arteriaという美術専門書店がネット上にありたまに買い物をする。先日頼んだ‘la brique a paris’という本が届いた。『パリのレンガ』である。仏語なのでよくわからないが、展覧会のカタログと思われる。15世紀から現代までパリにあるレンガ造りの建物(もちろんすべてではないだろうが)が時代順に並んでいて写真と説明が加えられている。大体建築材料というものは現代に近づくにしたがって余り目地が目立たなくなり、つるつるしてくるものだが、さすがにここに並ぶレンガ造りの建物は、現代のピアノのレンガパネルにしてもやはり目地は目立つ。こういう材料を目地なしでツルツルに使ってみたいものだと思って眺めいてたが、そういえばそんな風に使ったのが青木さんの青森なのだろうか?まだ見たことはないのだが、急に見たくなってきた。この春なんとか行ってみるか!!
昨日長野に来る電車の車中で『photo documentary nippon 2004-2006』gurdian garden 2006を眺めていた。これはnipponというタイトルで公募した公募展の記録である。若手カメラマンによる日本の肖像である。選ばれたカメラマンは15人。作品は大きくlandscape community street distanceの4つに分類されている。90年代後半の私的視線は遠のいた感がある。あの川内やhiromixのような視線である。そうした私性が薄れた理由かはわからないが、さてでは何が新たな視線なのか?この写真を見ていてもつかみきれない。さらにちょっと気になったことがある。それはlandscapeに分類された写真に郊外をテーマとしたカメラマンが二人もいて、その写真はその昔のホンマタカシの時代からあまり変わっていないのである。どうして郊外というとそろいもそろって団地の表層的な風景なのだろうかと思わなくも無い。この写真集の巻頭で対談している三浦展が「郊外に住んでいたらもう少し発見がないのかな?」と書いている。同感である。しかし考えてみたら郊外には表層しかないのかもしれない?その昔僕らは都市の裏を発見して楽しんでいた。僕しか知らないバーとかクラブのようなものを探検しては自分のレパートリーにするようなそうした楽しさがあった。それはバーとかクラブのような都会的なものだけではない。また快楽にふける裏だけではなくダーティーな部分も含まれている。そうしたことが僕らのちょっと上の世代のダーティーリアリズムに繋がっているのだろうと思う。しかし、現在はそうしたところにリアリティが薄れているのかもしれない。そんな裏が無い世界。裏を見つけるスリルなどに興味の無い時代なのかもしれない。裏がどんどんつぶされていく現状を見ていると今の20代の人たちは裏とは無縁なのかもしれないと感ずる。