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Sep 2009

1万冊

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by 卓 坂牛

午前中長野市景観賞のバスツアーガイド。年に3回のご奉公。今日は屋根がきれいな建物を見ましょうというテーマで5つほど過去の景観賞から選んでそれらを見て回る。写真で選んで見に行ったが、当たりもあればはずれもある。終わって大学で雑用をこなし東京へ。車中、飯尾潤『日本の統治構造』中公新書2007を読む。大統領制より、議院内閣制の方が原理的には権力集中するものであることを知る。よく考えれば確かにそうだ。しかるに、それがそうならない日本の政治は原理とは裏腹に様々な阻害要因が紛れ込んでいるからだとか。全くその通り。民主政権はその阻害要因を払拭できるだろうか?期待したい。丸善で本を物色宅配。竹内薫の『竹内流の「書く、話す」知的アウトプット術』実務教育出版2009だけ持って帰る。地下鉄でペラペラめくると第一章が「一万冊読んできた私と本のつき合い方」。彼は僕の高校の一つ後輩だから49歳。生まれた時から読み始めたとしても1年間に200冊以上読んでいる計算である。その本どこに置いているのだろうか?事務所に戻り明日の打ち合わせの内容確認などなど打ち合わせ。

スピバック的

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by 卓 坂牛

午前中甲府で打ち合わせ。政権交代の影響が見え隠れする。役所側の対応が鈍くなっているようである。それとは別にクライアントの検討依頼は尽きない。これだけ可能性を考えられるクライアントも珍しい。昼を一緒にとりクライアントは大学の講義に、スタッフのOさんは東京へ、私は小諸へ向かう。甲府から小諸は小淵沢乗り換えで小海線が最短だし運賃も安いのだが、いやすっかり乗り過ごしてしまった。松本回りで篠ノ井から「しなの鉄道」に乗る。車中スピヴァック(Spivak, G.C.)鈴木聡 他 訳『文化としての他者』紀伊国屋書店(1987)2000を読む。電車の中で片手間に読めるような本でもないので面白そうな数編と訳者あとがきを読む。「(スピヴァック)にできることといえばただ、あらゆる超越的、普遍的な理念から等しく距離をとることだけ・・・・・マルクス主義、フェミニズム、脱構築主義、ニュー・ヒストリシズム、サバルタン・スタディーズ、といった方法論や学問的規律に関しても、スピヴァックはそのいずれかに与することはしない」という言葉がこの面倒くさい本の内容に何となく筋道を与えてくれる。ポスコロの教科書と言われる本書だが、最近僕は外国に行き異文化に触れるとこういう気持ちに素直になれる。日本というメジャーであり辺境でもある島の文化を超越的にわが身に内在させるのだけはやめようと思うようになってきた。というより自然にそう考えるようになった。まあそれは日本国内でもそうである。小諸で夜から某プロジェクトのプレゼン。終わって助教のHさんの車で大学に戻る。学生と八潮の打ち合わせ。しち面倒臭い出張書類を入力していたら1時になった。

本いろいろ

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by 卓 坂牛

一日事務所。そう言えば買って放っておいた本があった。ノルウエィのユニットスノヘッタの作品集である。アレクサンドリア図書館のコンペを勝ち取ったチームである。図書館は円盤を斜めにしたようなデザインで印象深かったが、ほかの案も結構似ている。地面を斜めにめくったり傾けたりするのが好きなようだ。ちょっと乱暴な気もするが、スケール次第だろう。本物が見てみたい。スノヘッタを見たら、やはり先日送られてきた岡田哲史さんの作品集が気になる。封を開けて時間がなくじっくり見ようとやはり放っておいた。何といってもエレクタから出ているし、序文はダルコだし、さすがイタリア研究家は違う。岡田さんは学生時代のコンペ荒らしのころから知っているし、その頃からずっと感じているけれど形を作るセンスが図抜けている。で、そういう人はだんだん年をとるとそのセンスだけで作っちゃうのだけれど彼は違う。理屈がとんでもなく面倒くさい、そして構造が絶妙(彼の構造は日建同期の陶器がやっているのだが彼が半端じゃない)。つまり彼は作ろうと思えば感性でさっさとできちゃうんだろうけれど、それをやらないために、理屈こねて、構造考えるわけだ。と思って日本語に訳されたダルコの序文を読んだらそんなことが書いてあった。あら、岡田さんのことよく分かっているもんだとびっくりした。夕方本屋さんがやってきた。ケレツがエルクロになっている。こういうビジュアル受けする作り方は雑誌にしやすいなあ。彼はもともと写真家だからフォトジェニックな作り方を本能的にできるのかもしれない。A+Tから高密度集合住宅のデーターブックが出ている。この本近年まれに見るよくできた使える本だ。もちろん英語だけれどグラフィックがとてもいいのでデーター比較が一目瞭然である。どこかの大学で取りまとめたような感がある。集合住宅を卒制でやる学生必携。

アデニア

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by 卓 坂牛

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かみさんと娘に連れられ表参道に。遅めの朝食を食べ娘は洋服屋に我々は神宮前の裏の住宅地を歩いてワタリウムに。ワタリウムでルイス・バラガンの展覧会を覗き、隣の植物屋「フーガ」に行く。このお店は珍しい植物や樹形の不思議なものが多い。加えて花器がとてもよい。今回はお気に入りのオレンジ色のガラス花器に合う植物を探しにきた。オレンジ色の縦横高さが13センチくらいのガラスの器はベルギー製で前回このフーガで見つけたもの。中の植物はとても不思議な形をしていて大事に育てていたのだが、残念ながら、半年前に勢いが無くなって最近枯れてしまった。今日は漢字のような不思議な形をした高さ20センチくらいの植物を発見した。名前はアデニア。中東やアフリカあたり原産の植物らしい。乾燥地帯特有のオリーブのような少し白っぽい葉である。

街の雰囲気

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by 卓 坂牛

A0勉強会。やっとエピローグの2度目の読み直しが終わりそう(あと1paragraph)これが終わってももう一章担当がある。これが結構長いのだ。いつ終わることやら。来年の春頃だろうか??
勉強会を終えてA0の皆にアルゼンチンのスライドをお見せする。別に見せるように整理したり地図を付けたりしたのではなく、ただ単に撮った写真を時系列に並べただけ。僕も初めて見る。アルゼンチンには世界に知られた名建築があるわけでもないから(と言って建築の質が低いと言うことではない)街の雰囲気を見せる。そして昔の記憶をたどりながらこの町に似た雰囲気があるとすればパリかバルセロナだろうと話すのだが心もとない。僕のスライドの後にA君が最近ハネムーンで行ってきたスペインのスライドを披露。こうして並べてみるとよく分かったが、ブエノスアイレスとバルセロナなんて全然似てない。いやもちろん似ているところはあるのだが、ブエノスアイレスにはバルセロナのような古さの汚れが無くとてもクリーン(よい意味とは限らないが)。次にブエノスアイレスにはバルセロナのような濃厚な色がなく白い。淡白である。最後に様式に関して言えば、古さが違う。下手すれば500年くらいの差が軽くあるから既に様式が違う場合もあるし、仮に同じ様式でも。密度が違うという感じ(これははなはだ直観的なことなのだが)。総じてエスプレッソなバルセロナに対して、ブエノスアイレスはアメリカンである。しかし面白いのはバルセロナもブエノスアイレスも100メートルくらいの正方形グリッドの街である。街区の大きさは街のスケールを作る。アメリカはニューヨーク(300メートル弱バツ50メートル)でもフィラデルフィア(100メートル強×30メートル)でもきれいなグリッドだが長方形グリッドである。都市計画の本を見れば名古屋城下町も50間方形街ほぼ100メートルと近いものがある。もちろんスケール感は平面に加え高さもあるので街区の大きさが同じだから同じ性格の街とは言えないのだが。

科学哲学

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by 卓 坂牛

午前中松本に向かう。姨捨の駅から見える風景はいつ見ても壮大。眼下に広がる町の中に北河原さんの黄金色の建物が見える。松本の会議に出てアズサで東京に戻る。戸田山和久『科学哲学の冒険』日本放送出版協会2005を読む。そもそも科学と言うのは一つの社会現象だと言う考え方が面白い。確かに宗教というものが一つの社会現象であるのと同じくらい科学と言うのも一つの社会現象である。何か科学は必然的にこの世の中にあり宗教というものは偶然この世の中に現われてきたものと感じるがそれは科学優勢の現代にたまたま生まれてきたから感じることなのであろう。だから科学とは一体どのようなものか?という問いは宗教とは一体何なのかと同じように神秘に満ちた問いなのだろう。妙に納得。さらに帰納と演繹について書かれたところを読み目から鱗。両方とも異なる証明の方法くらいにしか思っていなかったが、帰納は演繹に比べて確かさが低い。よく考えれば確かにそうなのだがそんなことは今まで気にも留めていなかった。などなど、面白いことがいろいろ書かれている。事務所に戻り多量のメールに多量の返事を書く。電子辞書の電源が切れた。昨今の電子辞書は電気を異様に消費する。

長野も残暑

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by 卓 坂牛

昨晩長野に行けずに今朝早朝のアサマで大学へ。未だ長野も結構暑い。久しぶりのゼミ。一人30分で10人5時間。だいぶ間が空いたので前回までの流れを反芻しながら聞かせてもらう。なるほどうまく進んだなと思うものあり、遅々としているもの、ちょっと違う方向に行っちゃったもの。いろいろである。舵取りをしながら10人の話を聞く。終わってから八潮プロジェクトの打ち合わせ。時間切れで市役所へ。6時から市民会館建設委員会。行ってみると席がない。「あれ?先生は欠席予定でしたよ」と言われる。3つの委員会に毎度郵送で出欠の返事をしているのだが、1か月前くらいに聞かれているので、その間にスケジュールが変わることもある。急遽席を作っていただく。委員の方々は新しい市民会館を芸術文化の新たな拠点とすることに並々ならぬ熱意がある。皆活発に意見を述べられている。一方役所側は新たな何かではなく、現在ある市民会館の維持という認識(に聞こえる)。というのも彼らにとって重要なのは市民会館よりもむしろその跡地。それは市役所の建て替え用地なのである。そのあたりで議論がいつも振り出しに戻る。市民会館のコンセプトは何なのか?一気にたくさんのことをしようとすればすべてに力を注ぐのには無理が出る(ように見える)。終わって研究室に戻り雑用。

2通のメール

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by 卓 坂牛

午前中、アルゼンチンから2通のメール。一通は建築家協会の会長であるシルベルファデンから。講演会へのお礼であった。むこうでは彼が忙しくあまり話もできなかったのでこうしてメールで交信できてよかった。もう一通はブエノスアイレス大学の講師で建築家協会の理事であるロベルトから。人づてに渡してもらうように頼んだ坂倉順三展のカタログへのお礼である。ロベルトは大学の授業で日本の現代住宅の分析をするとのことなので、それではその出発点ともいえる坂倉の住宅を勉強してくださいというつもりでおいてきた。こんな名前は知らないだろうと思いきや知っていると書いてあるのには驚いた。
まだ時差ぼけか?猪木武徳『戦後世界経済史』中公新書2009を読みながら午睡。これを読んでいてもラティンアメリカは気になってしまう。経済を作るのは人であると最初に書かれている。人とはすなわち教育だと。日本の教育も曲がり角に思える。政権交代とともにドラスティックに刷新されることを祈るのだが。

持続可能な社会

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by 卓 坂牛

広井良典『持続可能な福祉社会』ちくま新書2006を読んだ。先日同著者の『グローバル定常型社会』が面白かったので買っておいたもの。内容は共通するところが多く、日本の目指すべき社会として,二つ挙げる。一つは成長を抑制し、その分の時間をコミュニティ、自然維持などに費やす社会。二つ目はフローが再配分され、スタートラインの平等(教育)及び人生後半の社会保障としての基礎収入が確保された社会である。
こういう姿の国としては理想的には北欧、フィンランドのような国が思い浮かぶ。しかしフィンランドはNokiaの圧倒的な外貨獲得力に負っていると前著には書いてあった。巨大優良企業が無いことを前提とした自給型定常型社会をイメージするならもう少し違う国がお手本として必要かもしれない。
アルゼンチンはだめだろうか?教育のスタートラインを平等にするために教育費は0。仕事は6時ころには終え、自然を楽しむ。まあ実は技術革新に乗り遅れ、農業だけやっていたがために、無意識的に非成長型社会になってしまったのだであり、税金は21%。教育費は0でもその他の福祉が上手くいっているとは聞かない。エコロジーとは程遠い黒煙をまき散らすバス。ゴミの分別などまだ先の先。その他にも無防備に入り込む不法入国者によるスラム街。貧富の差。などなど。それらの社会問題はとても日本の比ではないと向こうの国の人は言う。そうかもしれない。しかし定常型を目指し地産地消的な国を目指すなら、見習うところも多々あるように思う。

街のスケール

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by 卓 坂牛

東京に着いて街を見渡すときれいで軽いという印象である。ヨーロッパから帰っても同じような印象。これは東京の特徴なのだろう。
向こうでの時差ボケも帰る頃には治る。だから残念ながら帰るとしっかりまた時差ボケである。日本アルゼンチンはまさにantipodasなので12時間の時差。昼の2時ころになると眠くなるし夜の3時ころには目が覚める。2時ころ眠い目をこすりながら事務所に行く。不在中のの報告を聞く。適宜メールで情報をもらっているので大体のことはわかっているのだが、会って話すとまたちがう情報があるものだ。アルゼンチンから戻り事務所で中国の話を聞くとどうもそのスケール感が飛躍しすぎて混乱する。ブエノスアイレスは徹底して100メートルグリッド街区だったのだが、、