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Sep 2009

東京へ

On
by 卓 坂牛

機内で映画を二本見た。最初はエディー・マーフィー主演のImagine that。マーフィー扮する証券会社の一流ビジネスマンが投資の指針を霊と話せる娘から得るという話。二つ目はSoloistというチェロの才能にたけたホームレスの話。LAタイムズの記者が彼を発見して記事にすると多くの読者の共感を得て記者はそのコラムで賞を獲得。ホームレスは社会の表舞台に引っ張り出されて混乱するのだが、単なる取材対象だったホームレスは最後には真の友人となるという話。現代社会に輻輳する複数の世界の葛藤やら矛盾やらが描かれている。手法としては当たり前だし、そんなことはどこに行ってもある。それは日本にもあるしアルゼンチンにもある。コロン劇場の改修が10年たっても終わらなかったり、大学の教員の8割が無給だったり、金欠の結果がこうなるかと驚く。一方で、金が無くても広大な公園は美しく保たれ、大学の授業料は低(国立は無料)く、食費も安く、莫大なエネルーギー(石油)が眠っている。この輻輳さが地球の裏側から来たものにはとても強烈に印象付けられた。金がないけれど引かないところは引かないと言う頑固さなのか、本気を出せばいくらでも金は作れると言う余裕なのかは知らないが。
戦後日本は勤勉を売り物にしてきた。僕がアメリカ留学中、日本人の特徴と言えばindustriousと一言で言われた。ラテンの国民性はこの対局をいくようによく言われる。Indusrious自体を悪いことだとは言わない。しかし勤勉は時として価値観の統制に繋がる。グループ作業での勤勉は特にそれを必要とする。サッカーで言えばアルゼンチンのそれはブラジルほどではないが、やはりスタープレーヤーのエゴが目立つ。組織のために自分を殺しはしない。現在のナショナルチームの低迷はそこに原因があり、特に自らがそうだったマラドーナが指揮をとるからますますそうなるとブエノスの人たちは言う。理性に統御された組織か?感性に導かれた個人か?どちらにも軍配は上がらないだろうが、日本はもう少し感覚的に自由になっていいと感じる旅だった。

Hasta pronto

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by 卓 坂牛

散らかした荷物をパッキング。持ってきた結構たくさんの写真やら本やらは皆人にあげたのだが。その分たくさんの本やら資料やらをいただいた。差し引き0と言いたいところだがどうも帰りの方が多い。小さなカバンがはち切れそうである。ホテルをチェックアウトして荷物を預け、残り少ない時間で建築家協会の本屋、テスタの銀行とマルバ美術館を見に出かける。
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テスタの銀行
本屋にはアルゼンチン建築史の分厚い本があったのだが、すべてスペイン語だし、重そうなのであきらめて、アルゼンチンの新建築のような雑誌を一冊だけ買う。銀行は迫力。テスタは国立図書館の設計者でもあるが、銀行も同様ブルータリズムである。
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マルバ美術館
マルバ美術館は石とガラスのコンテンポラリーなデザイン。ラテンアメリカのモダニズム以降の歴史的展示がされていた。当り前だろうけれど、ラテンアメリカが一つの文化的なまとまりを持っていることを感じさせる。少々買い物をして急いでホテルに戻る。
リカルドがホテルに来てくれた。借りていた携帯電話を返して、お土産を頂き最後のお別れ。一週間とってもお世話になった。昨晩は真剣に数時間建築論をしたし、今後の大学間の交流の可能性についてもお話しできた。アルゼンチンは物価も安いし、家賃も月4万円位。学費は私立でも日本の国立大学より安い。その上ヨーロッパからの留学生が結構多いし建築の質も高い。日本にはそれほど宣伝されていないがかなりのポテンシャルがある。井の中の蛙である日本の学生が自分の考えを相対化するには格好の場である。言葉の問題があるが、英語がしっかりできれば建築ならなんとかなるだろうとリカルドは言う。最後はアルゼンチン式に頬を擦り寄せ再会を誓う(hasta pronto)。
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来たときは古いターミナル。帰りは新ターミナル。
結局荷物は3つに増えその上どれもぱんぱん。空港はひどい混雑。結構チェックがうるさくて僕の荷物を開けて見せろと言う。中身を全部出して放り投げたら係官が「怒っているの?」と聞くので「腹減ってるの」と答えると「まあまあ」となだめられる。10時間飛んでワシントンDCへ。

Casa Curutchet

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by 卓 坂牛

今日は喜納さんの案内でブエノスアイレスの南60キロにあるLa Plataへ向かう。ブエノスアイレスの市境を出るとそこはパンパ(壮大な草原)である。40分くらいで到着。ここはブエノスアイレスの州都。ブエノスアイレスへの一極集中をさけるために19世紀末に計画された都市。この都市の計画者のベノイトがフリーメーソンであることから、フリーメーソンのシンボルを模して正方形の街に縦横のグリッドと45度ふられた斜めの道が大きく十字に入れられた(コルビュジエのボワザン計画のようである)。
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Le Corbusier Casa Curutchet La Plata 1955
ここにル・コルビュジエのデザインしたクルチェット邸がある。市の南端の広場に面して建つこの建物は1955年に完成。戦後のコルビュジエの住宅にこういう白い繊細なものがあったとは知らなかった。今はラプラタの建築家協会が管理し見学できるようになっている。今日は地元の建築学生300人が順番に見に来ておりラッシュである。
建物は地下の受水槽から始まりすべての個所が見られる上に、長い間空家(医者であるクルチェット氏の奥さんがこの家を嫌い住まなかったそうだ)になっていたにもかかわらず保存状態がかなりいい。外部に面するところを含めてすべて木のサッシュ、外部のスロープに設置された木の握り棒、室内だが吹き抜けに面する寝室に付けられた可動ルーバーなどがほとんどオリジナルの状態を維持している。アメリカ大陸にもう一つあるコルの建物であるカーペンターセンター(1952)のブリーズ・ソレイユ、細い丸柱、開放感などがここに現われている。
じっくりと2時間ほど見ることができた。伊東豊雄さんも2度ほど来られたと聞いておりどうしてだろうかと思っていたのが、来てみるとまた来たくなる気持ちが理解できた。僕もまた来たい。4時に展覧会場にもどりケーブルテレビのインタビュー。ラプラタからの帰りが渋滞、4時ぎりぎりに滑り込む。テレビ局のクルー2人と館長のビスマンが待っていた。Zona comunicacionというカルチャー専門のチャンネルだそうだ。インタビュアーがスペイン語で質問し、喜納さんがそれを日本語に訳し、答えは英語でお願いしたいと言われる。日本語の部分はカットするとのこと。この展覧会での日本建築のキュレーションの正当性、などなど20分くらいのやりとりをした。まあカットされると3分くらいになるのだろうが。
終わってからビスマンとカフェに行く。どうしてこの展覧会のタイトルをantipodasとしたのかを初めて聞いた。これは文学作品からとったタイトルで、Alessandro Baricco のSilk(イタリアの商人が日本から絹を持ち帰る話らしいが)にこの言葉が使われていたので借用したとか、英語版があればぜひ読めと言われ、さらにブエノスアイレスを理解するための一冊を紹介された。それは Juan Jose SaerによるEl Rio Sin Orillaという本。英語訳があるはずだという。直訳すれば縁の無い川となるが、つまり対岸の見えないラプラタ川に思いを馳せたアルゼンチン人の幻が描かれていると言う。
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大雨のパレルモ(カメラが濡れる)
その後車でボルヘスの育った町パレルモを案内してもらう。ここは黄熱病の流行で多くの人が亡くなり廃墟化した後、30年前にアーテイストが住み始めたところ。そこへ、ファッション飲食が集まってきて市民の散歩、ウィンドウショッピングの場となったそうだ。
一昨日のSCAでの講演はすでにSCAのホームページ上にアップされたそうだ。素早い。
http://www.socearq.org/index.php/actividades/debates/desde-japon-taku-sakaushi-en-la-sca.html

フリーな一日

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by 卓 坂牛

やっとフリーな1日。今日は町の骨格を見たく、南へ向かう。先日のベルグラーノ大学の課題がそうだったように、この町は南北が不連続。唯一南北に走る地下鉄の終点で降りる。ここは地上鉄道の始発駅でもある。地下鉄を上がるとヨーロッパ風の壮大な鉄道駅に出る。フィラデルフィアのように巨大。しかしそこから一歩外に出ると、突如町が荒廃した感じである。タクシーでカニミートという大西洋の入り込んだ小さな漁港の町に辿り着く。ボカジュニアーズの本拠地もここにある。ボカは漁港の労働者が作ったチームだそうだ。この比較的荒れた(と言えば言い過ぎだろうが)ダウンタウンにスタジアムは建っている。タクシーの運ちゃんが分らぬスペイン語で何か叫びながら何度もスタジアムを誇らしげに指さしている。カニミートにはアルゼンチンの代表的画家キンケラ・マルティンがカラフルに仕上げた町。町にはキンケラにあやかった画家が絵を売っている。モンマルトルのようであるが、彩度の強い色は南である。
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カニミートにいたキュートな子供たち
昼を食べて市内を巡回する二階建てバスに乗る。24時間以内ならいくら乗っても600円。一気に北へ向かう。町が徐々に整備されていくのがよく分かる。海に面して新しく埋め立てられてできたお台場のような島に入ると超高層が林立している。
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ブエノスアイレスの超高層
かなり意識的に街区に対して45度振って建てている。当たり前の手法だが効果的。カルトラバの橋を横に見ながら西に向かう。
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カルトラバっていくつ橋作っているのだろうか?
セントラルパークの4倍ある(と聞いた)公園を横に見る。これだけ大きい公園を維持するのはかなり大変だろうが金が無くても、国の借金を返さなくても、こういうことをやる所がラテンのおおらかさだ。バスは再び南に向かう。途中で降りて、パレルモ地区に行くべく地下鉄に乗ろうと駅で待っていたが、人もいなけりゃ電車も来ない。すると駅の係員がやってきてなんだか言っている。どうも電車は来ないぞと言っているように感ずる。すごすごと改札を逆戻りする。どうもストのようである。喜納さんの話ではこの国ではデモやら、ストは当たり前。デモで道路を封鎖しても警官は排除さえしないそうだ。仕方ないので進路変更してサン・テルモという昔の面影が色濃く残る街並みに向かう。ボカ地区同様北のヨーロッパ的な小奇麗な街と対照的に泥臭い(メキシコのような)低層の町である。現在では骨董屋が数百と立ち並ぶ。パンパの民芸を現代的にアレンジした店を覗く。このあたりは観光客も多いせいか兄ちゃんは英語がよく話せる。僕が東京から来たと知ると、トヨタカップ常連のボカジュニアの話をし始めた。今日はボカの大事な試合があると言う。今晩見に行くと言うと羨ましがられた。
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サンテルモの市場食料品と骨董店が同じくらいずつ並んでいる
6時ごろ、ぎりぎりホテルでバスに乗り込む。今日の試合はてっきりさっき見たボカスタジアムでやるのだとばかり思っていたのだがアウェイである。相手はベレス。ブエノスアイレスの西の方に向かっているのだが、結構遠い。いろいろ客をピックアップして着いたら8時半。バスの兄ちゃんがくれぐれもスタジアムで写真を撮るなという。べレスの本拠地だから荒れるのでカメラは危険だと言う。
この試合は「ニッサン南米チャンピオンシップ」と言う。最近はスポーツの試合を宣伝用にスポンサーするのが常識だろうが、ここまで来てニッサンに会うとは思わなかった。巨大スクリーンからは何と大音量で日本語の宣伝が流れている。日系人がいるからか?
サッカースタイルは実に日本に似ている(ような気がする)。試合前の応援合戦は激しいが最近ではJリーグも負けてない。ゴール裏の公式サポーター以外も殆どの客はベレスのサポーターであり、年季の入った酔っぱらい労働者たち。ボカは港湾労働者に支持されているというがベレスも負けてはいない。僕らの席は放送席前のかなりいいところだが周囲はこの過激な親父たちが飛び跳ねるは叫ぶは歌うはの大騒ぎである。入る時にボディーチェックはされるしペットボトルは没収されるのに当然のようにサポーターたちからはテープの嵐、発煙筒、花火である。どうやって持って入ってくるのだろうか?サッカーよりも彼らに圧倒された。恐ろしくてひたすらベレスの勝利を祈っていたら見事1-0でベレスが勝った。
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試合前の興奮
アルゼンチンと言えばサッカーだがこれはどうも下層階級の楽しみのようである。上流階層はポロや競馬。これらの競技場はブエノスアイレスでも北のいいところにあるし。

SCAでの講演会

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by 卓 坂牛

昨日のパーティーで紹介されたビエルガルドさんが午前中自宅に招待してくれた。広大な敷地に福井県から移築した民家を建て全体を吉村順三事務所が再設計したそうだ。内部は人間国宝級の陶器から工芸品にいたるまで所狭しと並んでいる。聞けば日本のとんでもない有名人が多数来られている。バーンズコレクションなどを日本で見てもたいていその蒐集家など気にも留めない。けれど実際にそういう人を目の当たりにするとちょっと圧倒される。夫婦そろって日本語、英語ぺらぺら、麻布に数10年滞在し葉山に別荘があったとか?いったい何している人なの??
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ブエノスアイレス大学建築学部のアトリウム
Minkaを後にしてそこで合流したブエノスアイレス大学の講師であるロベルト・ブスネリが僕をブエノススアイレス大学の建築・デザイン・アーバニズム学部に連れて行ってくれた。巨大なコンクリートの建物に、巨大な吹き抜け。学生のびらやポスターがいたる所に貼られている。学生の自治選挙まっ最中。
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ブエノスアイレス大学建築学部の模型保管室
ここには昨日展示されていた学生模型のすべてが保管展示されている。毎年4年生がつくる名建築の模型。20年分、500個くらいはある。コルビュジエ、ライト、カーン、ノイトラ、、、、そして今年は現代日本住宅建築がテーマ。前期に作られたものが展覧会におかれているが後期では僕の「山」も対象だそうだ。どうしてこんなこと始めたのか聞くと、留学先のコロンビアでフランプトンにこういうものは保存しておけと言われたそうだ。ランチは近くのサンドイッチ屋へ。サンドイッチと言ってもでかいステーキを炭火で焼きそれをパンにはさむ。ラプラタ河畔の公園脇、空は快晴、空気は爽やか(ちなみにブエノス・アイレスとはgood airである)。レストランのロゴplaya(ビーチ)を見ると、まるでサンタモニカあたりにいるような気分である。
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国立図書館:エスタ
ホテルに戻り、夜のレクチャーまで市内を散策。テスタ(アルゼンチンの巨匠のひとり)国立図書館の巨大キャンチレバーのブルータリズムを見てから様式風の装飾博物館でコルビュジエ展を見る。タクシーでランダムな壁、階段のxul美術館へ。やっと少し市内の地理がわかりだした。戻ってジェットバスの風呂に浸かっていたら、今晩のレクチャーの待ち合わせ時間の6時を過ぎている。アルゼンチンタイムだ。
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SCAでの講演会
建築家協会は古い建物の改修。こういう場合たいてい壁はレンガか白く塗られ、天井はrcスラブむき出しである。オーディーはエントランスホールと連続し、素敵なスペースである。三々五々人が集まっている。通訳が結局マルタだと分り、お互いあやふやな英語でどこまで通じるのか不安。全部日本語で話そうかとも思ったが(日本語通訳もいるので)聴衆の半分は英語を理解できるということなのでやはり英語で行う。7時に初めて1時間半。何度もマルタに聞き返されながら、やっと終わらせた。最初に建築のライブ性についてかたり、だから建築をつくるのではなく、フレームをつくるのだという日常建築についておぼろげに感じていることを話す。そして展示されている作品の説明。住宅。上海の工場。駆け足で終わらせた。会場には遅れてきた人の立ち見も含めて200人くらいの人で盛況でだった地球の裏側からやってきた見も知らぬ人間の講演にこれだけの人が集まるというのはちょっと驚きである。ありがたいこった。
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北千住の居酒屋のようなピザ屋、サッカーのポスターが所狭しと貼られている。最近この国でサッカーの話はタブー。テニスの話をすると皆喜ぶ
終了後ロベルトお勧めの1937年にできたピザ屋へ。日本でいえば北千住あたりの居酒屋と同じ。聴衆の反応をロベルトに聞くと、最初のコンセプトあるいは原理とそれを現実化していく過程にみな興味を持ったと言う。とは言うもののこんなメディア論的なことそれ自体に興味があるのだろうか??UBAの教授たちは僕のスケッチやドローイングを褒めていたのもそう感じる原因だが、思い出してみるとベルグラーノ大学もブエノスアイレス大学もそれぞれの建築学部の内容は日本でいえば美術学部である。絵画、グラフィック、インダストリアルデザイン、ファッションなどの学科が建築学部のなかにあるのだ(ファッションがあるっていい)。彼らにとって建築はコンセプトや原理、まして社会構築的な視点などより、やはりもっと視覚的な何かなのでは??

アルゼンチンの学生、先生、建築家と話す

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by 卓 坂牛

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エスキス室での学生とエスキス中の1/500模型(彼らの模型はだいたいがカードボードでできている)
ブエノスアイレスには建築を教える大学が国立のブエノスアイレス大学と私立のベルグラーノ大学があるようである(まだあるかもしれないが)。午前中このベルグラーノ大学に向行き、3年生の課題を見せてもらう。一学年60人の学生を3チームに分け、それぞれを2人のスタッフで指導している。大学には製図室はなく、エスキスをするワークショップルームだけがある。課題はブエノスアイレスの南北を結ぶ結節点の再開発である。前期に都市計画的な現地調査と街区割、そしてヴォリューム配置、機能配置を行う。後期はその中に建てるスカイスクレーパーの機能プログラム作りとデザインを行うもの。こういう再開発が課題のテーマとして選ばれるところが、今の日本とはかなり違う。デザインの傾向はかなり雑誌情報に左右されているのだろうか?スペイン語圏ということもあり、エル・クロは彼らの重要な教科書のようである。
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エントランスに貼られた後援会のポスター
30分ほど課題を見せてもらい、学生と対話しその後、講演を行う。100人入るレクチャールームで1時間半ほど。するが幼稚園、大小の窓、角窓の家、リーテム東京工場の4つ。みな熱心に聞いていた。終了後に多数の質問がでるかとも思ったが、質問したのは教授陣だけ。比較的静かな学生だと思いきや、自分の作品を持ってきて、サジェスチョンを欲しいと食い下がる学生がいたのはさもありなんである。
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建築学部長とデザインの教授
終了後建築学部長を囲んで昼食。話はリサイクル、サスティナブルに及び、アルゼンチンはまだ段ボールの再利用くらいだと嘆きつつも、サスティナブル以前にやることがたくさんあると言っていた。
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建築博物館外観
夕方建築博物館でのオープニングカクテルパーティに招かれる。この建物が素敵である。その昔暖房スチーム用のタンクとスチーム機械を入れておいた建物をSCA(日本でいえば建築学会のようなものらしい)が買い取り改修したものである。鉄骨造レンガ壁(こちらでは標準の施工法だそうだ。中国ではコンクリートラーメンレンガ壁が標準だったが、所変われば基準も変わる)。
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できたてのフライヤー
会場には新たに作られたとてもいかしたフライヤーが置かれていた。そして1~2階には日本建築の模型(丹下さんからsannaまで、とにかくよく作られている。ブエノスアイレス・大学で作られたそうだ)3階はブエノスアイレス大学の演習で行われた世界の建築研究日本編。去年の成果だそうで、日本の住宅がテーマ。アトリエワン、千葉さん、そのほかたくさんの建築家の作品がある。そして4階が日本の現代建築というテーマでプロジェクターで2~30の作品がエンドレスで映し出されている。スクリーンが大きくてとても印象的である。この映像に我々の作品も映し出されていた。
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スピーチが始り訪れた人が1階に集まる
200人近い人が訪れていたと思われる。平日の夕方にこれだけの建築家を集めるのだから日本建築はけっこうすごい。スピーチを頼まれ、少々話す。昼のレクチャーと異なり、相手は全員建築家。久しぶりにちょっと緊張。

ブエノス・アイレスの街並み

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by 卓 坂牛

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エセイサ空港に9時半に到着。アメリカとはうって変わって入国はスムース。迎えに来てくれた喜納リカルドさんとすぐに会えてホテルへ。時差をうまく解消できなかったせいで体が浮いているような感じである。その上乾燥した飛行機に24時間缶詰にされていたために喉がひりひりする。
ブエノス・アイレスの街並みはパリのようでもありバルセロナのようでもある。しかし少し違うのは新旧がごっちゃ混ぜになりながら壁を共有して建っている点。喜納さんの説明だと、共有する壁は30センチと決まっていてそれぞれが15センチずつの持ち分。もし隣に建物がない場合は30センチの壁で建てておいて、以後に新しく隣接して建てる建物は、その壁をはつって自らの構造体をその中に15センチ分埋め込むのだそうだ。この新旧あるいは玉石混淆の建て方は独特の街のイメージを作っているように思える。
今日やっと開幕の準備が整った展覧会場を覗きホテルに戻る。3時に部屋に入れると言っていたのにしばらく待たされた。そしたら、申し訳ないのでと言ってペントハウスの部屋にアップグレードしてくれた。なんとメゾネット。のどの痛みがひどかったが、イソジンでうがいをしていたら少し良くなる。風邪薬を飲んで洗濯してベッドにもぐりこむ。
夜はタンゴショー。典型的なツーリストプレースである。タンゴもすごいが、ガウチョ(アルゼンチンの牧童)の踊りが迫力である。ラテンアメリカの原住民はもともとアジアからやってきたわけで、顔つきは日本人によく似ている人も多い。

DC出発

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by 卓 坂牛

アメリカも変わった。ダレス空港の入国審査に並ぶ長蛇の列には東欧、ロシアの人間が多くなった。やっと入った空港ターミナルもすごい人。まるで日本のターミナル駅さながら。新宿か?飲食店はすべて満員。床で寝る奴もいれば座り込んでコンピュータのノート開く奴もいる。特にコンセント周りは人気である。天井にぶら下がるモニターからはさまざまなインフォメーションが英語とスペイン語で流れている。ヒスパニックの多いLAなら普通だが、(映画館ではスペイン語吹き替え英語字幕なんてのさえあったくらいである)ここは首都である。ちょっと驚きだ。確かに聞き耳をたてるとスペイン語と思しき音がここかしこに聞こえる。空いた椅子をやっと見つけてコーヒー片手にノートを開くとattの無線を傍受。6ドルで2時間のネット接続。けちだねえ!!成田でnttがこんなサービスしたら不満の声が上がるに決まっている。それはnttが公社だったから。アメリカは昔から電話は民間だから文句が出にくい。バッテリーの電池が残っている間にメールを片付ける。後期にレクチャーをお願いしている、ダンサーの北村明子さんから時期と内容についての返事が届く。モロッコマラケシュからである、モロッコのメールをアメリカで開けるのだから世界は近い。ブエノスアイレスからはオープニングセレモニーが14日に決まったとの知らせ。ついに10日遅れたわけである。なんともアルゼンチンらしい。しかしこのいい加減さがあればこそヴェーバーのような神経症を生まないのである。因みにアルゼンチンは言うまでもなくカソリックが多い。日程を遅らせた罪は懺悔して許される。カルヴィニズムのもとでこんなことをしたら担当者は怠慢の謗りを受けて死ぬまでその罪から解放されない。
夜10時のuaに乗る。東京からの便もそうなのだが今回も乗務員が皆さん大きい。僕より高さ方向に1.3倍、横方向に1.2倍。重さにして下手すると2倍。これはあきらかに意図的な採用と思われる。あの重いカートを軽く動かしている。みんな半そでで二の腕の太さは僕の2倍。この飛行機は冷蔵庫のように寒く熱容量の小さなアジア人は全身ブランケットで体を包みそれでも寒いのに、彼女らはまったく平気そうである。時差と寒さでとても眠れない。もう途中であきらめて、マックス・ウェーバー中山元訳『職業としての政治』日系BP社2009を読み始める。いや実に簡明で分かりやすい。

ワシントンDC到着

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by 卓 坂牛

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朝、半分しか終わってないパッキングを終わらせる。10日の旅にしてはカバンが小さい。昔のボスがバッゲージ待ちを嫌ったので機内持ち込みサイズのカバンしかない。本や雑誌、電気機器のアダプターなどが多く、小さいカバンだが20kgぐらいありそうだ。転がらないかばんは老体にはこたえる。
出発寸前に展覧会のフライヤーがメールされてきた。最初の一番大きな文字antipodasの意味は「地球の裏側」である。なかなか強烈なタイトルである。やはり我々の建築はかの地ではまったく異なる何かに映るのだろうか??
11時に家を出て、東京駅のデパートで「地球の裏側」へのお土産を買う。鮫小紋の絹のふろしき、手拭いに包んだお香、などなど。午後4時のUAでワシントンDCに向かう。ブエノスアイレスへの直行便はもちろん無い。機中マックス・ウェーバーを読み続ける。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が生まれる経緯は、彼自身がプロテスタンティズムの勤勉合理性に浸かり、それゆえにまったく余裕の無い生活に追われ、精神の病にかかったことが発端である。それを勤勉なるプロテスタントである母親が揶揄したことが追い打ちをかけた。そこから這い上がるために勤勉なる北の世界から抜け出しイタリアでの療養によって恢復し、そこから執筆が始まった。なるほどだからこそこの書は近代合理主義賛美ではなく批判として読まねばならないわけである。なんか身につまされる。自分もプロテスタンティズム的だった。よく精神の病にかからなかったものだ。それは宗教的プレッシャーが無かったからだろうか?ひと眠りしてワシントンDCの上空。最近見なれた中国の風景とは異なり、緑の中に曲線の街路に立ち並ぶ家並み。その昔マリオットホテルの本社に打ち合わせにきたことを思い出す。トランスファーのラウンジはあのサーリネンの建物ではなく掘立小屋である。入国に1時間半待たされた。いつもこんなに混んでいるのと聞くとこの時間は特にそうだと言う。いやはや混むときは人を増やせと言いたくなる。並ばないアジアのハビトゥスも嫌いだが、並んで待っても文句を言わないアメリカのそれも嫌いである。

ADHD

On
by 卓 坂牛

朝のアサマで長野に。今日はセミナーと会議。夏休みのど真ん中とあって、会議の出席者が少ない。教授会に至っては建築学科で出席しているのは僕だけである。会議に先立って行われた発達障害セミナーは面白かった。発達障害とは昔なら自閉症とひとことで言われた病気。今では知能の高い自閉症と知能の低い自閉症に分かれ、知能の高い自閉症にはADHD(attention deficit hyper activity disorder)とアスペルガー症候群がある。今日の説明はADHDについてだった。日本語で言うと「注意欠陥多動性障害」。セミナーの先生によると注意欠陥はあるものの、異常な能力を持っている場合があるそうである。そして昨今この手の病を持った学生が結構増えており、今日はそういう学生の指導の仕方が講義された。しかし僕に指導する資格があるのだろうか?先日甲府に打ちあわせに行った時にクライアント(大学教授だが)にスタッフのOさんは「君はアスぺ」「あなたは(ぼくのこと)ADHD」と言われたばっかりである。セミナーの先生によると、学生だけではなく先生も注意せよとのこと。僕のこと????
帰りの電車で山之内靖『マックスウェーバー入門』岩波新書1997を読む。高校を卒業して浪人に突入したころ、我が家に遊びにきた現役法学部合格の友人に親父が酒を飲みながらヴェバーの『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』について数時間講義をしたのを思い出す。その講義が実に面白かった。しかし覚えているのは「アメリカで資本主義が発展したのはプロティスタンティズムの勤勉な精神があったからだ」ということだけ。それ以来ヴェーバーなんてまったく関係のない世界で生きてきたのだが、この本を読んで30年以上前のヴェーバーが蘇った。マルクスに遅れること半世紀、経済という客観的指標に対し、倫理という精神的指標に社会変化の要因を見たのは今更ながら新鮮に映る。
事務所に戻り、「蟻vs象」プロジェクトの今日の打ち合わせ内容を聞く。不在中の仕事の進行などについて各担当者と打ち合わせ。