昼からリーテムの打ち合わせ。今日はクライアントの出席者が少なくてまいった。夕刻若松氏から℡。オープンデスクで学生の受け入れをお願いする。快諾していただく。ありがたいことだ。しかし内の学生は分かっているのだろうか?オープンデスクにいくと言うのはその人の建築を心から好きで敬愛してやまないから行くのであって、ただ建築の実習に行く程度の心構えで行くのならやめて欲しい。だいたいそんなつもりで行ったら相手に失礼だ。今度よく言っておこう。
夕刻東工大の奥山氏が来所。住宅論の打ち合わせ。建築における通時性を考え、つまり作品の歴史的な背景と未来への展望を考える中で、共時性、つまり現代性をどう担保するかという問題を議論した。この議論は住宅を考える本のインタビューの骨子であり、論文の寄稿をお願いする人への問いである。議論は煮詰まるが、うまい言葉は見つからず二人で宿題とする。8時くらいになって腹が空いたので二人で食事。昨日の講評会の話などした。安田さんの選んだもの、藤田氏の選んだものなどをつまみに、話は盛り上がる。次回講評会に来てもらうことを約束。しかしどうも間違えて日時を伝えた。彼は火曜日は空いているということだから7月11日の4年に来てもらおうかな。
昨日は製図第三、三年生課題の講評会。東京から、東工大の安田氏と竹中工務店の藤田氏をお呼びした。遠路はるばるありがとうございます。
今の三年生は2年の後期から見ているが、2年のときはプロスペクターの今村氏、山本氏にゲストで見ていただいたし、デザイン論ではレポートをみかん組みの竹内氏に見てもらった。
課題は三沢浩が40年前に設計した蔵春閣というコンクリート打ち放しの建物をコンヴァージョンするというもの。敷地は東山美術館の近くで城山という小高い丘の上にある。建物自体かなり個性の強いものであり、それとどう立ち向かうかはかなりの難問であることは事実である。用途を何にするかは学生の自由である。ホスピス、足湯、教会、ホテル、食の空間、などなど。
学生の案を見るのも楽しみだが、ゲストを呼んだときは、ゲストの話も興味深い、つまり、ゲストが何を評価し何を否定するかという点である。もちろん知らぬ人を呼んでいるのではないから、うすうすその人の主義主張は知っているつもりだが、それでも、「ああこういうものをいいと言うのか」と改めて感じたりすることはしばしばである。二人にはそれぞれ安田賞、藤田賞を選んでもらった。後日ホームページにアップしたい。
研究室の学生と二人の先生で食事、場所はなんと若き日の林雅子設計の守谷商会(今は引越して飲食店などが入っているが)の小料理屋である。安田氏は明日6時の新幹線で京都へ、藤田氏は8時から打ち合わせとのことで9時の新幹線で東京へ帰られた。ご苦労様でした。
朝一東京、そのまま横浜、山本理顕さんの事務所へ、高橋晶子さん、某市の方々3名、11時から打ち合わせ。終ったら3時半。いや参った。根詰めた打ち合わせだった。東海道線で東京。事務所に戻り、打ち合わせ。北京からの回答書が届いていた。日本語訳が下手なせいか、読んでいると少々頭が痛くなる。しかし見積もり三社のうちここだけ3割以上安いので、その理由がつかめず困っている。他の二社は日本的サービスをします。ということなので、その分高いのはまあ分かるのだが、それでは中国的に乗っかると何が起こるのか?想像できない。その後川崎の打ち合わせ、外樋を付けたくないということでもう数ヶ月内樋のディテールを思案しているのだが、考え方をかえることとした。内樋ではなく屋根の端の方に土手を作ることとした。それから勾配を変えて雨の行く方向を限定することとした。なるべく厳しいディテールの箇所を減らすという考え。ケント紙を切って外形ラインを模索。あるところでやっといい形になってきた。コレでいこう。
明日の某クライアントとの打ち合わせはナカジにお任せ。帰宅、夕食を食べ、今日は自宅泊。長野は早朝に行こう。明日は製図第三の講評会。安田氏と藤田氏がやってくる。学生の奮起を期待する。
ゼミが終ったら12時を回っている。明日は7時半の新幹線で東京、横浜。
今朝はシュマルゾウの『芸術学の基礎概念』を読んでいた。そういえば基礎概念というのが流行っていて、フランクルの『建築造形原理の展開』は復刊されたら『建築史の基礎概念』になっていた。井上君が音楽の翻訳本で原題はそんな言葉が入ってないけれど『音楽史の基礎概念』という本があると言っていた。ヴェルフリンの『美術史の基礎概念』やウエーバーの『社会学の基礎概念』はとても有名だが、「基礎概念」というのは売れるタイトルなのだろうか?
建築学科の中込先生(構造)が建築学会論文賞を受賞した。と言うわけでお祝いの会を学科で開いた。いつも生協の揚げ物しかないのに、今日は刺身に寿司。豪勢な会である。信大の建築学科もやっと世に認められたということだと。若い先生もコレに続けと。奨励賞を取れと。大会には絶対発表せよと。中込節炸裂である。更に、就職もどこで大丈夫だと。日建だって入れるぞ!!と相槌を求められたので、思わず唸ってしまった。
もう少し時間がかかるだろうなあ。高橋さんも武蔵美着任時はどうなることかと思ったけれど、3年たってだいぶ変わったと言っていた。まあ最初(2年)から教えた学生が院に行く頃にはだいぶ意識が変わっているだろうか?
とネガティブなことばかり言っていても仕方ないからまあ明日のゼミやら、明々後日の講評会とか期待しよう。
A0の勉強会、ColominaのSexuality and SpaceとVidlerのWarped Spaceから各自面白そうな論考を一つづつ読んできて発表。コロミーナの‘sexuality and space`はプリンストンで行われたシンポジウムの記録ということになっているが、載っている論文はかなりキチンとした論文である。Lynn Spigel の論文The Suburban Home Companionは40年代アメリカの郊外住宅の中でテレビが男女の性差をどのように構造化したかを跡付けている。またMark Wigley の論文 Untitled:The Housing Genderはアルベルティの建築論の中から家族論を対象に空間が男女性差を確立しているというユニークな着眼点の考察を行っている。sexuality かgenderかという問題はさておき、トピックが面白いし、資料がしっかりしているようである。一方ヴィドラーは論文集ではないがパートが二つに分かれており、前半は近代の不安や恐怖の一般論、後半はそれに即した作家紹介という形で前半を誰も読んできていないので、まだ全体像がつかめていない。
双方面白そうだが、もう一回内容を見る勉強会を開くこととした。教科書は、Geoffrey ScottのArchitecture of Humanismも加えることとした。
夕食後長野に、車中D.A.ノーマンの『誰のためのデザイン?』を読む。認知科学者のデザイン原論と副題がついている。家電製品の操作の分かりづらさはデザイナーの責任という話しである。では分かりやすくするためのポイントはというと、視認性(visibility)と対応づけ(mapping)と彼は言う。つまり操作器具は何をするものか対応関係が明確で操作した結果が目で見えなくてはいけないということである。当たり前のことだが、なるほどと思う。
昨日は、早朝ジョギング。途中四谷図書館で本を返却し、新宿御苑まで行った。環境月間の土曜日なので入場料無料。数十年ぶりで入場。巨大芝生広場にいるのは自分だけ。nttのエンパイアステートのようなビルが見えるだけ。爽快。帰りは浅野屋(軽井沢にもお店の在る美味しいパン屋)でバゲットを買う。
朝食後論文やら、読書やら、2時から仙田先生の退官記念パーティーがあるので昼食はとらないで我慢。
パーティーは国際文化会館で行われる。会場に着いたら受付は長蛇の列。仙田先生の交友関係の広さが伺える。あの大きなホールに人が溢れ庭も人人。出版関係、施工関係、いろいろ飛び回り挨拶。
八木先生:先日講評会に来られなかったことを謝られた。
安田さん:先日のお礼を言われ、信大講評会の時間確認。
林さん:芦原賞見学会の祝電にお礼。
坂本先生:お元気そうで。
香山先生:『言葉と建築』にお褒めの言葉を頂戴。激励される。恐縮しました。
堀池さん:お久しぶりです。
横山(東工大の材料の先生で同期):元気そうとは言えない。少し痩せたほうがいいよ。
小倉善明さん:久しぶりです。芦原賞よかったねと激励された。
菊竹さん、谷口さん、只野さん、奥山、などなど人が多すぎて言葉もかわせず。
パーティーでいろいろ食べると思っていたら祝辞が長く、何も食べられず空腹のまま現場へ。
k projectの現場定例。だいぶできてきた。大工や塗装屋の腕が比較的いいので、安心して見てられる。ただ最後まで気を抜かずやってもらいたい。照明の色がばらばらなのを修正するように担当に指示。今回は今まで使ったことの無い寒色系の色を使おうと思い立ったのだが、クライアントが色好きで空色がグリーン系になり少し意外なインテリア。でもこういう予想外の展開も建築の楽しさではある?
半ばくらいにオープンハウスをしたい。
帰宅後近くのすし屋で家族で食事。朝のジョギングで体が熱く。ベッドで文芸春秋を読んだまま眠りに。
昼食をともにしたある方は「僕は既に一生生活に困らないだけの所得を得た」と言っていた。世の中にはこういう人もいるのだなあとびっくりした。羨ましいとは思わないが、現代の日本では、何かの拍子にそういう人生を歩む道に入ることが可能であるようだ。そしてつまりそういう道が用意されているということなのである。そして必ずしもそういう道はあまり公にはなっておらず、(というのもその方もその道に進めばそうした給与を得られると意識してその道に進んだわけではないのである)かなり偶然そういうことになったようなのである。そんな世の中が少々不思議だったり、面白かったりした。でももちろん努力と粘りと能力があってのことであり、頭が下がる。
梅雨前の夏日。これから梅雨になると思うと憂鬱である。梅雨とか台風とか建築家にとっては魔のシーズンである。
去年金箱さんが松井源吾賞をとられた時、受賞パーティーの祝辞で原さんが言っていた。「昔は台風が来ると自分の設計した建物をそれて行くことを願っていたけれど、最近はどこを通っても自分の建物があるので逃げられない。でも金箱さんの設計はそんな心配を吹き飛ばしてくれる」本当にそうだ。建築家とは因果な商売で自分の建物が建っているそばに行くと気が休まらない。自分の設計したものによって豊かな生活が送れているだろうか、何事も無く平和に過ごしているだろうか、いろいろなことを考えてしまう。そして年をとればとるほどそういうものが蓄積されるのである。喜びも増えるが心労も増える。一生付きまとうのである。