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Aug 2007

ヴェニス・ビエンナーレ

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by 卓 坂牛

8月31日
水上バスで二駅乗りGiardiniで降りるとヴェニスでは珍しい緑豊かな公園が目の前に広がる。ここがヴェニスビエンナーレの二つある会場のひとつである。15ユーロの入場料はちょっと高いと思ったが帰るときには安いものだと気が変わるほど面白かった。エントランスすぐ先のベルギーはガラスの迷路、オランダが日常の風景、正面イタリアは地元であり40名余りのアーティストの作品が並ぶ、フィンランドはガラスの海、イスラエルは日本の建具のような紙芝居、アメリカはピストレットがおなじみの飴とポスターを並べている、持って行っていいのかどうか確認せず、ウルグアイは天井からぶら下がるドローイング、フランスはコンセプチャルなドローイング、オーストラリアのパビリオン内を延々と続くベニヤ板のリボンは昔我々が設計した家具のようである、ロシアのビデオインスタレーションは小さい画面の集積で楽しい、イギリスの細い木片を繋ぎとめたタワーは川俣風、ドイツではわざと稚拙なオブジェが所狭しと並ぶ、そして日本は岡部昌生の広島をモチーフとしたフロッタージュ、などなど2時間ほど見て周り庭のカフェで昼食をとると大雨。今回の旅で初めての本格的な雨。会場を飛び出し水上バスの駅で雨宿り。またこの水上バスで島巡りでもしようと思ったのだが、強烈な雨に身の危険を感じ、島巡りは止めて中世の教会(サンタ・マリア・グローリア・ディ・フラーリ)にティツィアーノの聖母被昇天を見に出かける。現代アートを見てからゴシックの教会でルネサンスの絵画を見るというこの感覚はイタリアならではかもしれない。幸せなひと時である。

ペギー・グッゲンハイム美術館

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by 卓 坂牛

1985年のヴェニスビエンナーレにUCLAのチャールズ・ムーアスタジオは建築プロジェクトを出品した。僕もそのメンバーの一人だった。プロジェクトはヴェネツィアのペギー・グッゲンハイム美術館の改修増築であった。どうしてそのテーマを選んだのかは覚えていない。見たことも無いその建物を写真と図面を頼りに模型で再現した。ヴェニスの路地のような細いアプローチと南向きの庭。そのシークエンスがムーアの気にするところであった。既存の建物は1階建てだが、もともとパラッツオとして建てられようとしたものであり、1階というのは未完というのが我々の解釈だった。しかし3層は作りすぎであり中途半端だが2階建てにするというのが我々の回答だった。
その建物をついに22年後に見ることになった。すばらしい美術館である。このアプローチと中庭のスケールとその彫刻の並び方はムーアの力説が本当に正しいことがよく分かる。今まで訪れた世界の美術館の中でも1~2を争うできのよさである。中庭にはヘンリームーアからカプーアまで、モダンから現代までが適度に並んでいる。本当に適度に並んでいる。常設展もピカソ、キリコ、フランシスまで。そして企画展はヨーゼフ・ボイスとマシュー・バーニーである。その全体の量といい間隔といい空間の変化といい。すべてが適度なのである。このバランスは例えば東京の国立新美術館のような展示場型美術館の対極を行く。
ボートに乗って島の周りを一周した。島の裏側に来ると所謂ヴェニスの風景は終り、コンテナと工場の煙突が林立している。ディズニーシーと東京湾が交互に見えるようなものである。

ヴェネツィア

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by 卓 坂牛

朝の電車でフィレンツェからヴェネツィアへ。フィレンツェ駅で遅れている電車の事情を尋ねるのだが英語は全く通じない。24年前にこの駅からミラノに向かったのだが、そのときも英語が全く通じなかった。イタリアではレストランでもホテルでも英語が通じるのに、駅では通じない。
ヴェネツィアに来たのは初めてである。観光客がとてつもなく多い。暑さと喧騒ですっかり憔悴してしまう。観光で持っている都市なのだろう。為替レートもとんでもなく悪いし、(手数料も入れればフィレンツェは1ユーロ170円くらい、ヴェネツィアは200円である)物価も高い。
サンマルコ広場のカンパニーレは修論の重要な検討対象だった。アメリカのスカイスクレーパーは新たな縦長の形を作るのにヴェネツィアのこのカンパニーレをモデルにしていたのである。サンマルコ広場の脇にあるデュカレ宮にはバロックの画家ティントレットの世界一大きな油絵がある。この部屋は数百㎡の平面形に天高10メートルくらいあるだろうか。バロックの宮廷の大広間でこれだけのものを見たのは初めてである。とんでもないスケールに驚く。
ヴェネツィアはネット環境が無いと言われていたのだが、どこかの無線ランに乗ったようだ。

マザッチョ

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by 卓 坂牛

念願のマザッチョのフレスコ画を見ることができた。ブランカッチ礼拝堂の一角にこのフレスコ画はある。マザッチョの先生であるマンゾリーニとマンゾリーニに呼ばれたマザッチョそしてマンゾリーニがフィレンツェからいなくなってその後を完成させたフィリッポリッピの3人の作なのだが僕から見ればほぼ一人の作である。フレスコ画がこれだけ近くでしかも撮影も自由なのはここぐらいかもしれない。岡崎乾二郎の『経験としてのルネサンス』(だったかな??)で詳細に論じられていたのがこのフレスコ画である。その論考は出版時に読んだのだが、すっかり、まったく忘れてしまった。本物を見ても何も思い出せない。今回やっと本物を見られたので日本に帰ったらまた読み返してみよう。
今日は自由に乗り降りできる観光バスのチケットを買い、自由に乗り降りした。コレのおかげで校外の歴史地区フィエゾーレに行くことができた。イタリアの都市もその中心地にいると時代は1000年も2000年も前に遡ってしまう。が、少し中心を外れるとここ100年くらいでできた町並みが現れる。フィエゾーレに登る町並みは僕が学生時代を少しすごしたバーゼルのように少し新しくしかし古い町に敬意を払ったつくりである。
この2階建てサイトシーングバスにはイヤホーンジャックがあり8ヶ国語のガイドが流れている。このガイドが殆ど建築や都市の話でとても参考になる。メディチ家のパラッツォの前でアルベルティの名前が出て思わず降車。有名な中庭に邂逅。都市型パラッツォのコートはアーチも3連しかなく縦長である。この都市では写真でしか見たこと無いものが次から次へと目の前に現れてくる。

フィレンツェも40度近い気がする

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by 卓 坂牛

昨日までの運動靴ではなく、革靴を履いて出たのが運の尽き。夕刻にはまるで亀のように歩いて宿に戻った。フィレンツェはタクシー乗り場が見つからない。狭い街だから元気ならタクシーが要らないとも言えるのだが、昔から足の裏が弱い僕には長く歩くのはこたえる。
この街ではドゥモ、ストロッツィ宮、ピッティ宮、洗礼堂が撮影のノルマ。大きな建物がひしめき合って建っているこの街では撮影のためのひきがなかなか取れない。GRの広角は大きな画角でひきが無くともたいていの建物は入るのだが、縦線が大きく歪むのは言うまでも無い。
撮影は行き当たりばったり。美術館のはしごの途中に現れるだろうと楽観的である。朝一でバルジェロにてブルネレスキとギベルティの洗礼堂の扉彫刻のコンペ案を見る。本物よりも全然小さい。ミケランジェロのバッカスは酔っ払いの目をしている。ブルータスは未完。ウフッツィでは余りに多くのものを見すぎてしまった。ボッティチェリはもちろんすごいのだが、それだけではない。ロマネスクのチマブーエ、ドウッチョ、ゴシックのジョット、この3人の金色が印象的である。ボッティチェリとその先生であるフィッリッポ・リッピはそっくり。ダヴィンチの受胎告知はひどく小さく感じられた。
午後ピッティ宮のパラティーナ美術館でラファエロをたっぷり見る。ラファエロは絵が上手い。ここにはヴネツィア派ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ティントレット、も数多くある。そしてタクシーを捕まえ北上。サンマルコ美術館で念願のフラアンジェリコの受胎告知を見て南下してブルネレスキのサンロレンツォ宮に入り、ドゥモ、洗礼堂、そしてストロッツィ宮を見て宿に戻る。足が痛いのと気温の高さにはほとほと参る。東京はコンクリートジャングルだがイタリアはストーンジャングル。街は巨大な輻射暖房機である。

ベルニーニ

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by 卓 坂牛

ボルゲーゼ美術館でベルニーニの彫刻をこれでもかというほど見た。サンピエトロの楕円の前庭広場を設計したことで有名だと建築家は思っているが、ここに来るとバロックの彫刻家としての名声の方が高いのであろうと想像される。ボルゲーゼの中でもベルニーニの彫刻はその躍動感において他を寄せ付けない。この彫刻にしてあの建築ありである。ボルゲーゼにはカラバッジョやティッツィアーノなどの後期ルネサンスの有名芸術家の多くの作品が展示されている。ボルゲーゼからホテルに戻り、ボッロミーニのサン・クワトロ・フォンターネの写真を撮りにでかける、気温は37度。灼熱の東京から来たので体は慣れているが、かなりの暑さである。その後フィレンツェ行きの電車に乗り込む。奮発して1等を買ったのに、故障中らしくクーラーが効かない。金返せ。と言いたいところだが、イタリアではけんかもできない。そう言えばクアトロフォンターネのそばでpoliceの写真を撮っていたら、すかさず寄ってきて消去しろと抑圧的な言い方で迫ってきた。policeも風景だろうがと言ってやろうかと思ったが、、、やっとフィレンツェに着くと駅前のサンタ・マリア・デラ・ノッベラは修復中らしく、あののっぺりした意匠が足場で隠れて見えない。残念である。夕食に食べたティラミスは日本のものより少しおいしかった。値段は6urくらいである。

ルネサンスの巨匠たち

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by 卓 坂牛

8月24日
今日はローマでしか見られないフレスコ画を集中的に見た。ダヴィンチの受胎告知が日本に送られてくることはあってもアテネの学堂や最後の審判は日本には送れない。フレスコ画は建築の一部である。ミケランジェロやラファエロの絵が上手いのは言うまでも無いのだがそれにも増してすごいのは建築の内部が絵で埋め尽くされてしまうそのしつこさである。システィーナ礼拝堂の薄暗さとその天井の高さと大きさと人の量。その全てがミケランジェロの巨大な天井画を特異なものに変化させている。ラファエロも同様である。ラファエロの間の数々のラファエロとその弟子たちの絵はその技量もさることながらその量に圧倒される。その後サンピエトロに入る。25年ぶりに見てその大きさを再認識した。
タクシーで、ローマ市内のパラッツォを手当たり次第見て回る。見ながらやっとローやマレーの所謂ルネサンスの教科書に普通に出てくる定番建築の位置づけが見えてきた。ブラマンテ、サンガッロ、ヴィニョーラ、ベルッツィ、時間がなく写真に費やす時間が少ないのだが瞬間でも目に入れていると違うものである。

ローマへ

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by 卓 坂牛

8月23日
成田でnumberの別冊と文庫本を数冊買い込み飛行機に。アリタリアだが機材はJAL。久しぶりに遠くまで飛行機に乗るのでたっぷり時間がある。保坂和志の『羽生』が面白い。哲学的小説家保坂による羽生分析である。それによると羽生は棋風を持たぬ棋士だそうだ。つまり強い指し方のスタイルを持たず、あくまで勝つという目標に向かって極めて冷静な判断を下す棋士だというのである。さらに面白いのは、例えば羽生の前時代を気付いた谷川は高速の寄せという読みの早さと深さで相手を圧倒したのに対し、羽生は自分の考えの優越性を前提としないという。相手も自分も同じ地平にあるというところから微差のつみあげで勝つのだそうだ。
将棋はある意味表現である。読んでいると建築に通ずることが多々あるなあと感じる。特にコンペをしている今はいかに勝つかという点でいろいろ教えられる。こちらの手の内は全て読まれていると思ってそれでも勝つ、訴求力があるということはどういうことなのかなどなど。
成田~ローマ14時間は長い。現地時間の夕刻七時に到着。飛行場から市内への道と風景は世界各国同じに見える。夕刻になるとなおさらである。上海もローマも変わらない。などと思ったのもつかの間。市内に入るとやはりローマはローマ。まるで巨大な遺跡ランド。ホテルについて湯が出ない。やはりローマはローマ。

猛暑去らず

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by 卓 坂牛

朝のアサマで東京へ。午前中スタバで打ち合わせ。午後一中国リーテム打ち合わせ。ファサードの少し大きな模型を前にデザインが収斂する一方で地元の技術でできることなのか?地元にこうした製品はあるのか?などなど疑問が湧く。やはりナカジは少し長く中国に滞在し地元の設計院といっしょに設計を進める方が良いと判断。渡中の日程を組む。その後T邸の打ち合わせ。今週末の定例は出られないので打ち合わせ内容をチェック。そろそそ色見本作りをしなければ。赤い壁の赤は朱かローズか?コンペ案について昨日のファックスについて金箱さんと℡で打ち合わせ。基本の考え方は変わらず。テーテンスとも℡で打ち合わせ。パースは中国に外注することとした。中国のパース屋はかなりの実力である。打ち合わせがどの程度上手くいくのかは分からないが、後は学生とスタッフとの共同作業。綱渡りである。しかし学生ももう頼れるものはないのだから自分で判断して進むしかない。その昔日建2年目に部署が代わりある先輩の下につくことになりその次の日基本設計書を残しその先輩が入院してしまったコトを思い出した。僕はその図面を元に一人で確認を出し、実施図をまとめ着工まで進めた。火事場の馬鹿力である。頼れるものがいなくなることが一番人間を成長させるものである。
東京は暑い。長野は秋近しなのに東京はまだまだ夏である。

秋近し

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by 卓 坂牛

午前中コンペのスケッチ。しばらく留守をするのである程度の目処をつけてから出かけたい。そう思うと気になることばかり。午前中のスケッチを学生に渡し、ヴァリエーションを含めて模型制作を依頼する。午後はひたすら会議。今日は半日で行なった会議数としては過去最高。6つの会議が1時から7時まで延々と続いた。そしてその後コンペの打ち合わせ。長野の夜は既に虫が鳴いている。秋が近い。