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Mar 2010

安藤忠雄の竜王駅

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by 卓 坂牛

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さて今日は甲府遠征。車中の原稿打ちも次の章に進もうと思う。ジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』をカバンに入れて家を出る。思い出すように車内で読む。これが面白い本である。視覚の変容においてカメラ・オブスキュラの静的な視点からフェナキスティスコープやゾートロープ(と言っても想像もつかないかもしれないが)の動的な映像を生む器具の発明への技術的な変化が例示される。ここに映像の時間性が入り込む。一方視覚はニュートン的な物理的な解明からゲーテ的な生理学的な(人間の脳みそが映像を変換する)解明へと進み。さらにショーペンハウエルの極めて過激な発言――視覚とは脳みそが作り出すものであって、客観的な実体とは関係が無い――へと進む。これは極論だが面白い。そしてこちらも物理的な瞬間性から、脳みそ内での変容を生む時間が問題視される。映像を作る技術と受け取る器官の双方に現れる時間が問題となる。視覚の本はさんざん読んで知識が頭の中で断片化されているのだが繋がっていない。思い出すように読み始めるとこれらが何となく繋がる(予定)。一週間くらい昔の本を読み返すとストーリーの輪郭ができるだろう。なんて思っているうちに甲府。午前中甲府で打ち合わせ。パワーランチをいただき、竜王市役所に行って道路の確認をしてから安藤忠雄設計の竜王駅に行く。いやーこれはちょっと。という安藤設計を見ながら塩山へ向かう。こちらはだんだん細かな設計に入り込む。子供がどうやって靴を脱ぐかとか、幼児がどこでパンツを脱ぐかとか、クライアントも経験と想像を交えながら判断するので時間がかかる。気が付いたら7時。またあわてて車を飛ばし駅へ送ってもらいあずさに飛び乗る。毎週水曜日の甲府遠征がルーチン化してきた。

建築倫理

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by 卓 坂牛

朝から原稿を打っていた。建築の倫理性についてである。建築がその時代の倫理感に影響されるのは当然だし、もしそれを無視すれば社会からも無視される。しかし倫理と言うものは時代とともに変化するものだから、その時代の変化の兆しをつかんで既存の倫理にたてつくことは許される。それをしたのがスコットであり、ワトキンだったと言える。しかし彼らはたてついた揚句、過去の別モノを称揚したのだから余り発展的ではない。それは批評家、歴史家の限界である。と言いつつ同じようなことをするのも気が引けるが、建築における倫理感を跡付けて行くと、現代まで生きながらえている標語としてヴェンチューリの「多様性」と「対立性」を再評価したくなる。哲学的にはポストモダニズムは既存価値の破壊の時代であるから倫理感が死滅した時代ということになっているが、建築はそもそも破壊という表層のもとで構築せざるを得ない。そこでは構築の論理が必然であり、そこに倫理は死滅したと見る必要はない。多様性と対立性という標語は、哲学的にはポストモダニズム後の倫理感を担うと言われた「他者性」を見事に言い当てている。つまり、同一性に回収されない他者の価値観を認め、主体の価値観との対立を歓迎する態度である。これは今や目新しくも何ともないかもしれない。しかしだからと言って無視できるような価値観でもないだろう。
二十一世紀の倫理感が環境倫理であることは論を俟たないだろうが、ポストモダニズムの残滓のようなこれらの標語もまだまだ死んでない。いやあるいは環境倫理と同等あるいはそれ以上に重要とも言える価値観だと思う。

一年目検査

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by 卓 坂牛

一年目検査で「高低の家」に行く。トップライトの熱割れが一番大きな修復工事。後は毎度のことだが、プラスターボードとベニヤのとり合い部分。ベニヤが痩せるので目違いが起こる。しかし今回はかなり激しく段差ができている。そしてこれも毎度のことだが、建具の建てつけが2か所悪くなった。外部は全く問題ない。今回使ったこの外装材(ガルバリウムの波板)は安くて長持ちしそうである。さて後はJTの撮影だが、果たしてできるだろうか?12月にやろうということでクライアント、JTともに了解していたのだが、こちらが忙し過ぎてセットアップできずにいた。そして今日見ても家の中にまだ荷物があふれている。これじゃあ無理かしら??夕刻事務所に戻り打合せ。スケジュールを作り時間の無さに愕然とする。
夜ベッドで加藤尚武『二十一世紀のエチカ―応用倫理学のすすめ―』未来社1993を読みながら眠りに落ちる予定。昼間電車の中で読んでいたのだが、あとがきにこんな文章があった「環境倫理学、生命倫理学を含む応用倫理学と呼ばれている領域が、今後もビジネス・エシックス、情報倫理学など、ますます発展する傾向を見せている。大学の哲学系の教官で応用倫理学を教えることのできない人は、教育者としての存在理由を失うと言ってもよい情勢である」。なかなか厳しい書き方である。多分いろいろな学問が野放図に発展することに人間的(あるいは環境的に)に歯止めをかけろというのがこの学なのであろう。確かにそういうものはどこかで必要かもしれない。しかし歯止めというのは常に自由とぶつかるのであり、そこに歯止めのむずかしさがある。

D.ワトキン

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by 卓 坂牛

D.ワトキン(Watkin, D.)榎本弘之訳『モラリティと建築』(1977)1981を読み返した。建築が建築以外の何ものかの表出の結果として説明されてしまう18世紀以来の建築の批評の伝統をペブスナーに至るまで刻銘に記したのがこの本である。もちろんこうした言説の嚆矢は我々が今翻訳しているジェフリー・スコット『ヒューマニズムの建築』1917ということになろう。早稲田の講義「建築の条件」の一講が「倫理性」なのだが、ワトキンも、スコットも倫理性を含めおしなべて建築以外の何かが建築を決定することを是としない。しかしでは彼らにとって建築以内の何かとは何なのだろうか?ワトキンの書もその部分に批判が集中したと聞く。これだけ建築に求められるものが複雑になっている現代社会において建築が建築以内の問題意識だけで決めていけると考えるのは少々無理があるだろう。もちろん彼らもそれは承知で敢えて建築固有の精神性のようなものを主張しようとしているのだろうが。ワトキンの書が出たのはジェンクスの『ポストモダニズムの建築言語』が世に出る1年前である。世の中がモダニズムに辟易していたそんな風潮の中で、ジェンクスとは違う形で、モダニズムを瓦解するひとつの論理だったように思える。

走り過ぎ

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by 卓 坂牛

午前中ジムへ。テレビを見ながらランニングマシーンで走っていたらついテレビ見たさに40分くらい走ってしまった。ちょっと走り過ぎで体がだるい。午後は雑用、スキー合宿に行っていた娘と久しぶりに会う。スキー場は嵐、雨で酷いコンディションだったようだ。

南洋堂

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by 卓 坂牛

夕刻南洋堂に「建築女子」展を見に行く。信大の学生も展示している。小さな会場に5つくらいの作品が並んでいた。展示者は張り切ってプレゼンしている。会場が狭いから皆作品の一部を集約して持ってきているようだ。そのため本当にイメージだけの展示である。元気だけは立派である。その下の階の洋書売り場を覗く。アトリエワンの作品集がリツォーリから出ていた。凄い本である。吹き抜け2階で白井の写真を眺めていたら店長がやって来て立ち話。彼は僕らの事務所がある荒木町あたりにかなり詳しいので不思議に思っていたのだが、東京スリバチ学会員であることが判明。なるほど。

虚白庵(こはくあん)

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by 卓 坂牛

白井晟一の自邸虚白庵が取り壊し前に見られるという。ある意味で日本のモダニズム建築期の極北としての地位を獲得したこの建築家が最近になってやっと視野の中にいる。学生時代に親和銀行を見に行ったけれど、当時の教育や時代風潮からすると全く理解できなかった。その後、これも学生時代にオフィスの課題をするのにノアビルを見に行った。エキセントリックな造りであることは理解できてもそれ以上に考えが及ばなかった。ノアを見るならPMTを見ようという学生の方が主流であった。大江戸線新江古田の出口の目の前に雨の中50人くらいの待ち行列。建物見るのに行列ができていたのは初めての経験である。僕の整理券番号は415番。1時から始まって2時半くらいだったから1時間に200人近く来た計算。しかも来ている人は建築関係者だけではないように見える。確かに彼は多趣味な魯山人のような人だったのかもしれない。RC造とはいえRCが見えているところはすべてはつっているので一見石づくりのようでもある。中庭側には瓦の乗った土塀があり和風も顔をのぞかせるが部屋の中は毛足の長い絨毯敷き、壁、天井は本当のクロス。色も多彩。赤い天井もあった。ただでさえ暗い白井空間で、照明が大分外れているので真っ暗である。手探りで彼のディテールを味わうと言う何とも「粋」な建築体験であった。この建物はプランが公表されていないらしい。だから入口で頂いたプランは貴重なものなのだろう。このプランを見ているとそのドライな空間構成に驚く。入口の両側に大きな長方形が二つL字型に配され、その長方形のそれぞれの中に二つ三つの長方形がわりと無造作に置かれている(そう見える)。そして置かれた長方形によってその残余空間が生まれている。そしてその空間の流れのようなものが家具や照明が白井の思い通りに置かれて初めて体感できるのだろうと想像した。それにしてもスケールが間延びしていると思えるくらいゆったりしている。のべ200㎡余りの平屋を都心で見られることは昨今まずない。

冬へ逆戻り

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by 卓 坂牛

毎週水曜日恒例の甲府遠征。今日は午前中に甲府に行く。朝から雨がしとしとだったが甲府についたらザーザーである。1時半まで昼抜きで打ち合わせ。甲府駅のマックで昼をとり、2時半の電車で塩山へ移動。今日は一日雨だろうか、山には桜も見えるが桜が咲くと雨が降り冷えるのは毎年のこと。こちらも延々7時まで、電車の時刻を聞いてあわてて駅に送ってもらい7時10分のかいじで新宿へ。車中『ポストモダン時代の倫理』を読み続ける。男女平等の起源は啓蒙思想にありと思っていたが、どうもそうでもない。カント曰く「男性の悟性は深く女性の悟性は美しい」であり、女性の理性は男性に劣ると捉えていたと言う。スチュワートミルの『自由論』は女性解放の嚆矢のようだが時すでに19世紀半ば、その後イギリスに女性参政権が確立するのは1928年だから日本と大差ない。
東京は塩山より寒い。四谷駅から雨の中スタッフのT君と相合傘で震えながら事務所に戻る。冬再来。

wacol cw-x

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by 卓 坂牛

昨晩は学科の謝恩会の後,研究室の謝恩会。恒例である。そして毎年卒業修了生の一言があり先生の一言がある。学科の集まりでしゃべったし、各自にはお手紙用紙しているし、もうしゃべることないのだよ。でも何かしゃべる。聞く方も飽きるだろうなあ。そして皆から謝恩の記念品を頂く。今年はワコールのスポーツインナーwacol cw-x。ぴちぴちのボディコンウエアである。これを着て走れと言うことか?なんだか毎年大変高価なものを頂き恐縮してしまう。ありがとうございました。お返しに昼間書いた手紙を渡す。
午前中、某先生が某ゼネコン設計の某建物の基本設計書を持ってきた。気にいないらしく何かデザイン的に言って欲しいというのだが、状況も分からず人の仕事を悪く言うつもりはない。石崎嘉彦、他著『ポストモダン時代の倫理』ナカニシヤ出版2007を読み始める。この本はナカニシヤ出版の〈人間論の21世紀的課題〉シリーズの最初の本。つまり21世紀の倫理の総論として、20世紀の倫理のまとめと21世紀への展望が書かれている(シリーズの他の本は各論である)。午後3つ会議。夕方解放され東京へ。車中上記の本を読んでいたが昨日の疲れで眠りに落ちる。事務所に戻り明日の甲府遠征の打ち合わせ。

卒業式

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by 卓 坂牛

午前中原稿打っていたらうっかり時計を見過ごした。四谷まで思い切り走る。なんとか予定のアサマに駆け込んだ。あああせった。車中もひたすら打つ。しかしこのタイピングの音はけっこううるさい。周囲に迷惑をかけているかもしれない。音が出ないキーボードが欲しい。
午後卒業、修了証書の授与式。夜謝恩会。謝恩会まで時間があったので卒業修了生にお手紙を書いた。こういうことはやるならやるで毎年やるべきだろうが、去年はやらなかった。一昨年はやった。気まぐれで申し訳ない。謝恩会は駅近くのメルパルク。長野のメルパルクは3層分の吹き抜けに膜構造の屋根が張られとても大きい。毎度思うが、こういう会に招待していただけて光栄である。別に学科長でもなんでもないが、締めの言葉をお願いされたので、ひとこと。
大人になる君たちへ
ここにいる君たちは、卒論と修論を書いてやっと大学から出られることになった。僕もそうで、大学で勉強した記憶はこの学部と修士の最後の年だけ。そして工学部に所属する君たちはきっとそこで科学的で論理的な思考をたたき込まれたはず。つまり1+1=2の膨大な繰り返しをこの一年間やってきた。
しかし、君たちの毎日の様々な思考や判断というものは1+1=2的におこっているとは限らない。君たちの一生を左右するであろう、就職先を決めることだって1+1=2的に決まらなかったはずである。そして君たちが社会に出て行くとそうした問題の方が遥かに多く現れてくるだろう。
僕の友達には1+1に滅法強い奴がいる。でもそう言う人に僕はあまり驚かない。一方1+1では答えが出ない問題に直面した時に極めて適切な答えを出せるやつがいる。僕はこういう人には頭が上がらない。彼らのこうした能力を「常識」と呼び、「常識」とは「明証を持っては基礎づけられないけれどなんとなく確信せらるる知見のことである」と誰かが言っていた。そう「なんとなく」の力である。そしてこの「なんとなく」は直感によって獲得される。この直感の優れた人間を僕は大人と呼ぶことにしている。そして君たちには是非これから大人になって欲しい。
ところでこの直観とは決してその字が暗示するかのごとく天の啓示のように降ってくるものではない。それは心の奥底におりのように溜まった無自覚な経験と知識の蓄積から論理的に生まれてくるものだそうだ。これは脳科学の世界で既に言われている。そしてこの澱のようなものを分厚く溜めることが直感による常識を持った大人になるということである。
そしてもしこの澱を溜める確かな方法があるとすればそれ読書である。大人になるために本を読んで欲しい。会社に入って、君が尊敬できる人がいたらその人の愛読書を聞いて是非その本を読んで欲しい大人への道が見えてくるだろう。