仕事がたまる。届きそうで手が届かないようなもどかしさ。だんだん人を使うことが仕事になるのがいやだけれど仕方ない。自分でできないと人のやっていることはもどかしい。その人の能力の問題ではなく自分とのペースのずれがストレスを生む。大した量の仕事をしているわけではないのだが問題の性質がその昔と違う。それに加え仕事の種類と場所がばらばらということもある。
帰宅後、「ふー」とため息をついて「こんないらいらの募る状態は昔あったかなあ?」とかみさんに聞くと「昔はもっと忙しくてそのまま体を壊していたけれど、いまは体じゃやくて精神にきているみたいね。」と言う。まあ日建にあのままいたってこの年になってやることは人を使うことだろうからもっとストレスがたまっているかもしれない。それに比べれば今ましか?30個くらい仕事抱えていた人いたもんなあ日建には。
暗い話ばかり、でもない。イタリアの雑誌にAREAと言うのがあって東京特集号が出た。その一角にRE-TEM東京工場が掲載された。ANDO,AOKI,BAN,HERZOG,DYTHAM,KUMA,KUROKAWA,MAKI,RYUI,PIANO,ROGERS,UEYAMA,SANAA,MAKOTO WATANABE,TEKUTO,YAMAMOTO,ATELIER BOW-WOW,F.O.B.A.ISHIKAWA,NAYA,IRIE,TEZUKA,と言う顔ぶれで、エルクロのような本だが、さすがイタリア産。ブックデザインが抜群である。リーテムが掲載されたものの中では一番美しい。
製図の講評会という話題が多い。前期は2つも持っているからなのだが、今日は3年の後半課題。非常勤の片倉先生とゲストで日工大の小川次郎氏に来校してもらった。小川君には現在設計中の日工大図書館と妻有の芸術祭の出品作のレクチャーをしてもらった。これが本当にすごい。彼はバイタリティの塊である。敬意を表する。
後半課題は前半よりやや短めだし、皆4年生の製図手伝ったりしていたのだが頑張ったと思う。小川君は、全体のレベルが平均的に高いことを感心していた。トップのレベルは似たようなものだが、学年の半分とはいえ、(発表者は25人にしているので学年の半分である)全員があるレベルに達しているのがすごいとびっくりしていた。
確かに今回は短い期間によくやったと思う。ダッシュする力がついてきた。しかし僕が大学3年の時は前期第一課題伊東豊雄のホテル、第二課題、同じく伊東さんのヴォリュームを4分割して機能を与えるという概念的なプログラム、第三課題香山壽夫の小学校、後期第一課題倉俣史朗のショップ、第二課題磯崎新の劇場、第三課題大高正人の美術館、年間6課題やっていたのを思えば短いといっても大したことは無い。
帰りは小川君と一緒に東京へ。建築談義に花が咲く。なんとか彼と合同で面白いことをしようと考えているのだが、まだいい案が浮かばない。
昔こういうことがあった。まだ建築を始めて5年くらいの時だったと思う。10人くらいのクライアントを連れてその当時共同設計をしていたアメリカの設計事務所に行ったときである。我々の作った基本骨格をキャッチボールでアメリカに投げ彼等がそれをデヴェロップしてその結果をプレゼンするというミーティングであった。彼等のプレゼンテーションルームで1時間近く行われたミーティングの後クライアントは不満の顔を示した。不満が怒りに変わった。プレゼンが気に入らなかったようである。アメリカの事務所の失態は我々の責任というのがクライアントの言い分である。それは当たり前かもしれない。私は事務所の代表として上に誰も居ない出張で東京に電話をしたところ「全部丸く納めて帰って来い」と言われアメリカの事務所に残り図面を描き戻ってきた記憶がある。とてもつらいことだった。自分のプレゼンに文句を言われたならいざ知らず、、、、
この数日あの悪夢が再来してストレスフルである。建築家の宿命ではあるものの、、、
朝の新幹線で長野。ひどい雨。これから梅雨かという感じである。しかも長野は寒い。朝から4年生の卒論ゼミ昼から修士のゼミ、夜からコンペのゼミ。
話は変わるが長野に来る車中ベンヤミンの参考書を読んでいた。
ベンヤミンは複製技術とパッサージュ論を2冊ほどその昔に申し訳程度に読んだだけであった。昨日目を通したドイツ悲哀劇の根源をきっかけにもう少しきちんと読もうかと思っていたところ本棚の積読スペースに1年以上も前に買った鹿島茂の『パッサージュ論熟読玩味』を発見。ちょっと読んだら実に楽しい。中分さんが薦めてくれただけのことはある本である。ベンヤミンに興味のある方は(もちろん専門家以外の方で)是非ご一読を。
昨日の勉強会で井上君の解説したヴィドラーの‘Dead End Street Walter Benjamin and the Space of Distraction`はとても面白そうな論文だった。特に気散じの空間というのが僕の考えていることと関係ありそうである。ベンヤミンの無意識というのはこのことであり、ハイデッガーとともにベンヤミンの主要概念だったということが昨日分かった(お恥ずかしい)。その論考で話題になったベンヤミンの『ドイツ悲哀劇の根源』を帰りがけに買ってきた。原稿に関係ありそうなところだけさらりと読んでみた。
昨日とは打って変わって今日は一日雨である。
一昨日午後1時、恩師篠原一男がこの世を去った。81歳。突然の幕切れであった。氏はこの一年くらい。最後の蓼科の作品作りと、本作りのために、奥山氏と私を含めごく少数の人間にしか会っていなかった。蓼科の家は着工寸前であったし、本についても出版社の企画会議も通りさあこれからという時であった。一月前くらいから安定しない病状を知っていたものの氏の生命力は常人のものではないと勝手に想像していたもののやはり自然の摂理には勝てなかった。通夜の席に喪主から「本は坂牛と奥山が立派に作ってくれる。篠原スクールの弟子たちはもう一人前になった」と申しておりました。と言われた時には、目頭が熱くなった。
僕は4年にスチュワート氏に習い、院で篠原研に入り、卒業するときは篠原坂本研であり、ハイブリッドと呼ばれている。しかし、篠原から受けたものはもちろん多大に血肉化している。設計で言えば形態の貫通や融合、スケールなどで自然と篠原のそれが現れる時がある。また文章においては学生の時には直接指導された記憶は無いのだが、卒業後鼎談を行い、共著で本を出し、誌上で篠原の趣意書に返信を書き毎回氏の手厚い指導を頂いた。氏は常に文章の人称に拘っていた。「私たち」ではなく「私」に拘った。建築家とは「私」であるというのが一生篠原の信念だった。作家性が云々される昨今、ここまで作家性に拘った建築家は少ないと思う。
全ては建築の為にあるような人生だったと思う。昨年建築学会大賞を受賞した時にもお祝い会の提案を拒否され、そんな暇があったら本作りの打ち合わせをしようとおっしゃっていた。最後まで、本当に最後まで建築家を生きた人であった。
ヤマの学会選集の現地審査、石井さん、東さん、宮さんが訪れた。東さんはリーテムも見てもらい連ちゃんである。宮さんはk-projectのオープンハウスに来ていただいていたようである。石井さんは昨日も書いたが僕の留学、就職、の恩人でもある。本当に20年以上ぶりにお会いして嬉しかった。ひとしきり審査していただいた後石井さんに「この建物にLAの雰囲気を感じる」と言われて、なるほどそうかもしれないと思った。今LA論を書いていて話が病理に届いたところであった。まったく自分のことなど考えていなかったのだが、僕の中にもある種の病理が巣食っているのかもしれない。本当に病気になりそうだけれど。午後その場所で一年目検査を行う。数箇所の指摘を受ける。速やかに直したい。今日は異常な暑さと雨である。
川崎の家の図渡し。何とか図面は間に合った。早朝事務所で最終図面チェック。でもまだ少し落ちがある。追加指示でなんとか切り抜けよう。この暑い中遠路はるばる事務所に来てくれた工務店の方には本当に感謝します。よろしくお願いします。35度まで上がった今日の空を見るとこれで梅雨も明けたかと思いたくなるのだが、どうもまだ明けてはいないようだ。来週はまた天気が崩れるとの予報。明けてから補修しようとしている工事もありそれはまだ先になりそうである。明日はヤマの学会選集の現地審査である。今朝学会から電話があり、審査に石井和紘氏も来られるとのこと。石井さんには留学の時の推薦状を書いていただいたり、就職の時に相談したり、その昔いろいろとお世話になった。20年以上ぶりに再会である。
帰りの新幹線の車中、ひたすら原稿を打ちまくっていた。今朝までは、溜め込んだカードや本と睨めっこ。この順番あの順番とカードを動かしては内容を読み、そしてまた動かしては内容を読み、そしてカードの裏に小さな字で目次を書く。大きい字だとどうも集中できない。不思議なものである。そしてなんとなく頭が整理されると後は一気に打ちまくる。最近どうもこういう原稿の書き方が多い。ずーっと書かない、ぎりぎりまで書かない。そしてなんとなく書きたいことが固まるまで周辺をうろつく。そしてバーっと吐き出す。電車の中では研究室で出掛けにプリントアウトした書きかけ原稿に赤を入れてそれを打ち込んだ。
後ろの席にひどい酔っ払いがいて集中が途切れる。酔っ払っているくせに車内販売が来るとまた買っては飲んでいる。もうろれつも回らないから寝てなさいと言いたくなる。
東京はひどい湿気だ。四谷から事務所に電話、明日の現説の準備を確認。事務所に行かなくてもよさそうだ。一安心。自宅までの間でひどい汗。すぐシャワーを浴びる。
県立図書館で調べもの。ナンシーの『無為の共同体』における共同の相手は果たして人だけなのだろうか?人は死を自ら体験できないが他者の死は経験できる。そこにおいて死という観念を分有するところから人は《ともに生きる》というナンシーの思考はスタートし、共同性の根源的なあり方が説明されていく。ここにおいてはやはり共同を形成する因子は人と人なのだが、人と物の間では共同はありえないのだろうか?例えば家というものを考えた時、それが生きられた家であれば、例えばその家が崩壊(死)する時同様のことが起こらないだろうか?と考えてみた。家あるいは建築、もっと言えば都市という環境も共同するのではなかろうかというのが僕の仮説。もちろん『無為の共同体』にそんなことは書いて無いのだが。県立図書館を出て大学の図書館へ。マンフォードの『歴史の都市明日の都市』を借りてくる。中世都市が崩壊しバロック都市へ変貌するのは政治経済の変化によって説明されるのが一般である。もちろんその後の都市の変化もそれらの要因による。それは間違ってはいないであろう。しかしその陰で人と環境とはどのようなやりとりが行われていたのであろうか?再開発が人を土地から引き剥がす現代的な都市の殺伐とした風景を見るならば、過去においても同様の関係が生じており、そこにも人の根源的な共同のあり方としての都市が存在していたはずである。