照明
1月30日
朝からT邸の打合せ。設計が詰まってくるとクライアントの細かな要求も多く出てくる。そうすると設計があっち行ったりこっち行ったりする。幸いクライアントはよく知った人なのでその意向が不明になれば即電話して確認できるのが嬉しい。これでだいぶ時間の無駄を防げる。午後一で某タワープロジェクト打合せ。久しぶりに照明デザイナーの澤田さんとお会いする。彼は面出さんのところにいて独立した有能な方である。僕はニッセイの仕事をした時に澤田さんに照明デザインをして貰った。彼は建築化照明をディテールまでつめれる人である。そのスケッチがまた卓抜であった。その後arupと打合せ。雑用を片付け帰宅後夕食をとって東京駅へ。久しぶりに丸善に立ち寄りめぼしい本を購入して家に送ってもらう。そのまま長野に。
楕円
早朝大学に某市の方が見えその車で市に向かう。市の中学校建設のプロポーザルの要項と審査の方法の検討会である。この手の仕事は今年三つ目である。市長さんとお話をする。行政の透明性を確保しながら、市にとって最良のものを選ぶにはどうしたらよいのかというのが市の課題であると力説されていらっしゃった。検討会の後市の山岳博物館に案内してもらう。ここからの北アルプスの眺めは絶景である。大学に戻りまた梗概のチェック。梗概はなんとかなってきたが、論文それ自体は不安が残る。やはりスタートの遅さがこうした状態を生んでいるとしかいいようがない。帰宅の電車の中で鶴岡真弓『装飾の神話学』河出書房2000を読む。バロックの楕円の起源は「カルトゥーシュ」と呼ばれるルネサンス時代の紋章の縁取りであったという説が面白かった。横山正はケプラーの楕円軌道を示唆していたがいろいろな説があるものだ。
国立新美術館
昨晩長野に来ようと思ったが、余りの脱力感と風邪っぽく帰宅した。今朝は少し気分転換に新国立美術館を覗いた。乃木坂駅から直ぐである。入り口付近で金箱さんのような人が横を通り過ぎたが金箱さんだっただろうか?なんて思いながらあの巨大ぐにゃぐにゃアトリウムに入る。なとも大味である。美術館が大味なら展覧会も大味である。タイトルが「20世紀美術探検」だなんてそりゃ無茶というもの。
一階ロビーでサンドイッチ食べながら3層吹き抜けの上部を見上げる。ぐにゃぐにゃカーテンウォールに高さ2メートルごとくらいにキャットウォークが8段くらい重なる。縦方向の方立てもぐにゃぐにゃの鉄のフラットバーが5メートルピッチくらいに林立する。だから水平方向も垂直方向にも視界は外に抜けない。なんとも透明性の無いカーテンウォールである。まあつまりこれは透明性などはなから諦め、こうした部材の連続を見せようと言うデザインなのだろう。キャットウォークの連続も一つの文様なのかもしれない。つまりはパターンと言うことか???そんなに好意的に見てはいけない気もするが。
その後大学へ。やってるやってる。梗概をチェック。チェック。何度読んでも赤だらけになる。梗概も設計と同じなのだろうか?設計は時間切れで決まると丹下健三は言ったそうだ。しかしどちらもただ時間切れでいいものになるというわけではない。
ちょっと疲れがたまる
朝起きれない。一週間分の疲れがどっとでてきた。その体に鞭打ち10時から事務所で打合せ。終わったら5時だった。うーん。ここまでやらないと駄目なのかと思いながらもやってしまう。心配性かもしれないがこの時期は心配なことが多すぎるので念には念を入れた打合せになる。その後日建のプロジェクト室に顔を出し打合せ。
製図第二講評会
今日は製図第二、2年生最後の課題の講評会。「貸しオフィス」というなんとも大学の課題っぽくない課題である。ゲストクリティークには日建の女性設計主管である中村晃子氏に来ていただいた。先ずは彼女のオフィスののレクチャーをしていただいた。18年間の在籍期間に18個くらい竣工しているようで大したものである。最新作の金刀比羅タワーは虎ノ門の30階建ての貸しオフィスである。今年の学会選集にも選ばれた立派な作品である。レクチャー後30名くらいの優秀作品を講評し例によって各クリティークそれぞれの優秀賞を選んだ。今回は前回の住宅と異なりかなりいいできである。やはりレベルが上がると嬉しいものである。帰りの新幹線の中で中村氏は2回目の製図でよくここまできたわねと感心していた。3年生になって更なるステップアップを望みたい。
型にはまらない
今日で院生の講義が終わった。あと少しで今年度も終わる、、、、もちろん講義など大したこはないのであって、問題は卒論と修論。大学の教師になるとこの時期が一番忙しい。それはその昔奥山からよく聞いていた。そしてそれが本当であることがしみじみ分かる。長距離走や水泳のラストスパートの部分のようなもの。一見よく似ている。しかし実は違う。スポーツはとりあえずゴールすればその苦しさから解放されるのだが、実生活というのはそんな山とは関係なく次のゴールが降って湧いてきては割り込んでくるから。
話は違うのだが、今日の院の講義はtype型についてであった。僕等の思考はおよそこの型に枠どられている。平たく言えば固定観念とか既成概念というようなものである。思考だけではなく視覚もそうである。ゲシュタルトという考え方が既にそうである。人間はあるまとまりを視覚的に認識してしまうものである。リードの『イデアとイコン』において最も府に落ちた話は「人間は視界の中である良いまとまりを捉えてしまう」というひどく雑駁な謂いであった。しかしそれはどうも真実だと言う気がする。だから実は新しい造形を生むというのは簡単な操作でできるはず。この「良いまとまり」が崩れる閾値のあたりに微妙に形をずらすということなのである。所謂型にはまらないぎりぎりのところを狙うということなのである。
言うは易しだが、、、、しかしこれは結構正しいはず。