Archive

Sep 2007

映画を見る

On
by 卓 坂牛

早起きして昨日アマゾンから届いたM.G.Turner 中越信和他訳『景観生態学』文一総合出版2004を読んでみた。景観生態学とは生態系をもとに考える景観かと思ったが、その逆で景観から考えた生態系のことだった。これは信大の山岳総合研究所の理学系の先生がやっていることに近い。少しは自然景観の把握に役立つかと思ったが少し扱う範囲が大きすぎるかもしれない。しかし使われている概念は結構参考になる。昼頃、居間に家族3人がいることに気付く。家族全員今日は何かに追われているでも無さそうなので皆で映画を見に出かける。こうなると全員の意見が合わないのだが、みんな一斉に妥協しNO RESERVATIONSというエダジョーンズ主演のラブコメディを見る。お涙頂戴型家族愛的恋愛物語。子役が話しに筋を通しているし上手かった。帰宅後翻訳中のETHICAL FALLACYの参考に佐藤俊夫の『倫理学』東大出版会2007を半分読む。結局倫理学史は哲学史。哲学の一分野と考えてよいということか。美学のようなもの。

新たな風景

On
by 卓 坂牛

とても久しぶりに雨だし、とても久しぶりに寒いという感覚を持つ朝である。雨で運動会の代わりに授業となったアンラッキーな娘を送り出し安彦一恵、佐藤康邦『風景の哲学』ナカニシヤ出版2002を読む。風景の良し悪しとは誰がどのような権利を持って言える事なのか?という問題提起があり、その一つの回答は和辻哲郎の『風土』に記されているところの自己了解というプロセスである。またその自己了解のダイナミズムは自然と人知の接点において生まれるとのことである。大いに共感する。五十嵐氏が批判した「美しい風景を創る会」なるものは普遍的な景観美が前提化されているようだがこう言う考えは私もやや批判的にならざるを得ない。和辻が言うような自己了解のプロセスが欠けている。普遍的な美の前提化とは過去に示された判例のような美に我々が飼いならされていることをよしとしていることに等しい。それはおかしい。午後フェルメールを見に行く。これら新たにオランダに発生した風俗画と同時期に風景画も生まれた。このころ人間の側に強く景観を風景化する自己了解が生まれたと言えるのであろう。しかしこれはあくまで17世紀オランダの自己了解である。21世紀日本にはまた違う何かがあるはずである。その一つが昨日紹介したテクノスケープである。そして例えば宮本佳明の『環境ノイズを読み風景をつくる』彰国社2007はそうした新しい風景の読み方を提示している。

同化と異化

On
by 卓 坂牛

朝一現場。大工が4人くらい入って急ピッチに進む。色の塗りわけが少々面倒である。現場もこの頃になると毎回どの現場でもそうだが、こうすれば良かったというような気持ちが少なからず起こるものである。まあそれはそれ。
今日は久しぶりに30度を超えて暑い。事務所にもどってもうだっている。大学のゼミスケジュールなど作り雑用を片付ける。夕食後岡田昌彰『テクノスケープー同化と異化の景観論』鹿島出版会2003を読む、この本は著者の博士論文と思われる。シクロフスキーの異化作用を景観に適用している。僕の建築の規則の概念で言えば「協調と独立」。彼はこれを同化と異化と呼ぶわけである。僕の研究室で長野のタウンスケープと山並みの関係性を研究しているものがいるけれど、その評価基準として単なる調和だけでは薄っぺらいので独立とか屹立という概念をいれたらとアドバイスしていたのだが、ちょっと不安だった。しかし景観学者がこういうことを言い出しているのであれば一安心である。若い世代の学者にやっと景観を現代的に見れる人たちが現れた。昨日の五十嵐さんの苛立ちはだんだんと解消されるであろう。

二川さんとジェフリースコット

On
by 卓 坂牛

午前中大学の書類作り。昼をとってアサマに飛び乗り辺見から送られてきたジェフーリスコットに関する英語の論文を読む。実に読みいい。スコットはリップスの感情移入理論に大きな影響を受けている以上にドイツのフォルマリズム、特にヒルデブラントひいてはカントの影響を受けていると言う(tasteが重要な概念になっているのだからさもありなんだが)。そしてそんなスコットを著者はガダマーと比較する。先日このブログでもガダマーとスコットについて書いた。そこではガダマーが真理奪回に方法主義否定からフマニスムを促したという鷲田の指摘をひき、ガダマーとスコットの共通性を推測したが、本論分はその逆でガダマーの解釈学に対してスコットは対象に意味を見出すことの無意味さを主張したという指摘だった。もちろんこの二つの話は矛盾はしてないのだが、ちょっと頭が混乱する。
事務所で雑用。大武さんに明日の現場の様子を聞いてから帰宅。風呂で五十嵐太郎の『美しい都市・醜い都市』中公新書クラレ2006を読む。一章、二章は面白かったのだがその後は世界旅行という感じでちょっとストーリーが感じられない。GAJAPANの100号を読む。写真が綺麗である。伊東さんと二川由夫さん(息子の方)の篠原インタビューを興味深く読む。伊東さんが二川親父と篠原さんは仲が悪かったのでしょうと質問。「親父は概念より視覚の人」と言っているのが電車で読んだスコットそのもので思わず笑った。上記論考ではスコットのような視角優先のフォルマリストの美学の特質はnonconceptuality of aesthetic judgementと表記されていた。なるほどnoncocepturalityとは正に二川さんにぴったりである。

ソフトと格闘

On
by 卓 坂牛

やたらと涼しくなってきた。長野に来ると時たま起こるのだが日中の日差しが強いので薄着をしていると夜大学を出る頃(だいたい深夜なのだが)とてつもなく寒くてひどく不幸な気持ちになる。昨夜もそうだった。マンションとの往復は自転車なのだが、とても乗ってられない。歩いて押して体を温めている始末である。今晩もそうだろうか?外は風音が強い。
今日は一日ワードをいじくり出版原稿のチェックをしていた。これが本当に辛いものでワード操作能力不足なのかワードというソフトの限界なのかいろいろと不測の出来事が起こる。本来は内容の精査をしたいところだがなんだかアホなソフトと(アホな人間なのかもしれないが)格闘していた。しかし不備も多少あるものの、数百ページを打ち出して、データーをコピーしてもう梱包した。とにかく今晩中にとりあえず送ろう。これで少しは気が晴れる。
プリントアウトしている間に後期のゼミ本を考えた。
ストーリーその1:徹底して社会学本を読む。そこで僕のアーカイブデーターから社会学系データーをコピーして貼る。更にそれを15冊くらいに限定する。しかし社会学なんていったって余りにジャンルが広い。社会学でも何にするかを絞らないと話にならない。
ストーリーその2:前から気になる80年代論+ポストモダニズムのみを読む。これも上記と同じ作業をしてみるが、これは逆に80年代論がまだ余り無い。一方ポストモダンは余りに多く。収集が付かない。
なんてリストを見ながら、建築を全く蚊帳の外においてしまって良いものか????m1が来年修士設計やるのにこれでは余りに概念的すぎるか?ということで景観論を収集。
というわけで、構築主義+メディア+管理+80年代論+景観論というあたりでとりあえずリスト作成終了。少し脈絡が欠如してそうだが、あまり先入観のあるストーリー作りも良くないと思いこれでよしとする。

幸運

On
by 卓 坂牛

久しぶりの会議とゼミ。その合間を縫って市役所で市長に景観賞の答申書提出イベント。報道陣も結構いた。この手のイベントはテレビではよく見るがまああのとおりのことである。夕刻は雑用のテキスト作ったり、学内委員をやっている会議の資料を作ったり。夕食後昨日の鷲田さんの本の残りをぺらぺら斜め読み、どうも後半は僕の興味からはずれていく。面白かったのは反方法論的思考としてのエッセイの勧め。エッセイのような建築というのもあるかもしれないとと考えると少しわくわくした。その後越後島さんの新著『ル・コルビュジエ創造の軌跡』中公新書2007もぺらぺら。これは本当はコルビュジエ展のオープンあたりに出る予定だったのだろうか?かなり一般読者を対象に書かれているようだ(新書だからあたりまえかもしれないが)。というわけで僕には物足りないのだが、越後島さんの鋭い視点は散見される。例えばサボワ邸はコルビュジエのピークであり限界という指摘。彼の理論のピークの時に建物の条件がゆるい仕事が来た幸運として説明している。つまりこの当時の幾何学の純化を視覚化するためには建物を浮かすのが最も理想的。しかし住宅を浮かすなどということは機能的に誰でもが望むようなことではない。しかし郊外という自由な立地と潤沢な予算、別荘という機能の自由度がその浮いた箱を可能にしたというわけだ。そしてそんな幸運はそう簡単に訪れるものではない。ゆえにサボア邸以上のものは後には出来なかったと指摘する。
うーん異論もあろうがだいたい正しい。そしてこんな書き方は今までの歴史家ならしない。でもこれが建築の普通のそして本音の解釈だろうなあ。そう、建築はかなりの幸運によって生まれる。いいクライアント、いい施工者、いいスタッフ。それは多くの名作を見ると明らかである。あまり口外すると(特にネット上でボソッと言うのも失礼なので)問題もあるから固有名詞は避けるとしても一般論で言えばやはり建築家の自邸が名作になりやすいのもその幸運を待てないからであるだろうし、幸運だからこそ、名建築家だって名作なんてそんなに多く作れるわけでもない。コルビュジエだって5つもないだろうし、、、、、だから僕にもいつか幸運は来るかもしれない。

反・方法主義

On
by 卓 坂牛

A0勉強会。亀のようにゆっくり進む。倫理的誤謬の章を未だやっている。光岡訳は15ページくらいあるのだが、5時間で1ページくらいしか進まない。まだこの章が終わったわけではないけれど荒筋はロマ主義も機械論もピューリタニズムの思潮(純粋道徳主義)に後押しされながらこの時代の建築倫理(これがどうもゴシックリバイバルにおける構造的な倫理のことのようなのだが)に繋がっているということのようである。そしてこの構造的理性の制覇に対する反論が人文主義に繋がるのだが、、、、疲れた頭を引っさげ飯を食ってから長野に向かうアサマの中で鷲田清一の新刊(とはいっても初出ではないが)『思考のエシックスー反方法主義論』ナカニシヤ出版2007を読む。
先ずは近代哲学とはデカルトの『方法序説』に始まり方法主義的制覇の時代であるという。そしてその制覇のために据えられた概念が自律でありそれを支えるトポスとしての純粋があるという。「ピューリタンから『純粋理性批判』まで「ピュア」という観念はくりかえし1つの運動、ひとつの理念の名に冠せられてきた」と言う。そしてこの方法という理念は様々な分野で実体化する。「航海においては海図、建築においては設計図といった具合に、そこではなんらかの見通し、ないしは構想といったものを欠くことはできない」と述べる。僕の昔の論考で言えば全体性批判に相当するようなこの指摘には素直に共感。更にこうした方法主義的制覇への批判を行なったのがサルトルとガダマーだという。ガダマーの『真理と方法』は「近代の知の地平において次第に失われていったフマニスム〔人文主義〕の伝統を復権することで、真理をその方法主義的制覇から救済しようというモチーフである」と指摘した。
このあたりまで読んでくると、昼に苦しんで読んでいたスコットの倫理批判がどうしたって重なってくるではないか。しかしガダマーが真理と方法を練り上げたのは60年代だからスコットの発想はその40年も前のことであり、そこに1つの思潮としての流れがあるのかどうかはよくわからない。しかし人文主義が近代的知への批判として用いられていたということはスコットを読む上では重要なポイントかもしれない。

原稿

On
by 卓 坂牛

朝から原稿の整理と図版の整理をしていた。完全ではないが、とりあえず出版社に送ろうかな?著作権の目処を付け、文章を縦書きにし、前書きを考える。この3つが終わったら送りたいところ。なんとか横書きを縦書きにした。数字の書き換えだけでも結構な手間だった。著作権の目処はほぼついた。コピーライトは持ってないという出版社が3つあり、彼らも誰が著作権保持者かを知らないという。そんなことあるだろうか?でもそんなことならもう追求はやめよう。三つめも前書きだがほぼ書けた。建築の規則は本来二つありここで記すことはその第一部であることを書ければそれでいい。などということをしていたら2時を回ってしまった。さあ寝よう。

構造改革の行く末

On
by 卓 坂牛

統計値上日本の労働生産性は低くOECD加盟30カ国中19位だそうだ。しかしそれは数字のいたずらで実質的にはそんなに低くないと『ホワイトカラーは給料ドロボーか』門倉貴史光文社新書2007に書いてある。しかし続けてこうも書かれている。少子化が進みGDPが低下していくと国の豊かさは減少する。それに対抗する手段は効率の向上であり具体的には構造改革とイノベーションであるとのこと。そういう理屈が小泉内閣の政策論理であったことは言うまでも無い。そんな本を読んだ次の日に朝日新聞の友人から『分裂日本』朝日新聞2007が届いた。彼がチーフとなってまとめた去年の連載記事をまとめて本にしたものである。内容は正に昨日読んでいた構造改革の陰の部分を浮き彫りにしている。高島平における中流層崩壊の実体、そして中国地方の地方都市の格差の現出をはじめ様々な事実が示されている。自民惨敗、安部退陣。そして麻生、福田が異口同音に格差是正を合言葉にして明日総裁選である。構造改革はどのような形で今後進むのだろうか?止めるのは簡単である。今必要なのは修正であろうと思われる。その方法が二人の言葉からはまだ見えない。

バイバイヘンリケ

On
by 卓 坂牛

9月21日
朝メールの返信など終わらせてから現場へ。東京はまだ暑い。大工が4人入って急速に進んでいる。一晩にしてボードがほぼ貼り終わったようだ。そのままリーテムへ。中国の設計院の実力がないと言ったらいきなり副社長は中国に電話をして人を換えろと要求。このあたりは相変わらずやることが早い。事務所に戻ると西澤君が来て富山の打ち合わせ。来週一週間彼が模型を作りこむ。夜ヘンリケ送別会。3ヶ月間ご苦労様。ワインを飲みながら折り紙で盛り上がった。月曜日にシュトゥットガルトに戻る。秋からまた大学で普通に勉強するのは信じられないと叫んでいた。日本に来る前はインドのワークショップ、年末はノルウェイで過ごすとのこと。ワールドワイドである。日本の学生も見習って欲しい。この行動力。