意見交換である。まあみんなで言いたいことを言う。リアリティと夢の臨界点がいつも夢の側に振れいているようである。
朝のゼミでは、ル・フェーヴェルの『空間の生産』を読んだ。こんなもの真剣に読んだらひどく時間がかかるので、2回(4コマ)で読みきろうという意気込みで今日は半分終わりとした。こういう読み方でいいのかという疑問は残るものの、工学系の学生に対して、建築に関わる哲学、社会学の名著をとにかく数多く知らせるというのがこのゼミの主旨である。さて再来週は何にしようか?少し悩む。

現地審査

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by 卓 坂牛

学会選集の現地審査がもう一つ増えた。住宅である。住宅の審査はクライアントにお願いするのが大変。やはり中を見せてもらうのは気が引ける。そんな権利はこちらにはないからなあ。篠原先生が無断で建物を見に行くのを強く禁止していたのはよく分かる。それなら自分の親戚とか自分の家建てるのが手っ取り早い。今のところ無理だけれど。大学定年になる頃までには自邸を作りたいと思うのだが昨今の金欠を考えるととても無理という感じ。かみさんにも諦めたらと言われている。かみさんの書を高値で買ってくれる人とか奇跡的に現われないだろうか??

音楽の空気

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by 卓 坂牛

武満徹の展覧会を見に行ったので武満と小沢の対談を買って読んでいたら、空気の話が書いてあった。空気は音楽に強く影響する。最近の演奏会場は空気が大事にされていない。やたら音を吸い取り、音が空気と響いている感じがしないという。
ホールも日本のホールは残響が短いのだろうか?短いほど几帳面な音になると思うのだが、ボストンあたりは長いのか?あまり指揮のサインを几帳面に出す必要がないという。また楽器は生まれた空気のところでないといい音がしないとも書いてある。武満のノヴェンバー・ステップをニューヨークで演奏したときは、尺八は割れるし、琵琶は濡れタオルで包みセロリの葉を巻いて乾燥を逃れたと書いてある。うーんそうか日本の楽器は湿気を好むのか。
ヴァイオリンはまったく逆で梅雨になると音が出なくなるのである。箱は湿気ると響かなくなるし、弦は伸びるので音程がどんどん下がる。冬はそれに比べて実に良いのである。武満も書いている。日本のヴァイオリニストは海外に行くと(湿気がないと)うまくなったと誤解する人がいるようだと。

スライドで見る写真

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by 卓 坂牛

朝、かみさんと都現美にカルティエコレクション展覧会を見に行く。光岡君が川内倫子が良かったというのを聞いていたので、時間がないからそれだけ見ようと出かけた。しかしその前に登場したロン・ミュエクの巨大人形とデニス・オッペンハイムの論争する人形の、ふたつの人形で今日は十分堪能。
川内さんの作品は既に写真集で見ていた。それに加え、ああいうくらい部屋でスライド風に見せられると写真のよさが薄れるように感じられた。写真家の作品をプロジェクターで映すという見せ方はいくつかあったが、これはあまり良くない。暗い部屋に入った瞬間にもう気分は映画になっている。そこでシンプルな写真画像を解像度低く見せられると、それはもう写真ではない。メディアはメッセージであるというマクルーハンの言葉どおり、映画と言うメディアで写真を見せるということはケーキを箸で食べるような気分である。作者はそんなことを見越してはいると思うのだが、成功しているとは思えない。
午後、k-projectの事務所検査、3時から7時まで、やや修正もあったがまずまずの出来だと思う。もちろんチェック項目は沢山ありそれを速やかに改善してほしい。