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Jul 2010

プロの建築家とは?

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by 卓 坂牛

午後からA0勉強会。翻訳だけはとにかく粛々とやるしかない。マラソンみたいなものである。今日は事務所がコンペ提出前でバタバタしてそうなので我が家でやることに。自宅の方が静かだし気持ちいい。終わってから選挙へ。四谷駅の脇に建っている廃校になった小学校が投票所。7時でも未だ来る人が後を絶たない。
帰宅して昨晩読んでいた森博嗣『小説家と言う職業』集英社新書2010を読み終える。数年前、娘がこの人の小説が面白いと持って来た。読まずにいたら一カ月たってまた数冊持って来てこう言う。「この人大学の先生だよ」と。凄い人もいるものだと思っていたら、また数ヵ月後数冊買って持ってきた。「この人建築学科らしいよ」という。ますますビックリした。一体どこの大学だか知らないが凄いと思っていたらこんなタイトルの本が並んでいたので大学教授の生態をしりたく興味深く読んでみた。著者はそもそも文学少年でもなんでもなく、ピュアに金儲けをしようと思って小説を書いたらしい。数か月で一冊書きあげ講談社に送ったら数カ月たって出版したいと言われた。その時には既に二作目を書き終わっており、最初に出したのは四作目で次に一作目二作目三作目とだしたようだ。そして問題の収入だが、初年度は三冊出版されその印税は大学の年収の倍。翌年は4倍、3年後は8倍、4年後には16倍になったそうだ。それは一億を超えたということである。凄い。それでも大学をやめてないと言うところが輪をかけて凄い。毎日1時間書いて一カ月に一冊出せるという能力に脱帽。
さてこの本の第二章は小説家になった後の心構えとなっている。これは建築家に置き換え可能と思いながら読んでいた。小説家はデビュー作の後作家であり続けるのが難しいのだそうだ。編集者によると、十年以上続けられる人はほんの一割。もちろん一生作家専業で食べているという人はひどく少ない。それは建築にも当てはまる。一生建築家専業で食べていると言う人はどのくらいいるのだろうか??まあ建築の場合作家と違って駄作を作っても突如売れなくなることは無い。営業で作品の質をカバーしている建築家は沢山いる。そういう輩はまあ除外したとして、建築では兼業して(例えば大学の先生やって)収入の波をカバーしている人たちが沢山いる。そういう人たちは作家の基準から見れば僕も含めて全員プロ失格である。大学で費やしている時間は建築の創作に無駄とはいわないが100%寄与しているとは言えない。つまり事務所で考えている時間に比べれば無為な時間をすごしているわけだ。因みに林昌二はとある大学からのオファーをプロであり続けるために断ったと先輩から聞いたことがある。おそらく磯崎新や伊東豊雄もオファーがなかったと思いにくい。しかしそれを拒否し続けたのだろう。凄いものである。

古いOSは取り替えないと

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by 卓 坂牛

朝、買い物を命じられたので開店の時間に伊勢丹に行く。しかし指示されたモノが今一つである。取り置きしておくので確認に来るようかみさんに電話をする。副都心線で乃木坂へ。ギャラ間でDavid Adjaye を見る。陳列物はパネルと小さな模型。簡素なものhttp://ofda.jp/column/。昼を採って四谷のジムへ。1時間くらい自転車こぐ。さっぱりした。屋外の木陰で読書。
穂村弘という歌人の書いた『絶叫委員会』(筑摩書房2010)を読みながら笑いをこらえる。著者がいたるところで集めてきた面白い(あっと言わせる)言葉とその解説が載っている。
例えば、宮沢りえとの婚約解消記者会見で貴乃花が言った破局の理由。
●「愛情がなくなりました」
「この言葉をきいたあとで、誰か何か云えるだろうか、、、婚約とか破棄とかいうのは社会的なきめごとに過ぎず、愛に手を触れることは誰にもできない。その全てを一瞬で照らし出したのだ、、、、」
●「何歳に見える?」
「たったひと言で、瞬時に無用な緊張感を作り出す言葉だ、、、、、」
●下北の路上でおばさんの声が響いた「日本人じゃないわ。だってキッスしてたのよ」
「私の心に様々な思いが一気に押し寄せる、、、、、彼女の言葉自体はそれほどおかしいわけではない。ただそれを載せているOSが古いのだ、、、、いまどきのOS上では『キッス』って単語、走らないよ。キスでしょ。キス、、、、、」
言葉っておもしろい。凡人は聞き過ごしてしまう言葉にも歌人は反応する。
これを読みながら先日の家族の会話を思い出した。
僕は東京の四谷に住んでおりたまに家族3人で外食する。駅のそばに「三谷」という鮓屋がある。高そうなので入ったことはないがその前はよく通る。先日その前を通った時娘が呟いた。
「ヨツヤだからってミツヤは無いよね!」うっ。
「三谷」はミタニと発音するものと思い込んでいた我々夫婦は理解するのに2秒かかった。そしてかみさんが「これはミタニでしょう?」と娘の理解との差を口にした時には話はすでに次の地点に移動していた。この処理能力の遅れはヴァージョンの低いOSのせい。取り変えないと新しいアプリが動かなくなる。

大学教授と言う仕事

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by 卓 坂牛

午前中早稲田演習。最近早稲田に行く楽しみに終わった後の「あゆみbooks」が加わった。今日も学生の楽しい発表を聞き終えて「あゆみbooks」へ向かう。『大学教授という仕事』(水曜社2010)という本が目にとまった。杉原厚吉さんという元東大教授がお書きになっている。誰向きに書かれているかと言うとこれから大学で職を探そうとしている人である。でも既に大学に職を持つ僕も興味深い。
というのも大学ってところは他の人が何しているんだか全く分からない場所だからである。企業というところは上意下達社会だから誰が何をするべきかが決まっている。ある方の部署とポジションを聞けばこの方が何をしているか、しなければならないかは想像に難くない。しかし大学は違う。もう5年もたつがやはり誰が何をしているのか想像の域を出ない。というわけで昼を食いながら飛ばし読みしたら、ああ想像したこととさほど変わらないということが分かった。なんだ、なんの発見も無いのかよと言われそうだが、想像した通りだと言うことに確信が持てたことの意味は大きい。まあ一言で言えば、大学の先生とはせっせと論文を書き学会で認められ、認められるような論文を学生と共に書くことで学生を教育し、そして余った時間で本を書いたり、講演をしたりして研究成果を社会に還元するということだ。あたりまえでしょう。と言いたくなるのだが僕ら建築意匠の先生というのは論文を作品に置き替えて考えないといけない。もちろん意匠の先生でも論文を書き作品も作る有能な方たちも少なくない。しかし多くは作品にウエイトを置いている。僕もそうである。
さてそうなると建築意匠というこの稀有な専門を持つ教師の「作品」というものは大学の中でどの様に評価されるべきなのか?僕が信大に赴任した当時は工学部長を含めて喧々諤々の議論だったそうだ。つまり論文だってただ書けばいいと言うものではなく学会の査読付き論文誌(所謂黄表紙という奴だ)に掲載されてなんぼのものである。それに相当する作品とは何なのかを決めなければならないのであった。信大に来た時に比較的作品に理解ある先生からも「ただ設計して竣工してもダメですよ。だってそれが坂牛さんの仕事かどうか分からないし、いいか悪いか私には分かりませんから」と言われた。ではどうしたらよいのでしょうか?誰かの評価が付いてないとだめですというわけだ。一番いいのは学会作品賞、選奨、選集である。もちろんコンペやその他の賞もいいが、大学は学会に弱い。JIAはどうかというと「あれは民間団体でしょう?」ってな具合に冷たい。「僕が作ったことを証明する意味では雑誌に掲載されるというのはどうでしょうか?」「雑誌ってなんですか?」「例えば『新建築』とか、外国の雑誌とか?」「それって単なる商業誌でしょう」とこれも冷たい。大学の先生は学会が命である。
では一応評価された作品一つと言うものと論文一本と同じ評価なのだろうか?と思っていたら、先日学会でお会いした村上徹さんが言っていた。論文は勝手に書けるけれど作品はクライアントがいるのだからそう簡単に自分の思い通りにはできない。その意味で選集掲載は論文1.5本分くらいの価値がある。選奨なら3本分(と言ったような気がするが)とおっしゃっていて元気が出た。こういうのはそれぞれの大学の内規とかで決まっているのだろう。
と言うわけで作ったものはなるべく学会に応募してきたのだが、今年からこの学会選奨の審査委員を仰せつかった。これがどういうことかと言うと、この賞への応募が許されなくなるのである。審査員なのだから仕方ないとも言えるが、自分の審査には票を投じなければいいだけであり、応募を禁じるとは何事か。それって他の先生の立場なら論文の審査員だから論文の応募を禁じると言われるようなものではないか!!!(もちろん査読委員の先生だって論文投稿の自由はある)。だから僕は審査員をかたくなに断ったのだが、先輩から有無を言わさず言い渡された厳しいなあ、任期中は業績ゼロだ、、トホホ。そんなことを思いながら事務所に戻るとナカジからメール。「リーテム中国工場がinternational architecture award2010(THE CHICAGO AHENAEUM Museum of Architecture and Designの主催)に入ったみたいですよ」「おお神は見捨てていなかった!!」添付のpdfを開けると審査結果が入っていた。審査委員は公表されていなかったが、今年はリゴレッタがいた。懐かしい。UCLA時代の先生だ。100人くらいの受賞(それこそ世界版学会選集のようなもの)。FOA、モルフォシス、坂茂、スノヘッタ、スティーブンホール、谷尻さん、手塚さん、岡田さん、なんて言う人たちも選ばれていた。作っただけでは業績にならない大学における意匠の先生の立場としてはなんとかやったことを無駄にせずに済んだほっとした。

町おこし

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by 卓 坂牛

夕方I事務所の高校のクラブの先輩が事務所に遊びに来た。長野の駅前で町おこしをするのを一緒にやろうと言う話。一か月前くらいに会おうと言うメールが来て日程を合わせていたら一カ月たった。先輩後輩だとなあなあになる。でも半分仕事で半分遊び気分がちょうどいい。話を聞くと長野の中心市街地をアートで活性化しようと言う。なるほど結構おもしろそうである。既に信大教育学部のアート系の学生を入れて毎月ワークショップを開いて30回やってきたと言う。へえーと思う。I事務所がこういうことをサポートしているのはもちろん最終的にはそのあたりの仕事に繋がるからとは思うものの10年やっているとはすごいものである。担当のTさんは地方がだめになったら日本はダメになるという信念がおありのようだ。確かにそうかもしれない。僕としては面白い話。地元にコミットするのは望むところである。遊休ビルをリノベして町人文化会館を作る仕事。やってみるか。

建築をずーっと好きでいること

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by 卓 坂牛

午前中ゼネコン質疑の回答をスタッフとまとめる。2社からしか来ていないが他社はやる気が無いか???入札辞退か???午後モケシャ→フォトショで作った外観カラースキームを見る。ふーん!!!しばらく事務所に貼っておくか。最後まで飽きないやつはどれか??
夜石山さんの本を読み切る。面白いねえ。山本夏彦を文章の師匠と仰ぐだけある。建築界では石山と磯崎は双璧だ。石山は大学時代に先生から将来何になるのかと聞かれ「建築家」と答えた。すると父親の職業を聞かれ「教育者」と言うと「建築家は諦めろ」と言われたそうだ。僕も日建設計をやめる時当時の副社長が「やめてどうする?」と聞くので、あまり自信は無かったけれど「独立します」と答えたら「君は血筋がいいか?」と聞かれた。全く同じである。つまり建築家なるものは体制に属し、上流の血が流れ初めて仕事が来るものだという考えがあったわけである。そして今もある。でも石山は巨匠の域になった。
とはいえども世の中に建築設計者はニーズに対して多すぎるだろうし、本気の建築家なんてものはかなりアブノーマルな生き方を実践しなければなるまい。先日藤村龍至君を信大にお呼びしてレクチャーをしてもらったら、学生の頃先生にこのクラスで建築家になれる人などいないと宣告されたと言っていた。僕も学生の頃先生に似たようなことを言われた気がする。さらに僕が信大に来た時とある先生に「才能も努力もしないのにデザインやりたいなんてねぼけている学生に才能が無い!」と進路を間違えないように厳しく言ってやってくださいと言われた。まあそうは言うが、僕も藤村君も「建築家になれない」と宣告されながらもなんとかそれで飯を食えるところまで来たわけだし、石山大先輩は巨匠の域である。一体どうしてよ?と思う。その答えは石山自ら書いている。曰く「・・・それよりもっと必要で、僕も一番難しいと思っているのは、建築や自分の好きなことを30年も40年も好きでいられると言うことへの方法的自覚なのです」。そう言えば同じようなことを山本想太郎君も本で書いていた。曰く「建築家とは建築家を続けられる人のこと」。まったく同感である。これはなかなか難しいことなのだが、どうしたら上手く好きでいられるかをずーっと考えていないといけない。それは配偶者をどうしたらずーっと好きでいられるかを考えることと同じである。相手がいつも魅力的と思えるには工夫がいる。うまく乗せて美味しい料理を作らせるとか、おだてていい作品を作らせるとか、、、そこからオーラが出てくるように操作しないといけない。建築もそうである。建築がいつも魅力的に見えるように工夫しないといけない。心の中の建築の灯が消えそうになる前に名建築を見に行くとか、別に施主はいないのだがひたすらドローイングをして達成感を得るとか、ああやはり建築ってこんなに面白いんだという気持ちをずーっと持続させるためにはそれなりの努力がいるのだと思う。

キリンと住む家

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by 卓 坂牛

朝アルゼンチンワークショップの打合せ。さあ後3カ月。急に学長裁量経費が削減されて予算が納まるか焦る。2コマめM2の修論ゼミ。午後3年生の製図。今日が最後のエスキス。残すは講評会。さてどうなるか?帰ろうと思ったら今月黄表紙を出す学生につかまった。ネイティブチェックを受けた1ページめの英文アブストラクトがよく分からないとのこと。読んでみると確かによく分からない。さて困った。再度書きなおしてネイティブチェックを受けることに。帰りのアサマで石山修武『生きのびるための建築』NTT出版2010を読む。どうして僕は石山修武なんて読むのだろうか?石山修武の建築を一つも見たことないし、ああいう形態に惹かれるわけでもないし、世田谷の展覧会を見に行ってないし、近づくと噛まれそうだし、、、、、でも秋葉原感覚とか彼の本は何冊か読んだことがある。どれも面白かった記憶がある。読み物として面白いから読んでいるのだろうか?なんてもやもやした気持ちで読み始めてなんとなく分かったことがあった。それは川合健二を師と仰ぐテクノロジストであり、流通や金に滅法強い石山がそうした側面と共存させているアニミズムへのこだわりかもしれない。すると僕はアニミズム崇拝なのか?というと僕の感覚をアニミズムというのは正確ではないかもしれないが、建築よりかはるかにそこから見えてくる外界全てに信頼があるという意味では全てに神が宿ると思っているし、全体より部分に信頼を置くと言う意味では細部に紙が宿っていると思うふしもある。そうした意味で石山の語りに惹かれる。ところでこの本の中に出てくるドラキュラの家とアライグマギンの家の話は傑作である。前者は(これは前から知っていたが)ゲイのカップルの家で窓も玄関も無く2階建の高さで1層ワンルーム。室内は鉄工場みたいである。子供部屋の話を始めて呆れられたそうだ。後者はアライグマを愛し、アライグマと二人で住む家。アライグマは窓が好きなのでアライグマの気持ちになってアライグマの好きな窓を考えたが分からなかったと言う。そうだろう。現代建築の様々な与件はもはや大学で習うことなど何の役に立たないところまで多様化しているのだと彼は言う。僕は今「幼児の施設」を大学で教えているが、幼児の好きな窓を考えろと言っても分かるまい。そんなことは調べがつかない。言葉も話せない幼児にアンケート調査することもできないのだから。アライグマと同じである。幼児の施設をやっているのはまさに多様化した現代建築のリクエストにこたえる一つの訓練である。石山はキリンと暮らす人が次に来ないかと期待したそうだが、テレビのCMでは既にそんなことが起こっている。幼児の施設の次は「キリンと住む家」というのを課題に出そうかな?

乱読の勧め

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by 卓 坂牛

午前中学科会議。終わったら昼。午後は院の講義。講義後施主へ送る資料作り。学内委員の雑用を終わらせてからゼミ輪読へ。今日は坂本さんと多木さんの対談『対話建築の思考』。21日のレクチャー前に少し予習をさせておいた。続いてhouse saを素材とした1時間設計。House saの空間の内外の連続性と平坦性を維持したまま螺旋ではない形式を挿入せよというのがお題。これを1時間でやるのは至難の技としりつつやらせてみる。案の定かなりひどい出来だった。まあたまには頭を使わないと。夕食後八潮の公園設計打合せ。出てくる考え方がなんとも凡庸。ランドスケープというとそれだけでもうお手上げという感じである。いくつかのアイデアを与えて来週まで6案作るよう指示。終ってから昨晩読みかけの加藤周一『読書術』岩波文庫(1962)2000を読む。先ず、乱読の弊はない、乱読は人生、乱読は我が楽しみと始まる。わが身を振り返りホッとする。速読術という章がある。同時に数冊、一日一冊読んでいた時期があったと言う。もちろん内容を全部汲み取るなどおよそ不可能。でも数時間マルクスに接したことになるし、数時間親鸞に触れられたことになる。それはそれで素晴らしい。なるほどそうかもしれない、先日の我が家を思い出す。
ある夜帰ると居間のテーブルの上に小沼純一、菊池成孔(きくちなるよし)、レヴィストロース、橋爪大三郎らの本がどーんと山積み。そのそばに菊池成孔のcdが置かれそれを開くと、おっと菊池のサインがあるsakaushiさんへとも書いてある。「どしたのこれ?すげぇー」と菊池ファンの僕は思わず驚く。かみさんが菊池と小沼の対談をどこかで聞いてきて余りに面白いので僕の本棚から二人の本を全部抜きとってテーブルの上に置いたという。因みに菊池が友人の大谷能生とタッグを組んで慶応で行った講義録は『アフロディズニー』というタイトルで売られている。彼の文才は驚くべきものがある。まるで音楽のような文章だ。「それでレヴィストロースは?」と聞くと今度は橋爪の講演会で構造主義を聞くと言う。一体この人どうしちゃったの?この脈絡のない知識欲。でもこれぞ乱読と同じかもしれない。そしてその本をとにかく読もうというこの姿勢は結構すごい。分からなくとも構わないし全部読む必要も無い。『悲しき熱帯』なんてこの大部の書を僕はまだ目次しか目を通していない。それを読もうと言う根性がすごい。まあ読むかどうか分からないけれど出して眺めているだけでもいいではないか。レヴィストロースにお近づきになっている。と加藤氏なら言うのかもしれない。
話しを加藤氏の本に戻す。分からない本は何故分からないかと言う加藤氏の分析が明晰である。先ず西洋哲学の類。これは往々にして訳が悪すぎる。そいうものは読むのを止めるか原文を読めと言う。これは正しい。哲学ではないが、ヴィドラーとかウィグリーなどの哲学的建築論は確実に原著の方が時間はかかっても分かる(とスチュワートさんにも言われた。というかそう言われたのでやってみたら正しかった)。悪訳は時間をかけても絶対分からない。なぜならそれは原文とは違うことが書いてあるから。次に加藤氏があげる二種類の本がある。一つは科学や数学。これは言葉の定義を知らないと読めない。しかしそれが分かれば誰でも理解できるようにできている。(そうは言ってもそれを分かるのが面倒なのだ)もう一つは小林秀雄のような美術評論。これは同様の体験をしていないと分からない。その通りだと思う。小林秀雄のモーツァルトは音楽好きにはすーっと読め、文芸に親しんだ小林ファンには分からなかったそうだ。
加藤氏の文章は実に明晰。こう言う文章を読むと頭が洗われたような気持ちになると同時に我が悪文を恥じる。

大塚英志に共感

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by 卓 坂牛

午前中のアサマで軽井沢へ。学会選集の現地審査で3つの建物を見せて頂いた。別荘と商業施設と企業の寮である。昨年もそう思ったが、建築の表現のレベルでの好き嫌いは置いておくとして、設計者とクライアントと施工者(は立ち会ってはいないが)の良好な関係がなければできないだろうなと思う点が多々あった。見終わってもう一人の審査員であるYさんとお茶を飲む。二人で感想等を雑談。上田まで車で送っていただきアサマで長野へ。そして研究室。雑用を終わらせてから読みかけの大塚英志の『大学論』を読み終えた。著者の教育方針は読めば読むほど僕の考えに近いなあと感じた。それは彼の「まんが」教育の非常に重要な部分にある制作のプロセス論である。プロセスと言うのは広い意味でのそれである(大塚はそんな言葉は使っていないが)。つまり、まんがのコンテンツを考え、それをどの様な構成でヴィジュアル化させ、そして編集され、どのような雑誌媒体に載せて世に知らしめ得るのかと言うところまで含めてまんがを捉えている点である。昔読んだ大塚の本にも物語はどのように書くべきかということが書かれてあったように思う。つまり内容ではなく方法にこだわっていた。まんがでも同じで、何を描くかよりもどちらかというとどう描くかに重点が置かれている。そして最終的に社会でそれを表現できるところまでを教え込む。だから彼の授業ではインターンシップが重要な役目を持っているようである。
建築意匠の教師は多かれ少なかれインターンシップを重要に思っているだろう。実践が第一。大学で教えられることなど限りがあると。だからその点を持って大塚と意見があうと言ってもあまり意味が無いかもしれない。そうではなく僕が大塚と似ていると感じることは建築意匠の教育にも方法論があってよかろうと思う点である。その昔の建築教育とは何も教えず、勝手に教師の真似をしろ的な考えが多かった。篠原一男も清家清や谷口吉郎は何も教えなかったと言っていた。しかし篠原一男と言う人は彼らを反面教師としたからか、建築を言語化しながらわれわれに教えようとした当時としては稀有な人だった。もちろん構造的に、機能的に、設備的にデザインの理屈を語る人はいたかもしれないが、純粋意匠を言葉にした人は少ない。単に「いいねえ」などと印象批評的な言い方でお茶を濁すようなことを避けようとしていた。そうした影響なのかどうかわからないが、僕が意匠を教えることになった時、同様の気持ちが自分の中で芽生えてきた。デザインの好き嫌いは別として、普段感覚的に納得したり拒否したりしていることが一体何なのか、それを体系化して学生に伝えたいと考えた。それが『建築の規則』を生み出す一つの動機でもあった。加えて建築意匠なんてやっていて将来どうやって仕事をする環境を獲得できるのだろうかということをもっと現実的に話して聞かせたいとも考えた。クライアントという人はどこからやってくるのか?設計料と言うものはどれだけもらえるのか?設計期間はどのくらいあって工期はどのくらいかかるのか?監理と言うのはどう言うことなのか?などなど。どうもそう言う話を概念的な建築論と平行して語って行かないと将来社会に出て仕事をし始める時に戸惑うし、大学で習ったこととの大きなギャップを感じ、結局意匠を止めてしまうかやっていても大学で考えたこととはまったく連続しない違う何かをするはめになるのである。多分その点はまんがも同じなのだろう。その意味で大塚がまんがを教える大学で先ずはそうしたプロセスを教えようとしてきたことに共感する。
アメリカにいた時にまさに設計プロセス論なる教科書があり、かなり有名な建物の設計料から工費からスケジュールから全てのデーターが網羅されていた。日本にはなかなかこんな本は無い。なければ作れと思い僕も『フレームとしての建築』を作った。まあこれは単なる僕の作品集ではあるが設計過程のスケッチや模型を載せられるだけ載せてそのプロセスを表わそうとした。僕はこれを教科書に製図の最初にシラバス外のことだが、数作品ずつこうした設計プロセスを語っている。クライアントは?工務店は?設計料は?本に掲載するのははばかられる内容もとにかく話す。でもそれもトータルに建築家という職能を分かるためにははずすことができないことなのである。

武田光史さんのコンプレックス

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by 卓 坂牛

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午後武田光史さんのオープンハウスに伺う。場所は中目黒。この駅に降り立つのは初めてかもしれない。目黒川のほとりにできたコンプレックス。2階までオフィスと飲食、3階から6階まで集住。ファサードに一工夫。オフィスの表情と集住の表情を一つにまとめるためにカーテンウォールでできた手すりが使われ、そこにアクセントとして戸境壁を色つきガラスで薄く入れているところ。これはやられたという感じである。戸境壁はたいていちゃちなパネルでデザイン的には見られたものではない。こんな色つきガラスを使うなんて気が付かなかった。と思って住戸に入ってみると。誤解だった。色つきガラスの奥にもう一枚壁がありそこに隣戸避難の壁がついていた。「ガラスは割れないよ!危ないし」と言われ、そりゃそうだと思う。ユニットにはメゾネットが一つだけ。「メゾネットを沢山作ろうかとも思ったけれど、階段の上下動は疲れるからねえ」と武田さんらしい。さらっとできた大人建築である。帰りは四谷でジム。久しぶりにヒップホップやったら思い切り疲れた。
行き帰りの電車で大塚英志の『大学論―いかに教え、いかに学ぶか』講談社現代新書2009を読む。著者は数年前から神戸芸術工科大学のまんが表現学科の先生になった。その教えぶりと学びぶりが描かれている。大塚さんも僕と同じく東京から通う。帰れなければホテルに泊まる。4時に起きて飛行機とか最終の新幹線で東京など、なんともハードな生活のようである。そして教えるのがとても楽しそうで、教えることへの情熱や、学生への愛情が伝わってくる。きっといい先生なのだろう。ただ5年目くらいまでは物珍しさや好奇心も手伝い教えるモーチベーションは誰でも高い。問題はその後。教えることも自己実現である。教えたことの効果がでてナンボのもの。撒いた肥料やら水で植物が育つのが見えればやりがいを覚える。見えなければさびしいし萎える。大塚氏もそういう感覚を持つ時があるかもしれない?いや氏ならば、効果が見えなければどんどんちがう教え方を考えていくようにも思う。そう、そうありたい。

スイス好き

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by 卓 坂牛

午前中早稲田の演習。倫理性と悪党性の話。悪党性とは時代の倫理感を批判的に検討せよということなのだが、講義を終えると一人の学生が質問に来た。「ベタに悪党的な建築はあり得るのでしょうか?」思わず笑った。神田に移動しクライアントと昼をとり事務所に戻る。事務所には塩山のクライアントが朝から来ていてスタッフと打合せ中。そこにジョインして6時まで。長い打合せだった。オープンデスクのS君の模型がほぼできたので皆でチェック。写真に撮ってフォトショでカラースキームへ。終ってスタッフと夕食。S君はクセナキス建築へのオマージュを修士設計のテーマにしたのだがその模型の長さは30メートル。凶気。なんでクセナキスと聞いたら「新雄太」の名前が出てきた。彼の影響だと言う。知ってるの?と聞くと彼の修士設計を手伝っていたという。びっくり。世の中狭い。その上建築の好みもカミナダ。スイス好きが多いね。最近。