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Mar 2009

建築を面白がる

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by 卓 坂牛

平川克己『ビジネスに「戦略」なんていらない』洋泉社2008を読む。先日読んだ鷲田さんの『「待つ」ということ』では未来から現在のあり方を効率的に想定する現代社会の側面が批判的に描かれていたが同様な視線がここにもある。加えて著者は仕事における「戦略」的思考が仕事の最も大事な別の枠組みを排除しているという。そしてそれは仕事を「面白がる精神」だと言う。設計事務所のようなところではそれがなくなったらもはやおしまいであり、この言葉は敢えて言われるまでもないと思いこんでいるのだが、少し反省する所もないではない。それは次のようなことである。設計という仕事は相手があるわけで、こっちだけ勝手に面白がるわけにもいかないものである。相手といっしょになって面白がらなければならない。しかし一緒に面白がるためには面白さのツボを共有せねばならない。「坂牛のツボならなんでも面白いですよ」なんて言ってくれるクライアントが登場すればまあ楽ちんであるがそんなケースは殆どない。となるとこれは共有できるツボをとにかく探さなければならない。しかし設計とは時間的に有限なのだからさっさとやらないと時間切れとなり、どっちか面白くないか、双方つまらないか、という最悪の事態も招きかねないのである。しかし恐ろしいことに建築とは双方面白くなくてもできてしまうものなのである。なぜなら建築は面白がるために作るものではなくて、雨風しのぐために作るものだということになっているからである。そうである。その通りである。「建築は面白がるために作るものである」なんて大学で言おうものなら、まあ他の先生からは冷たい視線を浴びるだろう。「建築」というものは社会常識上そうなっているのである。だから僕らは必至で時間内に笑えるツボを見つけ出すと言う努力をせねばならないのである。この本を読んで改めて建築を面白がらねばと痛感した次第である。

信州共生住宅研究センター発表会

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by 卓 坂牛

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朝のアサマで長野、そのまま長野電鉄で須坂へ。今日はとある研究センターの発表会。「とある」と言ってもひとごとではなく、建築学科のメンバーで作っている「信州共生住宅研究センター」なる研究所の発表会。しかしもちろん教員は兼任であるからして、一年の総括まとめ発表会は勢いこんな年度も押し迫った時期に追い込まれるのである。僕は総合司会なのだがいったいどのくらい学外からの聴講者に来ていただけるか気をもんだが、高専、企業、市などから30名近い参加者があり、学内も含めて7~80名程度の会となった。まずまずの盛況である。さていったい何と何が共生するのか?これは研究者それぞれであるが、意匠系は今年は風景・産業・生活との共生がテーマだろうか?歴史系は「信州と民家」、構造・設備は「エネルギーおよび材料」「森林資源および県産材利活用」をテーマとする。もう少し共生symbiosisの生物学的な意味にまでつっこんで来年度は考えてみたいところだ。帰りはシンクタンクに勤めた卒業生と東京へ。昨今のシンクタンクの調査内容などを教示いただく。社会に出ると皆立派な人になるなあと感動することしきり。

大友の音

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by 卓 坂牛

ニューヨークで芸術監督をやっている友人と駅のパン屋でブランチ。話題はダンス、音楽、などなど。彼女が最近親しくつきあっている大友良英の話になる。僕は会ったことはないけれど著書『musics』には感銘をうけた。この本に高橋悠治のワークショップの話が書かれている。そこでは都会で聞こえてくる音を分節化してネーミングするという一般の音の聞き方をしない練習をするという。つまり美的に対象化する普通の音の受容をやめるのである。こうした方法に感化された大友の音を彼女はsoaking yourself(どっぷりつかる)の音だと言う。つまりさあ聞くぞと対象化する何かではなく身の回りに自然と形成される周辺音である。
午後、東戸塚に後輩のオープンハウスを見に行く。東戸塚という駅に初めて降りたが駅前に高層マンションが何本も建ち、デッキでつなげられその途中に商業施設が張り付いている。この巨大スケールには馴染めない。往復の道すがら竹内薫の2冊の新書を読む。『理系バカと文系バカ』PHP新書2009『知的思考力の本質』ソフトバンク新書2009。文系バカか理系バカかというテストが載っているがやってみると僕はどちらかと言うと文系バカのようだ。とはいえこうしてブログを、まめにするのは理系バカに多いとか。

坂本ファイナルゼミ

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by 卓 坂牛

k-projectの引き渡しを午前中行う。ほんの少しダメ工事が残ったがどうにか工期内に引き渡せてほっとした。昼食後渋谷で時間を潰して3時に坂本研へ。最後のゼミとか?大学教員になったかあるいは研究室で設計担当となったobが集まった。なのだが肝心かなめの先生は風邪で寝込んで欠席(だいじょうぶですか?)。しかし集まった顔ぶれを見ると、あらためていろいろな大学に行ったobが多いと再認識。日本全国20大学くらいで頑張っている。篠原研は10くらいだから教員になった人間は倍はいる。やはり坂本先生の教育者としての功績をしみじみ思う。
北斎コンペでファイナルに残った柳澤、石黒案を拝見する。ほーなるほど、残るだけのことはある力作。しかし冷静に比較しても僕らの案は遜色ない。ただスロープにしたのが美術館として厳しかったような気がする。反省。最初は先生もいないで何するの?という集まりだったが、最後は自由が丘のびっくり寿司。終わってみれば12時。建築談義は尽きない。

爆音

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by 卓 坂牛

帰宅して部屋の整理をしていると、爆音。この間の勅使河原の舞台の音のようだ。夜空にヘリコプターが爆音を響かせて旋回している。我が家は防衛庁のそばなので事件(だいたいは天災だが)が起こるとここから大型のヘリコプターが飛び立つ。管轄の大臣か副大臣が乗っている場合が多い。しかし今日はいつになっても飛び去らず、着陸もしない。と言うことはこのあたりで事件か?飛んでいるのは新聞社のヘリか?
スキー合宿に行っていた娘が帰宅。運動は全般的に嫌いなのにスキーだけはやれるようだ。そして書道の稽古に行っていたかみさんが帰宅。持って行った作品はどれも採択されずとしょげている。まあ仕方ない。最後は運。

バイオマス問題

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by 卓 坂牛

昼間は事務所。夕方学会の「木質バイオマス資源の有効活用」特別委員会に出席。環境設備系の委員会のようだが、意匠も構造もいる横断的取組である。発表内容は実に参考になる。と言いたいところだが、とても大きなバイオマスの把握を前提としているので、理解はできるがそれをリアルな設計の世界に反映しようと思うと、経済、法、流通の問題などにぶつかりそうである。またこうした方向性は現象を客観的にとらえれば演繹的に出るものでもないということがよくわかった。つまり着地点(結論)をあらかじめ設定しないことにはその筋道が作りづらいようである。逆に少し乱暴に言えば、どのようにも結論を持っていくことができるということだ。つまりあらかじめある種の倫理感が問われることになる。なかなか難しい問題である。

箱根

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by 卓 坂牛

箱根は朝から大雨。山が霞み寒い。このあたりは本当に山の中と言う感じがするが標高は450メートルに過ぎない。これに比べると一昨日訪れた小諸は市内でだいたい600メートルを超えている。やはり長野の町は高いし寒い。雨の中どこにいくでもなくぶらぶら。傘をさすのは億劫である。2~3軒骨董屋を巡ってカフェのようなところで昼をとる。女子大生が多い。平日の昼だから当然かもしれない。このあたりを散策しているのは外国の人か、引退した老夫婦か、おばさんか、女子大生である。巨大な工事現場がある。看板を見ると設計は観光企画、施工は鹿島、森ビルも絡んでいるようだ。200室のホテル。どうも仮設足場から推測されるヴォリュームはかなり風景に突出しそうで箱根ファンとしては気になるところ。午後のロマンスカーに乗る。箱根から小田原まではのろのろと山の中を走る。小田原からは突如東京郊外の平坦な風景で味もそっけもない。ロマンスカーも長野新幹線も1時間半くらいで山と東京を結ぶのだが、風景は長野新幹線の方が変化に富んで楽しい。長野を出て軽井沢までは山。トンネルを抜けると都会と山の中間の自然。そして高崎あたりから郊外である。夕方事務所。昨晩は面倒臭い問題がメールされ、ホテルから方々に夜も朝も電話していたが、その顛末を確認。月末までのコンペ案をチェック。

ond day trip

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by 卓 坂牛

大学は公休。娘は合宿。1日旅行。箱根吟遊へ。道路わきのエントランスが5階。崖っぷちに建つ旅館である。露天風呂からの眺めが絶景と聞いたが本当である。飯がうまいと言われたが絶品。かつて泊った宿のなかでもかなり良くできている方だ。
温泉に入り鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書2006を読む。現代社会が「待つ」ことを忘れ、一歩先を予測しそれを前提として現在を効率的に割り出すその姿を示す。著者が労働について考える研究会で仕事のプロセスを英語で考えていると多くの言葉にproという接頭辞が付くことに気づいた。Project profit program production progress promotion などなど。proはご存知のとおり「前に」「先に」「あらかじめ」という意味を持つ。これは現代社会において仕事が背負った宿命であろう。
ところがproのつかない仕事をしている人たちもいる。西村佳哲『自分の仕事をつくる』ちくま文庫2009ではおよそproとは関係なさそうな仕事ぶりが紹介されている。残念ながら建築設計という行為はどうあがいてもproかもしれない。つまりは設計という先を見越した事前の計画があり次にそれを形にするという二つ目の工程があるからである。一方彫塑のように作りつつ考えるものがある。こうした形式が仕事の中で成立すればそれはanti-proの仕事となる。「ワイアード」という雑誌を作った小林弘人氏は雑誌における建築的な(pro的な)側面を徹底して排除することを考えたという。つまり企画という設計図をあらかじめ考え、その後で組み立て、つまりコンテンツ作りや、デザインを外注して合体すると言うような方法を拒否したのである。だからデザインもエディションもすべて内注。作るそばから考え、考えながら作るのである。たぶんそうしたやり方には待つという行為、予測できないものに期待するという時間が必然的に生じてくるものだ。それを無駄と言うかどうかは作り方のかなり大きな別れめなのである。

小諸

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by 卓 坂牛

昨晩はちょっと遅かったのだが、簡単な原稿メールを送らねばならず早朝研究室へ。10時に大学の車で他の先生2人と小諸の商工会議所へ。とある建築相談を受ける。町づくりの延長ということで市内の散策。2時間ほどかけて城下町の歴史保存修景地区を歩く。新幹線ができるまでは信越線の特急がとまる駅だったのが、新幹線開通し小諸を通らなくなり一気ににぎわいが減ったようだ。東急デパートや大型スーパーが撤退、nttは無人化。なんとも淋しい。懐古園があり藤村記念館などがあるのだが観光客は軽井沢で止まってしまう。さてここで何ができるだろうか?夜40年務められた大学の技術職員の定年退職お祝い会。

卒業式

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by 卓 坂牛

午前中卒業式、午後は学位授与式、夜は謝恩会。娘の卒業式も今日であり、もちろん長野にいる私はそれに出席はできないし、するつもりもないのだが、こちらの卒業式では親御さんも多く参列し数名の方とはご挨拶もした。時代は変わった。今年は4年生7人修士7人が卒業、修了。1月2月は胃も痛い状況だったがなんとか終わったというところ。ほっとした。