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Oct 2009

バロック音楽の楽しみ

On
by 卓 坂牛

昼ごろバス一台を借り切り、学生を乗せて塩尻にある柳沢潤設計の図書館の工事現場に行く。彼は大学の用事で来られなかったのだが、コンテンポラリーズのスタッフの方と現場副所長、市の藤森さんに案内していただいた。3階のスラブが部分的に打ち終わった状態だった。コンペの時に提案された11メートルのプレキャスト壁柱100本近くが現実に出来て建っているのを見るのはちょっと感激だった。60個の免振装置も日本では初めてのようだ。5層の建物にそもそも免振をつけなければならないのは活断層の上に乗っているこの場所で難しい構造を評定で通そうとしたからのようである。しかし見るからに大変そうなこの現場を設計する方も大変だったろうと思うが、それを面倒みている市も偉いものである。
夕方研究室に戻り『西洋音楽史』の続きを読む。読みながら出てくる曲をずっとyou tubeで聞き続けてみた。この本はグレゴリオ聖歌に始まり、ルネサンス、バロック、古典、ロマンと続く。グレゴリオ聖歌、ルネッサンス、バロック音楽を聴くと小学生のころ住んでいた2DKの公団の団地の部屋のシーンが蘇る。今でも「名曲の時間」と「バロック音楽の楽しみ」というNHKラジオのナレーションが昨日のことのように聞こえてくる。両方ともラジオ番組タイトルでこの時間になるとラジオが鳴っていた。「バロック音楽の時間」では歴史的にちょっと前のルネッサンス、グレゴリオ聖歌も流れていたのだろう。僕のクラシック音楽の知識はこの時についてその後全く増えていない。しかしこれも今でも鮮明に覚えているが小学校の音楽室の壁に貼られていた音楽史年表に書かれていた作曲家はすべて知っていたしその人たちが作曲した有名な曲は流れてくればほとんど曲名が言えた。そのくらいそのラジオの威力は大きかった。だからこの本を読んでいてもデジャブという感じだが、その中で一つだけ以外な事実を発見した。それはバロック音楽とは「王の祝典のための音楽」でありそれはドラマでありその代表はオペラだという指摘である。「バロック音楽の楽しみ」ではきっとそんな曲も流れていたのだろうが、弦楽器をやっていた僕にとってバロックは自分で弾いた経験のある、バッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ、コレッリ程度である。しかしバロック音楽の中心はあくまで声だということを再認識させられた。そしてこの声の舞台はヴェルサイユ宮殿であり、そこで行われる宴の情熱は彫刻で言えばベルニーニだと書かれている。いままでどうしても音楽のバロックと造形芸術のバロックが繋がらなかったのだがやっと分かった気がした。

M君の編集

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by 卓 坂牛

昨日はいい波が来なかったが今朝起きると少し頭に浮かぶものがある。『単純な脳、、、』によれば考えたことが一日たつと醸造して良いアイデアに繋がることがあるとの実験データーがでていた。なので最近は前の日上手くいかなかったことを朝起きたら思い出すことにしている。研究室で早速スチペで形を作る。9時からゼミで1時間設計をやらせている間にも少し形を作る。2コマ目講義の後昼をとってからその形を写真とって事務所に送る。午後3、4、5,コマ目と製図。終ったら夜。研究室に戻りメールを開くと、ロンドンの友人が出張で東京にいるので赤羽で飲もうと日本の友人から。「大宮で下車ください」とのことだが、今日に限って明日は学生を連れて塩尻の現場見学で帰京せず。こういうことは重なる。飯を食って学生の留学のために相手大学のホームページを読んでみる。一語一語辞書をひき覚えたてのスペイン語をたどる。翻訳ボタンで出てくる日本語は理解不能なので仕方ない。ポイントの箇所だけ発見したのであとはここを読めと学生に伝える。
岡田暁生『西洋音楽史』中公新書2005を読む。先ずはあとがき。中公新書の音楽関係は必ずと言っていいほど編集長自らが編集担当になっている。編集長の名は松室徹。そして彼の名は必ずと言っていいほど著者の称賛を浴び、尊敬の念を持って語られる。彼は中高の同級生であり、音楽にはうるさく、もちろん文学の見識を備えた人物だった。大学時代はまったく交流がなかったが、10年くらい前から、数回会い建築の話をする。最後に会った時は書いてみたらと言ってくれたものの、新書向けの題材にどうしてもならず、まあもう少したって角が落ちたら書いてみようなどと思いつつ何もしていない。というよりまだ角が落ちていない。「新書は教養好きのサラリーマンが好んで手に取るようなものでなければいけない」と言いつつしかし、「適当」は許さない信念の持ち主である。と、編集者のことなどどうでもよいのかもしれないが、彼が担当した本は確実にレベルが高いのを僕は良く知っている(正直言うとレベルが高すぎるて彼が言う新書の域を超えている)。楽しみである。

いい波

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by 卓 坂牛

早朝の電車で松本へ。さすがに冷え込む。9時から会議、10時半に終えて長野へとんぼ返り。帰りの電車で久しぶりにT先生といろいろ話す。大学に着いて昼をとってm2のゼミ。論文は少し形が見えてきた。設計は筋が通ってきたように思う。しかしいかんせんここまで来るのに時間がかかり過ぎ。終わって4年生の進路相談。ご飯食べて、北村ダンスワークショップのオブジェ計画を聞き、八潮の模型を見せてもらう。さあこのあたりからエネルギーが切れるが、がんばって事務所からの模型写真を見る。うーんと唸りスケッチブックに向かうがしばし描いて雑用を思い出す。給与査定の自己申告書を作りメール。再びスケッチブックに向かいしばし描くが名案浮かばず挫け、書架に向かい本を引っ張り出しては眺める。再度、机に座り今度は折り紙をしながら考えるが形がどんどん捻じれ上手くいかない。学生の名前ロゴ考えたりしてついに逃避行動にでる。仕方なく「名案浮かばず」と事務所に返信メール。
昨日読みかけの『単純な脳複雑な私』を読み終える。ルビンの壺をじっと睨み、壺に見えたり、顔に見えたりするのは、脳の電気信号が揺らいでいるからだという。人間は見ようとするものを見ているのではなく揺らぐ脳に身を任せている。外界の刺激がニューロンを通る経路は数多あり、そこで脳に落としていく知覚なるものは刺激に対して一義的に決まらない。この揺らぎのいい波に乗るといい結果が出せて、悪い波に乗ると結果を出せないなんていうことがあるそうだ。今日はいい波に乗れないのか、いい波が来ないのか?

記憶

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by 卓 坂牛

朝方のあずさで松本へ向かう。車中池谷裕二『単純な脳複雑な「私」』朝日出版社2009を読む。以前少し読んであまり興が乗らなかったのだが、最近心理系の本を読んだところだったので興味再開。著者は薬学部で脳の研究をしている方。脳の中でも記憶が専門。この記憶の話が滅茶苦茶面白い。人間の記憶がいかに当てにならないかが書かれている。当てにならない理由の根源は、人間が意識上に上ることだけを覚えているのではなく、意識下のことも覚えているという点にある。それって恐ろしくないだろうか?僕があることに対して何を感じようと、無意識というもう一人の僕がいて、それがその現象を勝手に意識下で記憶して、ある日突然意識上の僕の上にその記憶を送り出してくるのだ。そして何よりも一番恐ろしいのは、意識上の僕はそのことに気づいていないという点である。
まあそんなことが書かれるこの本の中に「直感」のことが書かれている。直感とは理由なき勘のようなものではない。僕が直感で何かを選ぶような場合、それは僕が僕の人生経験の中で培ったものに基づいて無意識化で計算し尽くしたうえに選ばれた極めて論理的(かどうかは別にして)な思考の結果なのである。ただそれが意識されていないというだけのこと。さてこういう直感力がつくのが40くらいだそうで、それを論語では40にして惑わずと言ったと書かれている。30にして立ち(そう言えばその頃結婚した)40にして惑わず(確かにその頃直感的に独立した)50にして天命を知る。(さて今年はその年なのだが今のところ天命には出会えていない)。松本で年に一回の1年生への講義。終わって長野へ、研究室で科研資料の最後のチェックなどなど、、、、明日早朝また松本行くなら今日は松本に泊まれば良かったか???

インフルエンザ

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by 卓 坂牛

C型インフルエンザのワクチンは学生・教員などには割り当てられないのだが、少なくとも季節性インフルエンザワクチンについては各自接種するようにと大學からメールが来た。そのことをかみさに言うと早速行きつけの医院に電話をしたが、もう売り切れと言われた。そこで僕の行きつけの医者に電話をすると未だ残っていたそうだ。無くならないうちにと思い、すぐに行って打ってもらった。2800円。後で人に聞いたら結構安いようだ。ところでこのお医者さん曰く、昨今のテレビも新聞もウソ報道ばかりだという。c型ワクチンの副作用の可能性はとんでもなく高いのに、テレビ、新聞は全く裏を取らない報道なので、さも安全であるかのごとく言う、あれはかなり危険だとか。季節性の100倍くらいの副作用の可能性だという。で、一体どういう副作用ですか?と聞くとショック性のさまざまなこと、、、、、だそうだ。では、接種優先順位の高い妊婦とかまずいでしょう?と聞くと、まずいと思うよと答える。わが事務所の該当者はどうしたらいいのだろうか????近くの定食屋で先ほどの医者の話をしたら、隣の客が、だから一番いい予防法はタミフルがあるうちにさっさとかかってさっさとタミフル飲んで直す。これだそうだ。受験生には特にこれがお勧めとのこと。本当かどうかは知らないが。

継ぎはぎ写真

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by 卓 坂牛

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この緑の連続性はなかなか都心じゃあ貴重
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丹下さんの代々木はこんな角度もいいよなあ
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竹中のタワーのガラスは奥の方にも同じようなカーテンウォールが見える
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米田さんの建物の印象はまさにこの隣地に挟まれた時の両側の侵入感なんだよなあ
今日は珍しく、じっくりと、長々とスタッフと打ち合わせをした。午前中から飯を挟んで夕方まで、久しぶりに基準法とにらめっこしながら法の隙間をくぐりながらの何が問題化をディスカッション。自分でもあいまいだった点が明らかになったので良かった。いまだに補助金のプロセスは五里霧中だが、設計としてやらなければいけないことは分かっているつもり。でも何が良いかは別問題、、、夕方はまた研究テーマを進化させるべく考え事。フォトショップで写真を合成しながら、一体何が建物とその周りで起こっているのだろうか。こうやって写真を継ぎはぎしていくと普通の建築写真よりはるかに自分が見てきた印象に近いなあと思うのだが、、、

隣地の壁でできてます

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by 卓 坂牛

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朝の雨が止んだ昼ころ、自転車で米田明さんのオープンハウスに行く。家から外苑西通りを外苑の方に行き、右に曲がって原宿の駅前を越えて代々木公園の脇を富ヶ谷の方へ下る。後は地図の能楽堂を目指し進む。昔のモモコマーシャルがあったあたりだ。閑静な高級住宅街。外壁なるものが見当たらず、黒い塩ビ管がf分の1揺らぎモードでワイヤに止められている。2階に上がると米田さんがいた。一体これは住宅?と聞いたら、セカンドハウスだそうだ。なんと贅沢な、犬と過ごす庵だとか。しかしこの揺らぎ格子を通してみる隣地はこの写真の通り打ち放しのかちっとした壁で、あたかもこの家の壁であるかのごとくである。最近周辺環境要素にこだわって建築を見るようになったのでこういう家はとても気になる。自分の家が周辺環境要素で出来ているということである。そして正面の道路からみると、これも当たり前だが、やたら中が透けて見えるわけで、これはこれでこの建物が他の建物に対して周辺環境用としてインパクト係数が高いという感じである。いいものを見せてもらった。現場で植田実さんにお会いした。自らばちばち写真を撮られていた。
オープンハウスを後にして、文化村にちょっと寄ってベルギー幻想美術館展というのをちょいと覗きhttp://ofda.jp/column/来た道をまた戻る。途中ちょっとしゃれた照明、家具屋発見。コンクリートで出来た家型の照明器具がなかなか素敵で(まるでケレツの建築のような)買いたかったが、こういう時に限って、あまりお金を持っていない。また今度にしよう。

翻訳って難しい

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by 卓 坂牛

昨晩、四谷から自宅の間で道路工事をやっていた。明るい風船が白く光るような照明器具が使われていた。何度か車の中から見たことがあったが、歩きながらすぐ近くで見たのは初めて。これが、とんでもなく明るい。オラファーのアートみたいだった。
今日はA0勉強会。やっと第4章「機械的誤謬」に入った。僕らの担当の最後の章。この章はHo君が最初に訳して、誰かと読み合わせて修正し、次にHi君のチームがその訳を再度読み合わせ修正し、そして現在僕らが三回目の読み合わせを行っているわけだ。そして、こんなに丁寧にやっているのにもかかわらず、未だ修正が数行おきに入るのである。翻訳って本当に難しい。こういう状態ならチームを変えてまた読み合わせすればまたきっと何かが見つかるだろう。完全なものにするなんていうことはほとんど不可能とさえ思える。そう考えると世にある翻訳書の陳腐な文章のほとんどは、まあ考えられていないか誤訳であり、それをいくら読んでいても原著者の真意など分かるはずもない。原文を読めという人の気持ちはよくわかる。

出張と翻訳

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by 卓 坂牛

午前中ゼミと講義。午後は大学祭の準備で休校。製図のあるべきに日に製図がないと気分がゆったり。だがその時間に自分が司会の会議を入れる。終わって雑用していたら夕方。お腹が空いてきたところに学生のご飯の誘い。食べずに帰ろうかと思ったが食べてから帰ることにする。車中、村山久美子『視覚芸術の心理学』誠信書房1998を読み始める。なんだか日本語がこなれていない翻訳本だなと思って奥付を見たら著者は立派な日本人。と分かったら読む気が失せて眠ってしまった。買わなきゃよかった。タイトルに騙された。四谷の駅から自宅の間にサラリーマンで賑やかな飲み屋がある。ビールケースをひっくり返した椅子で気楽な感じ。そう言えば今日は金曜日。楽しそうだなと思いながら飲み屋と反対側の本屋に立ち寄る。山形浩生の「翻訳本の解説ばかり集めた本」が新刊コーナーに平積みである。本のあとがき(まあ正確には解説だが)ばかりあつめて本にできるなんてこの人くらいだろう。その本の、そのまた「あとがき」を立ち読みする。彼は何十冊という本を翻訳しているがそれを常に出張先(彼は立派なサラリーマンである)のホテルで仕事がオフの時にしているそうだ。外国出張を羨ましがる人もいるが、旅行で行くのとは大違いで行きたくもないところ、見たくもないところを見ざるを得ない。だからこの仕事は羨ましがれる様なものではないという。そして翻訳という作業もそれに近く、書きたいことを書けるわけではなく著者のいやなところも馬鹿なところにも付き合わざるを得ないのだという。しかし出張で外国に行くのも、翻訳で著者に付き合うのもどちらもいやなところもある一方、自分の知らぬ世界に連れて行かれる魅力もあるのだという。短いあとがきをそれなりに読ませてくれるのはさすが山形。しかし一言言えば、出張で外国にいくのはなんたって楽しい。飛行機乗れば電話も来ないし、土日は休みだし、それが証拠にあなたはオフの時間にこれだけの楽しい翻訳ができたではないか。言葉の上手な人はどうも上滑る時がある。

浮き出ることまとまること

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by 卓 坂牛

午前中クライアントと打ち合わせ、中国の可能性など話す。事務所に戻り昨日の続きを考える。昨日は環境心理だったが、今日は視覚心理の本(大山正『視覚心理学への招待』サイエンス社2000)を読む。ここでまた面白い概念に遭遇して目から鱗である。それは「見えのまとまり」という概念。似た者同士は一つのまとまりに見えるというごく当たり前のことである。そういう話はどこかの心理学の本で読んだ記憶があるが、忘れていた。つまりⅰ同じものなら近くにあればまとまる。ⅱ距離が同じなら同質なものがまとまる。ⅲ閉じた形を作るとまとまる。ⅳ連続性があるものはまとまる。ⅴ単純で規則的で左右対称な形はまとまる。などなど。今まで建築物と周囲の馴染みは図と地だけが鈎概念だと思っていたのだが、このまとまりの概念の方が遥かに使えそうである。つまりある建築物が周辺環境要素とどの様に郡化するかということをこれらの既知のルールが教えてくれる。例えば、伊東さんの葬祭場のように真っ白い建物は周囲の緑からは図化しやすそうだ(図化がおこる最大要因は図と地の輝度差だそうだ)一方で流れるような曲線の屋根は周囲の山並みの曲線と連続することでその部分は形のまとまりを作るわけである(なんて見たことないから想像上の話だが)。あるいはこの間ブエノスアイレスで見せてもらったロベルトの設計したビルは隣の古いレンガビルをレスペクトしてレンガでできている、一方この街並みにはレンガビルはこの二つしかない。ロベルトのビルの形は少々暴れているので形の図化が起こりそうなのだが、隣の古い歴史的なビルと同質なまとまりを見せている。つまり図として浮き出ようとする建物を周辺環境要素につなぎ止める役割としてこの見えのまとまりは貴重な手法だろうし、こうした図化と郡化の同時現象はある種の緊張感を生み建築にエネルギーを与えているようにも思うわけだ。