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by 卓 坂牛
朝大学に行くと、東工大の塩崎君からできたての博士論文が届いていた。発表会には行けなかったが内容は興味深く送っていただくよう頼んでいたものである。序文のあたりを読むと自分の学位論文で考えていたことと並走する部分が多く興味深く読み始められた。虫眼鏡片手に細かな引用文を読むとう頷くことしきりである。9:00から会議、そして午後から講義、そしてゼミ。例によってこのゼミは毎年3時から始まり終わるのは8時くらいとなる。一冊本を読みそしてドローイング。今日は西洋哲学史だが、定番の大学の教科書のような本。院生は去年木田元の『反哲学』を読んでいるので理解がかなり深いものと思う。昨日読んだ松岡正剛の本に書いてあったが、本を読むことと服を着ることは似ている。服はその日の気分や天気で選ぶものである。逆に言うと服によってその日の気分が左右されたりもする。気分と服が合わなければどうもしっくりこないものである。本も同じでその日の気持ちや興味や頭のノリによって選ぶものである。しかしゼミにはチョイスがない。選ばれたものを読まざるを得ない。そうなると本の与えてくれる気分にこちらをなんとか合わせていかないと齟齬を生じることになるわけだ。だからこれは精神修養であり本の気分に入っていかないといけない。プラトンを読むなら空想世界でギリシアに飛びそして酒を飲みながら寝転がって対話している自分にならないといけない、更に脳みその動かし方を自分なりに原理の探求に向かう状態へ高めないといけないのである。これは明らかにさあ設計するぞという脳みそとは異なるように思う。松岡のこうした指摘は僕にはよーく分かる、こう言う読書術を書いた本は僕の知る限りかつてなかったように思う。その意味ではとても「分かる」本であろうと思う。ぜひ皆さんご一読を。
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娘に言われて携帯の料金プランを変えに行く。今まで無駄に払っていた電話代に驚く。隣のスタバでコーヒーを飲み、家に戻って娘と英単語の勉強。この年になってつくづく思うが、語学はヴォキャブラリー。「何を馬鹿な」と怒られそうだが、あくまでこれは個人的実感。最近自分の記憶があやふやになっているのを痛感する。3つに一つぐらいは娘の言うことの方が正しい。使ってないと記憶は朽ちる。
午後A0勉強会。9合目まできた。来月でやっと終わる。ここ数回の話は形の関係性や大きさとそれが見る側の心理に整合する仕組みの説明(ベルフリンの影響をもろに受けている)。分かりやすい話である。夕方のバスで長野に向かう。最近売れている松岡正剛の『多読術』ちくまプリマー新書2009を読む。最近今まで読んだ本を頭の中で編集し直す為に再読しようと思っていたら、本は2回読めと書いてあるのに力づけられた。松岡正剛は最近『千夜千冊』というタイトルの本を上梓した。彼が毎日一冊読後感をホームページに綴ったものが千たまって本になったという。恐れ入る。続いて八幡洋『パーソナリティ障害』講談社2008を読み始める。前半は人格形成の理論史。どれもこれも本当のように聞こえる。一体新たな理論が出てくる批判の根拠が何なのかは素人にはよくわからない。
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国立近代美術館までジョギングで行ってみようと思い立つ。地図で距離を測ると約4.5キロ。だらだら走れば30分くらいだろうか?「ヴィデオを待ちながら」という展覧会をやっているのでついでに見て来よう。半袖シャツじゃまだ寒いかと長そでのジャージに下はランニングタイツ。上から下までまっ黒でカラスみたいだ。四谷駅を通り過ぎ、新宿通りをまっすぐ行くと突き当りが半蔵門。そこを左折してイギリス大使館を左に見ながら、千鳥が淵を右折。1キロくらい皇居の脇を走ると美術館である。桜の香りを感じながら走ったら癒された。でも疲れた。ロバート・スミッソンの「スパイラル・ジェッティ」制作フィルムを見ていたらうとうとしてしまった。帰りは日和って地下鉄に乗ろうかと思ったが、やっぱり走った。皇居の脇の巨大石垣と見張り台のおまわりさんを見ていたらバルトの言葉を思い出した。ロラン・バルトは1974年の短い日本滞在時に『表徴の帝国』なる日本エッセイを書いた。その中で東京をロサンゼルスと比較して「いかにもこの都市は中心を持っている。だがその中心は空虚である」と語ったのである。確かにとんでもない空虚。ロンドン、ニューヨーク、パリ、ウィーン、上海、、、、世界中の主要都市の中心部にこんな巨大な市民の入れない場所は存在しない。バッキンガム宮殿は確かに入れないが皇居の大きさからみれば米粒である。(皇居=1.4k㎡、バッキンガム=0.03k㎡)もちろん巨大王宮と言えばパリのヴェルサイユ。面積は8.1 k㎡と巨大である。しかし郊外にある。ウィーンのシェーンブルンは1.2 k㎡だから皇居と同じくらいだが自由に入れる。王宮ではないが、ニューヨークにはセントラルパークがありこれは3.2 k㎡とかなり大きいがもちろんこれは市民の憩いの場。民主主義の日本の真ん中が巨大な空虚というのは良くも悪しくも東京の一番の特徴であることに間違いない。
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午前中早稲田の講義。去年は遅刻者が多かったが今年は皆さんまじめ。最初の自己紹介をhpに書いてもらったのを見ると。本当は建築学科に行きたかったが数学が苦手だったとか、線を引くのは性に合わないなどの理由で文化構想学部に来たという人が結構いた。フィールドプレゼンに期待しよう。
講義後、昨日依頼のあった計画敷地を見に行く。早稲田通を500メートルくらい上がったところである。なんとお知らせ看板が出ている。確認を7日に出して受理されているのだから当然か。2方を五階建ての建物にふさがれ一方が二階建の住宅。4メートル道路を挟んだ正面も5階建ての大きなビルの側面に塞がれている。凄い閉塞感。こんな敷地は初めてだ。
早稲田通はその昔西早稲田に住んでいた時にジョギングしながら古本屋めぐりしていたところ。あれから20年近くたつが古本屋健在で嬉しくなる。最近できた打ち放しの素敵な美術、文学、哲学、歴史、専門のギャラリーのような古本屋があった。腹は減ったがつい入る。お店の名前は五十嵐書店。大正14年出版の伊東忠太著の『西洋建築史』定価3円というのがあった。2000円。更に増田友也の博士論文に加筆した『建築的空間の原始的構造』なる本があった。出版年は1978年そして出版社は拙著と同じナカニシヤ出版である。定価は3800円。当時としてはかなり高価な本だったと思う。これが2500円。安い。2冊買い求め。近くのラーメン屋で眺める。満足。
事務所に戻り養護施設プロジェクトの地域化の手法を探るために、学校建築の地域化の有名な例を学ぶ。ペーター・ヒューブナー木下勇訳『こどもたちが学校をつくる』鹿島出版会2008を読む。いきなり坂本先生の推薦の言葉が載っているのにはびっくり。ちょっとデザインは古いが、子供たちの6か月に及ぶワークショップにおいて1/10の模型を作りそれを10人の建築家が図面化して作り上げたのには脱帽。地域化と共に個別化が実践されている。まさにクライアントのKさんが養護施設に求めていたことが小学校でも行われている。子供を育てる環境に差はもはや無いということか。
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午前中事務所で打ち合わせ。雑用。午後も打ち合わせ。新しいプロジェクトの最初のエスキス。全く新しいビルディングタイプと敷地の制約の少なさがきっかけを見つけにくくしている。僕もスタッフも多くの可能性の中から進む方向を模索中。設計期間はあるのだが、補助金の関係で6月一杯に基本構想をまとめないといけない。そう考えるとまったく時間がない。夕刻後輩のNさんに頼まれてNさんの知り合いの建築相談に伺う。100㎡の敷地に5階建ての学生用の集住を作りたいという要望。1年前からとある建設会社に設計施工で依頼しているのだが何も進展しない。あまりのいい加減さに嫌気がさしてすべてを白紙に戻して設計を新たにやり直したいとのこと。聞けば聞くほど世の中にこんな目茶苦茶な会社があるのかと呆れた。事前に聞いていた工期と工費ではできそうもないと思っていたのだが、こちらの要望をほぼ了解してくれた。であればお引受けするのにやぶさかではない。場所は西早稲田、明日の講義のあとに敷地を見てこよう。
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前期は月火水と大学での講義やゼミや設計プロジェクトの打ち合わせなど朝から晩までスケジュールはぎっしり。午前中小諸プロジェクトの打ち合わせを学生と行い、午後は4年生の製図第五。初回なので16人の受講者全員のテーマ発表。よく考えられているものが多いのだが、毎年思うことだが、建築で解決するのは困難だろうと思われるような内容が多い。
最近始めたチルドレンセンタ-の仕事が初めてのビルディングタイプということもあり知らぬことばかり。昨日は夕食を共にした環境心理の先生と教育学部を出てから建築に学士入学した建築史の先生にいろいろ聞いた。こうした施設で治療に当たる心理療法士という人たちは学問分野で言えば臨床心理学を学ぶ。そしてそうしたことを学んで精神治療にあたる先生は自らの精神もぎりぎりのところまで持って行くのだそうだ。教育学部にはそういう先生もおられるそうだ。帰りがけ寄った丸善でその手の本をいろいろ購入。そのうちの一冊『子供の脳は肌にある』光文社2004を読み始める。著者山口創の略歴を見ると同僚先生と同じ大学、学科、早稲田大学人間科学修了である。専攻はやはり臨床心理。
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午前中ゼミ、と思っていたのは僕だけで学生のカレンダーは来週が初回。というわけでなんとなく雑談。僕の最近の設計の話をしていたら終わってしまった。たまにはこんな緩い会話も楽しいかも(しかしこう言うのは愚痴に終わることが多い)。午後3年生の製図。課題はコンヴァージョン。谷口吉生の東山魁夷美術館のすぐそばに蔵春閣という三沢浩設計の建物がある。これがコンヴァージョンの対象。上杉謙信の横山城という城があった市内を一望できる丘の上にこの建物は建っている。学生と先ずは見学に行く。今年から赴任された新館長さんはこの建物が大好きらしく丁寧に細部まで説明をしてくれた。1967年にできたこの建物は結婚式場として使われたとのこと。当時結婚式は家でやるのが普通。つまりこの建物は結婚式場のさきがけであった。しかし今はその役目を終え、一部公民館的に貸出、一部オフィスとしてテナント貸し状態である。屋上には野外ステージと観客席があり、左を見れば市内を一望。右を見れば善光寺を一望。ここで記念写真など撮ったのだろうか??見学終了後、この課題の非常勤である広瀬先生が設計した倉庫をコンヴァージョンしたカフェに学生と立ち寄る。
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10時40分のアサマに乗るためにぴったり1時間事務所で打ち合わせ。アサマでは最初の輪読で読む原佑『西洋哲学史』東大出版会1955を再読。前読んだときは3色ボールペン読書法が流行っていた時のようで赤、青、緑でアンダーラインや書き込みがある。その読み方はそれなりに意味があったのか読み返すと前読んだことがついこの間の如く思い返される。またやろうかな?
午後一で今年度最初の『言葉と建築』講義。ついにこのシリーズ5回目の講義となる。やはり何度かやってくると話す内容を豊にできるような気になる。夕刻は新4年生を入れたゼミイントロ。流石に人が多い。昨年から院も定員満員状態で18人の大集団である。これでは会議室でゼミが出きない。夜は新4年生と理科大から修士にきたT君の歓迎会。
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朝から『戦後日本スタディーズ』を読む。韓国の反日の流れと大統領の施策を論じる文章があった。大統領になる人が拉致されてしまうような国であることに改めてその危うさを感じた。曇っていた天気も午後には快晴になる。少し外出しようかとも思ったが、昨日の疲れもたまり今日は家から出ないことにする。早めに風呂に入り先日ニューヨークの友達と会って話題になった伊坂幸太郎の『死神の精度』文春文庫2008を読む。死神が人間の姿に化けてもうすぐ死ぬであろう人間に会い死なせるべきか見送るべきかを調査する。1週間以内に調査書をまとめて本部に送らなければならないのだが、死神はミュージックが好きで暇さえあればCDショップに行って視聴している。短編集は好みではない、もとより小説はめったに読まないのだが、たまに読むと軽いウイットが心地よい。
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朝9時に新宿南口で日建の先輩だったTさんに会い特急あずさに乗り途中下車。初めて降りる町である。この町出身のTさんは日建をやめて独立し、社会福祉法人の理事長をする高校の先輩Kさんから養護施設や保育所などの仕事を依頼された。全部で5つほどの施設をこの地に、そしてその関係で神奈川、九州にも同様の施設を設計することになった。この手の施設はその昔はパノプティコンだったそうだ。それがKさんの、「小規模化、個別化、地域化」という独創的な考えのものとにTさんが新たなビルディングタイプを作ってきた。そしてこのKさんがさらに新たなモデル設計をTさんに頼んだのだが、大病を患った彼は体力的に無理という理由で私を紹介することとなった。Kさんに10時半にお会いする。彼はこの手の施設の現状や国の無策、子供の成長について極めて明快にそして科学的にとうとうと語ってくれた。昼を食べ、皆で、Tさんの建てた建物を車で一件一件回る。Kさんはよくできているところ悪いところなどを丁寧に説明してくれた。昨年まで大学の教員もされていただけあって説明が論理的かつ魅力的。一日話を聞いていて飽きることがない。なるほどパノプティコンを否定して建っている建物は住宅のようである。at homeなことがかなり重要。そしてこの次に建てるのは4~5棟の分棟の施設群。国道沿いの細長い敷地に成長する建築を作らなければならない。まさに昨日見たアアルトの生成感が求められそうである。