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May 2007

相談係

On
by 卓 坂牛

夜中の12時過ぎに娘に物理の問題を聞かれてあわてる。用語を忘れているので解けない。一から参考書を読んで復習である。しかし数十年前苦手だったものはこの歳になっても苦手だということが実証された。水溶液の濃度問題だがあの溶解度の曲線は中学時代も嫌いだった。嫌いはそう簡単に克服できない。その後かみさんが稽古から帰宅。この歳になっても幹部稽古のようなものがあるらしく、悩みを一杯抱えて帰宅しその相談相手。いやあこちらもなかなか難問。道の世界は複雑で。私には答えられない。今日は我が家の相談係である。

Robert Frank

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by 卓 坂牛

平安堂店頭に古本が並んでいる。じっくり見れば2~3冊いい本がありそうだが時間もないのでぱっと目に付いたstudio voice 1991年7月号「写真集の現在」を400円で買ってバスに飛び乗る。字が小さいので帰宅後ぺらぺらめくる。写真集が作った写真史というコーナーがあり、9人の写真家の写真集が並んでいる。その最初にあのRobert Frankの有名な「The Americans」が解説されている。スイス生まれで50年にアメリカにわたりグッゲンハイム奨学金をもらい1年かけてアメリカを旅し田舎町のガスステーションや場末のバーなどを取り続けた。僕の建築のモノサシの親父とオフクロの写真もこの中の一枚である。僕の大好きな写真集である。
フランクが撮った写真をプリントして編集者に見せたとき「これはアメリカじゃない。ロシアだ」と言われたそうだ。この写真集が世に出るのは僕が生まれる前年。当時のロシアは貧困の代名詞だったそうだが僕から見ればプアーな日常が表出しているとも思えない。逆に言えばミッドセンチュリーのアメリカの都市と田舎にはかなりの生活格差があったということなのかもしれないし、日常に対する眼差しが未だ存在しなかったということなのかもしれない。それだけFrankの視点は新鮮だったということだ。

On
by 卓 坂牛

会議・講義・ゼミ、ゼミ・製図、製図という週の前半のこのペースがやっと体に馴染んできた。今日の長野は日中28度まであがり夏である。そうは言っても夕刻になると10度以下に温度が下がるところが東京と違う。昨日夜更かしして眠いのだが、食後、原稿の字数調整(5500字を5000字に減らす)し、デヴィッド・ハーヴェイの『ネオリベラリズムとは何か』青土社2007を読む。

tectonic

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by 卓 坂牛

5月7日
今日のゼミは重い。相手はテクトニックカルチャー。一冊丸ごと一回で読むのだからやるほうも大変だが聞くほうも根気がいる。3時半から9時まで。理解はできただろうか?僕自身通算4回目のこの本のゼミであり、それなりに理解が深まっているはずだが、やはり「テクトニック」の意味と意義についてはこれという確固たるものが得られているわけではない。毎回読みながら少しずつその理解は変化している。今回の理解はtectonicという言葉が地殻構造という地学用語でもあることから、これは単純に構造+ジョイント=結構というものではなく構造+ジョイント+地面=結構ではなかろうかと思うに至った。

教育のナショナライズ

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by 卓 坂牛

5月6日
グローバリゼーションと呼ばれる世界的な社会変動の構図は国内においても起きている。グローバリゼーションが引き起こす流れの一つは国家を超えるシステムの統御による国家のコスモポリタナイズであるが、この構図を例えば国内大学教育現場で見るならば次のようになる。大学を国家と見立てるならば、大学を超えるシステムの統御による大学のナショナライズ(右翼化という意味ではない)である。これまで大学はひとつの自治体としての確固たるまとまりを持っていたのだが、現在はその殻が解体され、学部や学科が日本中に横並びにされていると言っていい。そして国家が国家的に行なってきた公共の整備を民間に委譲し市場化するように、国は大学の整備を外郭団体に委譲しさらに研究、教育を市場化し始めたと言える。例えば、セキュリティという問題は既に警察だけが行なえなくなっている(きめ細かなサービスを求める社会のニーズや予算の制限などにより)現状、国はセキュリティという市場を社会に埋め込んでいく。結果多くの警備会社が登場しサービスを競うことになる。同様に、教育という問題も国が一律に規定できなくなっている現状(教育の多様化などにより)教育市場は社会に埋め込まれていく。塾が多発している程度のことは当たり前であったが、いまや大学教育も同等であり、いい教育提案に予算がつく。つまり学部や学科は全国レベルでサービスを競う時代になったのである。日本は語学の問題で早々にこのナショナライズがグローバライズには繋がらないだろうが、世界的に見れば教育はグローバル化しているし、していく可能性は高い。つまりは世界的に意味の無いことは価値が無いということがおこり得る。その中でローカルというものの優位性はいかに保たれるのだろうか?あるいは保つ必要があるのだろうか?

ローカリティ

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by 卓 坂牛

鈴木謙介『<反転>するグローバリゼーション』NTT出版2007を読む。グローバーリぜーションは身につまされる問題ではないにしても、ナショナライゼーションとローカリティは日々の問題である。グローバリティvsナショナリティの問題はナショナリティvsローカリティの相似形だと勝手に思っている(あるいは相似的に見ることが可能だと思う)。

ジョギング

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by 卓 坂牛

いい天気だが、一日原稿を書いていた。夕刻少し散歩的ジョギング。四谷駅につながる公園に200メートルくらいの坂道がある。その道を全力で駆け下りた。重力ですごいスピードが出るのだが、何とか足が付いてきた。足が止まって転ぶかと思ったがまだそこまで衰えてはいないようである。上り坂を駆け上がったが残念ながら途中で息が切れた。余りがんばるとまた数日使えない体になるので、ゆっくり歩くようにジョッグして帰宅。ゆっくりと湯につかる。

第三群の女

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by 卓 坂牛

三浦展と上野千鶴子の対談(『消費社会から格差社会へ』河合出書房新社2007)を読んだ。三浦が作った言葉でかまやつ女というのがある。金よりも生きがいをもとめマイペースで生きていく女性のことである。それに対して、ファッション雑誌にいそうなえびちゃん系の女の子というものがそれと対照的な存在として結構な比率を占める。さらにそれらとは別に総合職女という賢くチャーミングな女性群がおり、女は3つに分類されると上野は言う。そして類は友を呼ぶ法則で総合職女は総合職男と結びつきダブルキャリア・ダブルインカムでますます格差社会が助長されるという。
昨日の旧友女性たちを見ていると、ここに書かれていることがそのまま現実化しているのが不気味なくらいである。というのも、われわれより収入の高い彼女らのhusbandのキャリアがまたとんでもないのである。とんでもない+とんでもない=とてもとんでもないものとなるわけである。

八重洲口

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by 卓 坂牛

5月2日
午前中会議で松本へ、学長、副学長の前でプレゼン10分質問10分。終わり長野にとんぼ返り。製図の授業を終わらせ東京へ。中学の同級生とひょんなことから会食。男性5名女性が4名。男は3人教師で一人リーマン、一人自営。女性は一人は主婦だが、一人は某外資系企業のmanaging director. それって日本なら常務取締役。一人は某テレビ会社の取締役。一人は某病院の放射線科部長。いやはや年収を比べたら男5人かかっても女性3人に勝てないね。いや参りました。
東京駅の八重洲口で食事をしたがこのあたりは知らぬ間に超高層が林立している。それらがかなりひどい。手抜きデザインが横行している。ビルの外もひどいが中もかなりひどい。

煩雑な作業に追われ

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by 卓 坂牛

大学の先生3年目だけど、組織とか運営とかになると、知らないことばかり。ひたすら資料読んだりして時間を食う。先生稼業も楽じゃない。まあ会社だって3年目くらいじゃまだペーペーなのだから仕方ないといえば仕方ないのだが。ゼミやって、会議やって、製図エスキスして、事務所とメールやり取りして、資料読んで、電話して、資料作って、出版社にお手紙書いて、さあこれから明日のプレゼンの練習せねば。しっかりやるつもりだったが、凝縮して一回やって終わりにしよう。