7時に劉さんの車に乗る。プードンまで院の講義「言葉と建築」のコメントを読みその感想を打ち込む。車は立派なのだが、道が悪く振動が激しい。僕のコンピューターは振動が大きくなるとハードディスクが自動的に止まる。打ち込み途中で頻繁に入力がとまる。8時過ぎにプードンへ。少し買い物をして10時に乗機。機中、マーク・ウィグリーの「量の歴史を目指して」を読む。建築を量の歴史で語ろうというもの。建築理論それ自体が余剰を支配する歴史。確かに経済的にも見た目にも余剰は表現の基本原理である。しかし建築家像の始まりであるアルベルティは建築の代わりにドローイングという建築の非存在をあみだし。つまり建築家は殆ど無価値なことをすることを約束することで建築家になったというわけである。アルベルティの美の定義である、何も加えられず、何も取り除けない状態が示唆する通り、建築家のゴールとは不足も過剰も避けることにあり、モダニストは量の計算を正当化し、データーとチャートの論証法を強調した。さに彼らの夢はエンジニアとアーティストの合体。フラーが前者、ミースが後者を体現した。そしてミース以来、量と表現性(芸術性)の関係は簡単な言葉に表されるようになる。ミースのless is more, ヴェンチューリの Less is not more, less is a boreコールハースのmore and more is moreなどである。しかし結局、少ない多いはもはや表現の実態として差がなくなっており「ほとんど無い」ということが「ほとんどすべての実質」に再びなるであろうと予言して終わる。つまり表現の根源に余剰は不可欠としてもその表れが必ずしも余剰でなくとも良いというわけである。むしろデコン支援者であったマーク・ウィグリーがミニマリズム応援であるかのように読めるのだが、、、東京はかなりの雨である。成田からリムジンで東京へ、帰宅後溜まったメールチェック。
朝8時にクライアントの部屋で今日の作戦会議。工期の遅れと直らないダメ工事にどう対処するかを話し合う。現場に移り、10時から夕方6時まで100カ所位のチェックを行う。ほとんどが塗装とシールと疵である。まあ日本の現場と変わらないのかもしれないのだが、とにかく現場が汚い。完成検査の時は現場はぴかぴかなものだろうがここはどろどろである。おかげで服はもう埃だらけ。こちらは汚れないものと予想してたいして替えも持ってきていないのに、、、、とほほである。最後は結局日本と中国の文化の差ということになってしまうのだが、それでは検査の意味もない。一流の所長になりたければもっと上をめざせというような教育的指導でとにかく直させることを約束させる。中国はこんなことずっとやっていていいのだろうか?世界の文化の発祥地はもっと誇りをもってモノづくりをして欲しいものだ。終わってクライアントに誘われ羊料理を食べ、ドイツ人町でビールを飲
今日はひどい雨。早稲田に出かけるのについタクシーに乗る。講義の後ミルクスタンドでパンを頬張り事務所に戻る。新しいエスキス模型を前に打ち合わせ、相変わらず難しい。5つくらいのビルディングタイプを同じリズムで作るのはなかなかの難問。終わって急いで東京駅へ。3時半の成田イクスプレスに乗る予定だったが着いたらなんと成田方面が大幅に遅れ。この大雨が原因かと思い気や電車の故障だとか。天災ならまだ許せるが列車の故障とは、、、とほほ。乗る予定の列車は運休。予約をキャンセルしなければならないのだがon lineも故障だとか。とにかく日暮里に回りスカイライナーで成田へ。なんとか50分前に着いて滑り込む。今日はANA。いつものCHINA AIRとは違い快適だし機内食が美味しい。機内でアンソニービドラーの「建築の拡張された領域」(Anthony vidler ed. Architecture between spectacle and use 所収)を読む。レッシングの『ラオコーン』に始まり、グリーンバーグの「新たなるラオコーンに向けて」を踏まえしかし建築の領域は曖昧という認識の上でヴィドラーなりの建築の特質分析が展開される。その中でヴィドラーはクラウスの「彫刻の拡張する領域」を引きながら本来歴史や場所のモニュメントとして存在していた彫刻が領域を拡張してノマドな状態となり、さらには場所性を保持した非彫刻的なものへと展開したこと。加えてそうした非彫刻がaxiomatic structure(原理的構造)を生み出したことをあげそれが建築と彫刻の共有領域を生むことになったのではないかと指摘する。そうした彫刻の建築への侵入という歴史的経緯を踏まえヴィドラーは現在の建築領域に見られる4つの原理を示す。1)ランドスケープの概念、2)生物学の類比、3)プログラムの新たなコンセプト、4)建築固有の形態探索。更にこれらが(特に4が)コンピューター技術の進歩により飛躍的に前進し、そして、この技術が下手をすると唯のフォルマリスト支援の悪しき道具の如く断罪されるのだが、うまく使えばモダニズムが生み出した様々な問題解決の糸口ともなるであろうことを指摘する。そしてクラウスの指摘した「彫刻の拡張領域」が「建築の拡張領域」を用意し、このオーバーラップした建築と彫刻の共有領域がそれぞれの領域の境界を曖昧にしたり取り除いたりするのではなくむしろ真にエコロジカルな美学を生み出す新たなヴァージョンを作り上げるのではないかと結ぶのである。
最後の結論に至る論理展開は論理としてはあまり説得力がないし、建築が寄与するところは何も「エコロジカル」な美学だなんて妙に倫理的である必然性はないと思うのだが(ヴィドラーは結構真面目な批評家なんだ)、直観的には腑に落ちる。その理由はよく考えないと。プードンに着くと。防菌服とゴーグルで完全武装した検疫官が乗り込んできて赤外線温度探知機のようなものを額にあて乗客全員の体温を計って降りて行った。今日は遅いので白タクでプードンからタイソウに向かう。夜は高速が空いている。1時間ちょっとでホテルに着いた。
ついに壊れた携帯の機種変更をしにsoftbankへ。iphoneにしようかと思ったが、おしりのポケットにいれるには少し大きいのでsamsungの小さい機種にした。cpuを持ち歩く身にはもう一台小さなcpuはいらないような。もう少しすごいのがでたらまた考えよう。会計士さんから決算の質問がメールされる。面倒くさいので電話する。最小限の質問に応え「後は社長に聞いて」と言い残し、電話を切る。二つのプロジェクトの打ち合わせをしてから蔵前に横溝さんのやった集合住宅を見に行く。なかなか面白い。事務所に戻りユリイカコールハース特集を読む。コールハースを語るのは苦痛以外の何物でもないという南さんの文章に笑った。なるほどね。その気持ちは分からないではない。今更なにをとは僕も思う。
2時間仮眠。寝坊せずに市役所へ。マイクロバスで昨年の景観賞建物の見学ツアーに行く。役所が参加者を募って年2回やっている。去年から審査している手前、解説を頼まれている。解説と言っても建築好きの市民の方と(大方お年寄りである)建築雑談しながらのどかな散歩という感じである。「先生は長野は長いのですか?」と聞かれ「やあ、長野県信の設計をしていた95年くらいからです」と言うと「あの建物は素晴らしい、それまでは長野には箱しかなかったけんど、それとは違いすごい建物ができたとびっくりした」と褒められた。社交辞令とはいえども、ほっとした。
昼に大学に戻る。昼食をとると寝そうなのでそのまま製図のエスキス。「ほれほれそろそろ形を作らないと終わらないぞ!!」とはっぱをかける。終わって駅で飯をしっかり食べ新幹線で爆睡。丸善で本を物色宅配。事務所へ。ユリイカコールハース特集が届いていた。ペラペラめくると著者は全員知った方たち。こういうことも珍しい。Wプロジェクトの打ち合わせ。台形敷地は天空率で高さを稼ぐのには不利であることがよく分かった。でも敢えて使うか、使わないか?2案作るしかないようだが。
午前中はゼミ。今年からA君の提案でゼミ前に5~6人ずつ「毎週の発見」というのをやっている。写真に発見をまとめプロジェクターで映し一人1分半話、2分意見。このくらいだと見せる方も意見する方も気楽。雑談のようで楽しい。午後来るべき研究生が来ないので日影図と睨めっこ。3時頃から小諸プロジェクトの打ち合わせ。2時間くらいべたーっと設計を悩もうと思っていたのに、調査分析資料のチェックをしていたら5時半。担当は他の研究室の学生なので力のほどが分からない。どの程度の指示をしたら何が出てくるのか?と思って1か月。なかなか思ったようにはいかない。しびれを切らした助教のHさんがだいぶ喝を入れてくれたのだが、喝でできるなら苦労しない。〆切も迫っているのでいいかどうか分からないが、目次とコンテを一緒に作る。まあこれでやらなきゃ選手交代だな。
夜は読みかけの本を読みながら事務所からのメールを待つ。明日甲府市役所に持っていく図面を見る。うー法的にはクリアできているのだろうがちょっと固い。Wプロジェクトの日影、天空を見る。厳しいけれどこれだから可能なかたちがありそうだ。なるほど、法律は必要悪ではない。スケッチを始めたら中国から日報の写真がメールされる。いやはやまだ塗装している。一体週末完成検査できる状態なの?とメールしたら即長文の返答がナカジから。すったもんだの中国現場の状況が手に取るように分かる。彼には文才がある。反論のしようもなく「行きます」と返答。製図の〆切が近いのか部屋の外がやたら騒がしく夜が更けるのを忘れスケッチ。おっと気づいたら明るい。まずい明日は市役所主催の景観賞ツアーの引率。これから寝て起きられるだろうか???
午前中研究室でゼミ本である大澤真幸の『電子メディア論』を再読。昼食後講義を挟みゼミ。話は結構込み入っている。マークポスターの『情報様式論』を手本に更に徹底した突っ込みでロジカルに組み上げられた本なのだがどうしても府に落ちない点がある。近代人が主体性を獲得するためには超越的選択においても主体がそれを支配せねばならないことを前提にしておきながら、それを哲学的な(カント的な)統覚に置き換えたところで、主体は二つの他者との弁証法的な関係の中で確立すると言い換える点である。超越的選択を主体が行うのであれば、超越的他者の他者性はあやふやなものになってしまうと僕は思うのだが?僕の読みが間違っているのか、それとも著者はそれを承知で作為的にこうした二重のロジックを並走させているのか???とりあえずその疑問は置いておいて、結論的な内容である電子メディア環境での主体の脆弱な基盤は果たして原理的なものなのか?過渡期の人間の不慣れによるものなのか僕にはまだよくわからない。子供を見ていると電子機器に向かう時と、アナログメディア(本)に向かう時ではどうも脳みそのチャンネルが切り替わっているように見えるからである。電子メディアを小学校から習う世代と言うものはもはやそれを生活の一つのツール(僕らにとっての電卓など)程度にしか思っていないように思えるのだが。
輪読の後即日設計。1時間半で住吉の長屋の敷地に僕の家を設計してもらった。なかなか面白い。またやろう。
夕食後、多木さんの本の最後の論考であるコールハースに関する部分を読む。いやー褒めてんだかけなしてんだか、勝手にしろと言う感じがよく出ている文章である。タイトルがいい「波を上手く捉えるサーファー レム・コールハースの疾走」である。読みながら事務所から送られる図面やら、日影チェックやら、天空率チェックに目を通す。うーんなんだか不思議なものばかり送られてくる。どうして?と口をつくのだが、、、、、ネットチェックはストレスがたまる。
朝、講義のホームページに書き込まれた小レポートを読む。今年はコメントが良い。良いのでコメントしコメントするから学生も応答する。良い循環である。今回の質問は建築家の観念は見る者に伝わるかというようなこと。昨日から読んでいた多木浩二『表象の多面体』青土社2009にそれにかかわる言及があった。それはキーファーの近作である「七つの天の宮殿」というコンクリートで作られた廃墟のような七つのタワーがコルビュジエのラトゥーレットから受けた感動をきっかけに生まれたという話である。ここでキーファーはコンクリートが砂という大地の象徴から生まれ、それを使ったコルは精神的空間を創りあげたと受け取っている。しかしそれはコルの意図をはるかに上回る解釈である。つまりこの話が示唆するところは、建築家の観念が見る者に正確に伝わるルートは残念ながら用意されていないということである。もちろん建築でなければ話は違う。たとえばこの本の後に出てくるマリオ・ジャコメッリの写真などは見る者の多くを悲しみや空虚の感情に導くだろう。そして写真家がそれを意識していただろうことはその写真の表題から想像される。こうした一致がありうるのはそれが写真であるということにも増してその対象が人であることに多く起因している。
午後A0勉強会。今日は担当者が荒訳を作って来なかったので、われわれの班はその場で訳を作るはめに。これは結構しんどい作業。1時から始め5時半でダウン。いつも頭を使ってないのだろうか?終わったらへとへとになった。家に帰ってソファに雑巾のようにもたれかかり動けなくなった。風呂に入ったら少し元気が出たのだが。上がろうと思ったら排水口が詰まっていることに気付く。よりによってこんな日に。近所の薬屋でパイプスルーを買い流し込んだが埒が明かない。管理人室でヴァキュームを借りて排水口に何度も押し当てやっと開通。必死だったせいか体に血が回り少し元気が回復した。明日にしようと思っていたが今晩長野に出かけることにする。車中多木さんの本の続きを読む。ジャコメッリの写真は実に魅力的である。この本には小さな写真しか載っていないのだがこの空虚感はたまらない。大きいのを見てみたい。
切通利作の『情緒論』の中で岡崎京子が語られている。懐かしくなり本棚の奥の方から数冊出してきてぺらぺらめくる。「岡崎京子の漫画は情景を人物の感情のクライマックスに対応させない」と書かれている。そう言えばそうかもしれない。登場人物の語りはあくまで単なる一つのストーリー。それとは違う何万通りもの世界がそこにはあるということがビジュアルで並行して表現されているようにも見えてくる。。それが――世界をそのまま見るということ――というこの本の副題にもつながっているのだろうか?
午後事務所で来週の建築ラジオで語る内容を考える。以前買って積んでおいたAnthony Vidler ed. `Architecture between spectacle and use` Clark Art Institute 2008 に目を通した。ラジオのテーマはコールハースだが、コールハースの何を語ってももう語り尽くされている感がある。こうなったら正攻法である。コールハースのスペクタクルをどう考えるか?この本の序文でヴィドラーはギードボールによるスペクタクルの定義‘capital accumulated to the point where it becomes image`を反転し、‘image accumulated to the point where it becomes capital`とし、今や多くの建築家にこの言葉があてはまると言うわけである。もちろんその中にコールハースもいる。さて金融資本が世界を瞬時に駆け巡る21世紀のグローバル資本主義が躓きを見せた昨今、世界のスペクタクル建築はどうなるのだろうか?資本主義シニシズムと言われるコールハースの建築あるいはもっと一般的にスペクタクル建築家は何を求めてさまようのか考えてみるのも悪くない。因みにこんなテーマの本が出たのは、ハル・フォスターがビルバオを批判したことに端を発しているそうだ。
一段落して甲府プロジェクトの打ち合わせ。先に模型でイメージを作りそれを図面化。当然だが模型はいい加減に作っているから面積が合わない。2割オーバー。棟数が多いので担当者も悪戦苦闘である。
午前中早稲田の講義。終わって早稲田界隈の不動産屋を覗く。このあたりの家賃相場調査。ワンルームマンションの最低面積はいかに?10.96㎡で6.8万なんてのがある。早稲田プロジェクトは学生用のワンルーム集住なのだがいかに小さな部屋に人間は住めるかがテーマである。事務所に戻りそんな手を伸ばせば両側の壁に手が届きそうなウナギの寝床のスケッチを開始。間口寸法はどこまで小さくしてよいのだろうか?考えていてもらちがあかない。それはもはや建築学の問題ではない。心理学の問題である。