5月20日
ヒューマニズム建築の本を翻訳中ということもあり、暇を見つけてはその関係の本を読むことにしている。今日はマクス・ドボルシャックの『イタリア・ルネサンス美術史』岩崎美術社1966を読んだ。上下2巻の書。図版がまとめて最初に掲載されているので読みずらい上にその図版が不鮮明なので、いちいちネットで図を探す。こういうときネットは実に便利である。ところで高階秀爾は純粋にルネサンス固有の文化が開花するのはとても短期間であると述べていたが、この本でも下巻の最初に「およそ1500年から1550年までのイタリア美術を文芸復興期と呼び、そこに文芸復興の完成をみるのは、一般のならわしである」と記されている。ドボルシャックの解釈ではこの50年間は前時代とはまったく異なる新たな精神が、しかも数多くの芸術家によって、それぞれ個性的に発露した時代であり、それを全イタリアで共有した。というものである。そしてそこに登場するのはミケランジェロ、ラファエロ、ティッチアーノ、コレッジォである。
某会議から夕刻帰宅。疲れた足を足湯につけて汗を出す。出た分だけ水を飲む。また足をつける。つけながら新聞や雑誌を読む。昔から風呂でモノを読む癖がある。汗や湯気で本は傷むし新聞はぐしゃぐしゃになるので家族の非難を浴びる。しかしここに引っ越してからは浴槽が浅いので読み物が水没する危険が減った。東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』講談社2007を読んでいたら眠くなった。さすがに風呂で寝ることは無いが一瞬睡魔に襲われ無意識になり本を持つ手が下がる。水没する1センチ前に意識が戻る。
朝一の東大の講義にちょっと遅刻。事務所に戻り現場の様子を聞く。解体はきれいに終わった。
午後歯医者へ。昨年,余りの忙しさにブリッジをかけるべく奥歯を抜いたところで放置していた箇所がある。今日削りこんで仮歯を入れてもらった。麻酔が切れたあたりで猛烈に痛み早々と帰宅。バッファリンを飲んだのだが余りに痛く書斎の床にマグロのように転がった。やっと目が覚めたら12時である。
はて?大学院の講義「言葉と建築」のレポートに対して学生が評を書く締め切りが12時である。小森賞は決まっただろうか?hpを見ると鋭い評が書かれていた。私と同意見である。小森の目は節穴ではなかった。
今日事務所の木島さんから見せてもらったユリイカ最新号はコルビュジエ特集であった。伊東さんと藤森さんが対談している。なんと言うタイミングだろうか?夏ごろ出る予定のディテールジャパンのコルビュジエ特集に藤森さんを引用した原稿を書いた。しかしこの二人、思い切り自分に引き寄せてコルビュジエ解釈を展開している。「コルビュジエから学ぶことは土だ」という藤森節は多少牽強付会の響きあり。しかし僕のコルビュジエ論の「開放力」もそれに近いかもしれない?。
アーヘン工科大学の学生がインターンシップに来たいとメールをくれた。一昨年ウィーン工科大学から来たオンディーナの時同様、レターが明快なので条件を提示しokなら受け入れたい。
今年度は前期に信大で「言葉と建築」、東大で「建築の規則」の講義をしている。そしてそのレポートを毎回ネット上に書かせているのでそれぞれ20編ほど読まなければならない。信大は信大で今年からは学生のレポートを学生に評価させるという新たな試みをしていて面白い。東大は東大で文学部の様々分野の学生が書いているのでこれも幅が広くて面白い。ゆっくり読んで楽しんでいるとすぐ数時間過ぎてしまうのが恐ろしいところだが。
ところで信大は後1分で締め切りなのに今日は半分も書いてない。今日は縦コンだから皆確信犯でレポートは書かないつもりか?
4月17日
夕刻UR都市機構のo氏とお会いする。「僕は建築知っている不動産屋だよ」とおっしゃっていたが、確かにそうである。都内全域の駅名を言うと家賃相場がぽんと出てくるのには恐れ入った。町の不動産やの親父だね。これは。一方で南大沢ベルコリーヌで内井昭蔵をマスターアーキテクトに使い、昨今では東雲で伊東豊雄や山本理顕を起用するなど高等な開発企画も練っているというところが面白い。今度何かやりましょうと言って分かれた。
ところでお会いしたのは東京新橋だがこの場所のサラリーマンの多さには目を見張る。何故そう感じるのだろうか?新宿だって西口行けばサラリーマンはたくさん居る。そう思っててよく観察すると、学生と女性が居ないことが分かる。つまり居るのは白いワイシャツで背広の男だけなのである。そういう場所は東京にもそう多くは無い。
レモンのシンポジウムは何をやるのかまったく知らなかったが、自分の卒業設計をプロジェクターで映し一人10分も話さなければならないようである。これは参った。今年の卒業設計見ながら何か言うのかと思っていたら自分のことを話せとは。それもこの期に及んでそんな指示が来るとは。そもそも自分の卒業設計について話すことなど何も無い。それなりの思い入れはあったけれどいまさらそんなことはどうでもいい。厄介な役を引き受けてしまった。
T邸の解体工事が始まった。1週間くらいで終わるようである。久しぶりの現場が始まる。去年頓挫した仕事があるから、1年ぶりの現場である。うきうきする。
朝一新幹線。パノフスキーの『イデア』を読む。この間小田部先生からいただいた『デザインのオントロギー』では小田部氏がネオプラトニズムのデザイン理論を跡付けており、それに触発された。パノフスキーの本は大変丁寧でまた訳もよくとても分かりやすい。まだ途中だが、このての本では珍しくわくわくする本である。ゼミでは八束氏のミースを読む。再三ミースがプラトニストと形容されており、イデア概念の息の長さを感じる。
柄谷行人がだいぶ前の毎日の書評で取り上げていたハンス・アビング『金と芸術』グラムブックス2007を読んだ。500ページ近くもある分厚い本である。何故アーティストは貧乏なのかという副題が付いている。様々な分析の結果は頷けるものが多いもののこれだけの枚数を要することとは思え無い。やや読むのに疲れる。ところで、アーティストの勝者は世界のトップクラスの億万長者であり、一方その大部分の収入は圧倒的に低い。こうした現状を著者は問題視してその改善策を提示しようとする。しかし僕はその改善は所詮無理な話と感じている。改善不能だからこそ芸術がかろうじてその存在理由をもつのだと僕には思われる。もちろん全ての芸術にとってそうだとは限らない。例えば応用芸術という分野はこれにはあてはまらない。ここでは所謂純粋芸術が対象である。それらはある社会の中での祭りの蕩尽対象のようなもの、つまりそれらはある種の熱狂の対象であり、強烈な支持を得ることによってその対象となる。そしてその熱狂を勝ち取るものはその市場価値も自動的に上がる。そしてこの祭りの対象は多くては意味が無い。数少ないからこそ熱狂するのである。
午前中T邸打ち合わせ、その後工務店の事務所に伺い。都電で王子へ。上野で用事を済ませ、アメ横で買い物。食品等。安い安い。うに500円、乾燥しいたけ1500円、乾燥杏300円、するめイカ10枚2000円、甘栗4袋1000円、などなど。ただイクラは失敗。タッパに一杯入って1000円。安いと思ったがしょっぱいの何のって食べられたものではない。
エクスノレッジのhomeで建築写真という特集号が出ている。その中に「打算のない建築写真」というエッセイがある著者はエレン・フライスその中にこんな文章がある『フラッシュの使いすぎや決まりきった露出過多の写真は好きではない(どの写真の中でもいつも太陽が照り輝き、青空が広がっているという状況はもういいかげんにやめて欲しい)。反対に、そのときの天気のもと、すぎていく時間のなかに存在する、生命のある場所が映っていると感じられる写真が好きだ。」
こういう発想は今のところまだ日本の建築専門誌には無いといっていいだろう。
5月11日
事務所でT邸打ち合わせ、明日は現場で近隣説明。昔のクライアントが家具を選びたいとのことで青山カッシーナでお会いする。数点物色。
カッシーナのそばにコーヒーケータリングなどを行なうユニマットという会社の美術館がある。http://www.unimat-museum.co.jp/collection.html余り知られていないがシャガールのコレクションは必見である。ビルの中だが3層分まるまる美術館で一層がシャガール、一層がエコール・ド・パリ、一層が企画で今は私の好きなアメリカの画家アンドリューワイエスを展示している。その昔ワイエスの絵で「何も無い草原の風景」というのをランドスケープのモチーフにしたことがあり、そのとき以来一度本ものを見たいと思っていた。シャープな色の付き方はテンペラによるのだろうか?独特である。