晒す覆う
中国プロジェクトの進捗報告を聞く。やっとできた現場小屋の写真を見た。なんとゼネコンの小屋以外に労務者を寝泊りさせる小屋ができていてこちらの方が大きい。確かに周りが収容された何も無い農地なのだから労務者はここに寝泊りさせるのが合理的。ではあるのだが、風呂とか食事とかどうするつもりなのだろうか?毎度毎度予期せぬ出来事に驚く。
週の前半(長野にいる間)に天内君や平倉君たちが作った『ディスポジション』現代企画室というタイトルの本が届いていた。未だ目を通していないのだが、さーっと目次を見ると主として哲学系の若き学者達が配置をキーワードとして論を認めている。なかなか興味深い。しかしこれだけ様々な分野の文章が果たして一貫したテーマを共有できているのだろうか?まあ読んでみよう。
夜早稲田でレクチャー。これは「晒す覆うの構造学」という講義名で7人くらいの先生が交代で講義するもの。僕は二コマ担当。今日は2回目。前回は「スケルトンとブラックボックス」の話し。建築の物質的な晒す覆うの話しをした。今日は建築受容空間において受容者の意識が覆われている(気散じ)状態から晒されている(覚醒)状態へ移行する契機がテーマ。それを広告、携帯電話を例に出して説明。広告は北田暁大、携帯は和田伸一郎の論を引用した。そしてこうした受容空間に埋没している受容者の意識を覚醒させる契機をデザインすることが僕の興味であることを実作を通して話した。
格差
4年の製図を見る。今年は構造のことを考えるように指導している。それは講評で金箱氏に来てもらうからではない。どうも信大の学生は概念を建築化する力がないと感じてきたからである。それはつまりものの成り立ち=構造が分かってないからだろうと思うようになった。多少コンセプトがいい加減だろうと、社会的ニーズが浅かろうとこの際まあいい。物として建築が成り立つことを今は最優先にエスキスしている。そのせいか例年にくらべてものの成り立ちが明確になってきた。
橋本健二『新しい階級社会新しい階級闘争』光文社2007を読み始める。今時過激なタイトル。著者は僕と同い年の武蔵大学の先生である。大学教育も格差拡大の発生装置と書いてある。それはいろいろな大学で教えていると如実に感ずるところである。
憑依されぬように
午前中は修論ゼミ、装飾論、山岳景観論、運動密度論、そしてメディア論。論文は長距離レース。粛々と休まずさぼらず継続して欲しい。そうすればどこかに着陸するだろう。ちょっとでもブランクを入れるとあっという間にだめになる。1日さぼれば回復に2日かかる。1週間さぼれば2週間。2週間さぼれば1ヶ月。そうなるともう回復不能である。
午後3年生の製図第二課題。幼児の施設。前の課題も難しいがこれも結構考え込む。子供の気持ちを想像するのに頭を使う。終わるとへろへろ。夕食後製図室で4年生の製図の進捗を見る。リラックスするつもりがここでも考えさせられてしまい疲れる。その後部屋に戻り昨日王国社の山岸さんから送って頂いた青木さんの原っぱと遊園地2をぺらぺらめくる。僕はどういうわけか自分がとても好きな文章とか建築とかを見るのを極度に恐れる。目次を見ると装飾だとか、写真だとか、時間だとか、今日の朝のゼミで議論していたようなテーマが転がっている。興味深い。読みたい。が、だからこそ、読めない。読むとひどく理解できてしまいスーッと腑に落ちていつの間にか自分の考え方に憑依してしまいそうである。自分で考えた結果が同じになるのならまだしも知らぬ間にとり憑かれてしまうことが怖い。洋書屋さんに届けられたエルクロキースのビニール包装を半年も封を切らないことがある。これも同じ心理である。結局青木さんの本は積読。明後日夜、早稲田で行なうレクチャーのパワポ作り。和田伸一郎の『存在論的メディア論』を読み返す。
散漫な大衆
午前中二つの会議。お昼に某市役所の方と打合せ。コンペの審査委員の打診だが、コンペではコンペティターとなりたいと我がままを言い、辞退の方向で頭を下げる。午後大学院の講義。今年の講義は自分自身の理解も深まってきたせいか講義をするのが少し楽しい。複雑な内容を簡単に話す気持ちよさのようなものを感ずるようになってきた。講義後、工学部全体の会議。そして夕刻輪読ゼミ。今日は井上充夫さんの『建築美論の歩み』。m2は4年の時から数えて3回目。この本はそのくらい読んでも損はあるまい。夕食後ベンヤミンの『複製技術時代における芸術』を読み返す。正直言えばこの本は「アウラ」について書かれたものと高をくくって最後までキチンと読んだことは無かった(お恥かしい)。ところが先日、早稲田での学生発表において、とある学生が「ベンヤミンは『建築は大衆が散漫に接してきたもの』」と発言。思わず「本当?」と聞き返すと「そうですよ」と言う。「どこで言っているの?」と聞くと複製技術、、、、という答え。それは気付かなかった。
建築は広告同様、人々が殆ど気付かないもの。建築はじっくり見るなどという対象にはそう簡単にはならない。そのことこそが建築の重要な本質の一つ。というのが僕の建築把握なのだが、そういうことは既にベンヤミンが言っていたのね!ということを学生から教わった。
というわけでざーと読み返してみると一番最後の2ページにそのことがしっかり書かれていた。曰く「建築は、古来、つねに人間の集団が散漫に接してきた芸術の典型であった。・・・建築物にたいする接しかたには、二重の姿勢がある。・・・実際型と視覚型である。実際型の姿勢は注意力の集中という道ではなく、むしろ習慣という道をとる。・・・建築にたいするばあいは・・・視覚型の姿勢にしても、がんらい精神の緊張と結びつくよりはむしろなんでもないふとした印象と結びつくことのほうが多い」更にベンヤミンはこうした注意深い観察ではなく、習慣的ななかでのふとした印象が歴史の転換点での人間の知覚の刷新を生むと述べる。
ベンヤミンが建築にこうした指摘をしていたのを知って、いままであたかも自分の意見であるかのごとく話していたのが恥かしいやら、我が意を得たりと嬉しいやら、複雑な心境。しかし考えてみれば僕の発送はベンヤミンの「気散じ」概念に想を得た北田暁大の『広告の誕生』の影響である。そこで北田は広告が大衆の散漫な意識の中で浮上してくる様を描写している。そして僕はその広告の現れ方が余りに建築とよく似ていると感じたわけである。気散じを広告と結びつけたベンヤミンが建築も語っているはずだと思わない自分は想像力不足?!
八潮ミーティング
6月15日
今日は日本工業大学で昼から八潮プロジェクトのミーティング。今週は木曜日の夜に授業とは別に早稲田でレクチャー予定。そのパワポができていない。北田暁大と和田伸一郎とベンヤミンが参考書。月火水と長野なので重いが仕方なく3冊鞄に突っ込み出かける。八潮は家から40分もあればつくのだが、日工大はその倍かかる。場所は東武線の東武動物公園駅。そこから車で5分。先ずは先生、学生皆一緒に小川君の設計した100周年記念館を見学。僕は2回目。前回見たときは雨だった。今日は快晴。ガラス張りのその建物はまた違う異彩を放っている。1年たったが特に大きな問題もなくまた内部もよくメンテされているのか美しい。ふと東北工大チームがいないことに気付く。地震のせいだろうか?がそれは杞憂でミーティングが始まり、遅れて到着。総勢20名くらい。次回ワークショップへの方向性を議論。
5時頃修了。学生とともに長野へ向かう。お腹がぺこぺこ。帰路、鉄板焼きのお店を発見。ゆっくりと夕食。ゆっくりしすぎて長野に着いたのは12時近い。
脳疲労
脳疲労という言葉がある。大脳は理性を指令する新皮質と本能を指示する旧皮質のバランスによって最終行為を決める。ここで理性が本能を押さえつけ過ぎると脳疲労するという。するってーと何かい。本能のおもむくままに行動するのが最も脳疲労しないということなのか?どうもそのようである。食で言えば好きなときに好きなだけ楽しく食べる。それが脳を疲労させないと言う。えっ本当?と思うだろうがそういうことを言っている医者がいる。横倉恒雄(『脳疲労に克つ』角川2008)という人で聖路加の日野原氏の教え子だそうだ。実際この著者はこの考えで体重は15キロ減り体脂肪も一桁になったという。つまり消化器官をいたわるより、脳をいたわる方がお得ということなのかもしれない。特に重要なのは禁を禁ずるということ。何をしてはいけない、何をしなければいけないという発送が最も悪いと言う。うーんそうかもしれない。ストレスフリーにするためにはもっとルーズに。
アーキリテラシー
午前中早稲田。学生の発表。テーマはグローバリズム⇔ローカリズム、主体性⇔他者性。今日は3回目の発表。一人約十分。自分で撮ってきた建築(あるいはそれ以外の料理や服飾)写真をもとにこれらのテーマに即してプレゼンする。中身がなかなか濃くなってきた。学習能力があるなあ。今までの発表は、自分の意見に終止していた。それに対して僕は、もっと自分の意見を相対化するように、一冊でもいいから何か定説と言われる本を読みそれをもとに自分の意見を述べるように言ってきた。今日は半分くらいがそうしたプレゼンであった。ラスベガスもとにローカリズムを語る学生もいた。2年生にしては大したものである。理工学部で非常勤している友人が昨今文化構想学部は人気があり優秀な学生が多いと言っていたがそうなのかもしれない。午後事務所にmdrの荻原氏来所。とある企画の相談。大変そうだが面白そうなので快諾。夕刻k-projjectのクライアント来所。細かな備品のもの決め。実施設計になっても毎週打合せなのは設計期間が短いからか?
今橋映子『フォトリテラシー』中公新書2008を読み始める。フォトリテラシーという言葉が目新しいがこれはれっきとした英語だそうだ。この言葉の定義は写真メディアを芸術史、社会的文脈双方から批判分析評価できる力。そしてその力をもって歴史認識を洗練し、現在におけるコミュニケーションを創りだす力となっている。この言葉で閃いたのだが、アーキリテラシーという概念があり得るのではないかということ。その定義は「建築を芸術史、社会的文脈から批判分析評価する力。そしてその力をもって建築環境認識を洗練し、現在における建築環境と人間のコミュニケーションを作り出す力」。この本を読みながら考えてみたい。
思い過ごし?
朝、病院で電気や超音波や足湯でリハビリ。その後エコーで診断。大分筋肉細胞が増えてきたとのこと。とりあえず順調に回復。これだけやっていただき260円とは安い。
午後k-projectの図面をチェック。詳細を詰めるべきことがまだまだいろいろある。完成していない図面もたくさんある。かたや残された時間は余り無い。弱ったね。少しピッチをあげなければ。
帰宅後『刺青とヌードの美術史』を読んでいて(と言うよりはその絵を眺めていて)日本の江戸時代の裸体画は西洋のヌードと比べると色がべた塗りで平面的なグラフィックであることに気付く(まあ今まで気付かない方が不思議かもしれないが)。そしてヌードが写実的になるのは明治になって西欧の描き方が輸入されてからである。ヌードに限らず日本の絵は明治までリアリズムではなかった。もちろん西洋だって透視図ができて初めて構図も色も本物っぽくなる。中世の絵はポスターみたいである。500年の時間差で日本は写実を描くのだが、ほっときゃ、つまり西洋の教えがなければずっとポスター描いていたかもしれない。しかし、西欧も日本も絵を描くということがこれほど長く写実ではなかったということが不思議でならない。何かを描くということが先ずは写実だと言う僕等の思いは思い過ごし?
自然
朝一大学院の講義。今日のテーマは自然。前半木田元の反哲学に基づいて話をした。日本は自然の中で思考する。西欧は超自然から自然を把捉しようとする。それが哲学である。よって日本に哲学は生まれなかった。近代に入り哲学は科学と言う援軍を得てついに自然を拒否するに至る、一方でニーチェハイデガーという人々によって反哲学が生まれる。そして日本でも近代とは自然を拒否する時代となりそれを丸山真男は作為という言葉で呼び、それまでの自然(じねん)の対概念として近代を作り上げる主要な概念とした。
というあたりまで木田の受け売りをしたところで先日読んだ磯崎の話しを思い出した。それは磯崎が大分県医師会館を学生の身分で依頼された時の話し。クライアントは岸田日出刀に名前を貸り、実際の仕事は磯崎にやらせるようお願いしたそうである。そこで磯崎は岸田に挨拶に行く。岸田はもちろん丹下の先生であり、あの丹下を怒鳴るほどの強面だったそうだ。緊張して挨拶に行った磯崎に岸田は「作為に溺れるな」と言ったとか。それはこの丸山の作為と自然が下敷きにあったと磯崎は解説している。そして磯崎はもちろん、作為の建築家の道を進むこととなる。
ギリシア以来の自然概念は近代に敬遠され、そして磯崎もそれから距離をとり、しかし21世紀この概念を我々は拒否できない。ではしかしどう受容するのか???というのが今日の講義だった。
午後4年生の製図。東大では4年の製図は院生も受講できるとバイトの武田君が言っていた。信大でもそうするかな?
帰りがけ丸善による。建築書のコーナーに自著が平積み。気恥ずかしいやら、嬉しいやら。モネオの新刊、ファッションのコーナーで服飾史など5~6冊放り込み宅配。足が未だ言うことを効かないせいか体の疲れ方が早い。事務所に寄らず帰宅。最近いろいろな方から謹呈本への御礼の手紙を頂く。勝手に遅らせていただいたのにご丁寧な激励やお褒めの言葉など。存外の喜び。