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Aug 2010

スイス建築には人がいない

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by 卓 坂牛

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午後必要な本がありGAギャラリーに行く。凄く久しぶりにやってきた。2冊の本を買いたかったが一冊は在庫切れ。一冊買って帰ろうと思ったらオルジアッティの凄い本に出くわして買ってしまった。しかし、、、、この本アマゾンで調べたら買った値段の7掛け位で売っていた。ちょっとショック。本は一期一会なんてそろそろ思わないようにしよう、特に新しい本は。値段はさておき、オルジアッティのプランを見ているとどうしてこうも無造作に(見えるように)線がひけるのか、驚いてしまう。どうしてこんなに考えてないような(に見える)プランなのだろうか?作品集に篠原一男の住宅の外観写真が出ていた。オルジアッティが篠原ファンであることは有名な話だが、篠原のプランの方がよほど生活臭があるし、その空間写真も人の気配を感じる。オルジアッティの空間は(ケレツにもそういうモノを感じるのだが)、人を感じない。スイスと言う場所がそういうところなのかもしれない。僕の短い経験で今でも強く残っている印象はやはりスイスの建築は自然と対峙するものであって人を包むものではないのではないか??

ヨーロッパ建築検索サイトのすぐれもの

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by 卓 坂牛

ヨーロッパ現代建築のロケーションを調べるのは結構骨が折れる。日本語のガイドブックは情報量が少ない。もちろん現地のガイドブックを手に入れればそれに越したことはないのだが、金も時間もかかる。そこでネット。そういう情報がきっとあるはずと思って探し見るとなかなか優れものサイトを発見。MIMOA mi modern architectureという名のサイトである。http://www.mimoa.eu/都市名でも建築家名でも検索可能。住所、オープンアワー、予約の要不要、住所、マップ、行き方まで詳細に教えてくれる。これは便利である。ヨーロッパ全域を網羅はしていないが、行きたい都市が含まれていればこれは使える。
午後事務所で打合せ、壊れたA3プリンターの後をどうするかを皆で議論。新たなコピー機を導入するかという話まで行ったのだが、DELLのダイレクトメールを見ていてLAN対応のA3のオールインワン機が大安売りしているのを発見。これなら、かなりの事が出来そうで一気にその方向で話は解決。それにしてもこのブラザーの製品は3万円台。驚きの価格。安過ぎて心配である。

六本木で展覧会二つ

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by 卓 坂牛

午前中国立新美術館へ。かみさんが出品している「読売書法展」を覗く。3室3階分使っている。それでも出品者の半分しか展示できなくてもう半分は池袋に展示されている。日本の書道人口って半端なく多い。それに読売の向こうをはって「毎日書道展」というのもある。朝日はその双方の先生方を集めて20人展と言うのをやっている。新聞社あっての書道なのか書道人口に支えられた新聞なのか??午後僕は一人で21_21デザインサイトへ。佐藤雅彦の「これも自分と認めざるをえない」展をやっている。若い人たちが沢山いる。体験型の展示なので結構待つ。ある家の中に入る展示があった。10人くらい並んでいたが待って入ってみた。4畳半くらい。背中側に水槽が置かれている。なにもいない。全面側には手洗いシンクその上に鏡とコップ棚。そこには歯ブラシの入ったコップがおかれている。さてこの部屋で何が起きるのか?何も起こらない。水槽を覗きこむ。なにもいない。うーん。仕方なく鏡を覗きこむ。はああ。自分の姿が映っていない。その上後方にある水槽の中に金魚がいる。振り返って水槽をみると金魚はいない????佐藤雅彦流のウィットの効いた展示がいろいろ。楽しめます。
帰宅後やっと柄谷を読み終える。その後マイケル・サンデル(Sandel, M)鬼澤忍訳『これからの『正義』の話をしよう―いまを生き延びるための哲学』早川書房(2009)2010を読み始める。テレビでやっているハーバードの人気講義というわけで、売れているようだ。アマゾンではSMAPの本に続いて売上2位。功利主義とリバタリアニズムの丁寧な説明から始まる。大学の講義にしちゃカルチャースクールのように分かりやすい。

建築はルールの否定→揚棄という歴史だった

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by 卓 坂牛

午前中はポルトガル関係の資料や地図を読む。午後勉強会Geoffery ScottのThe Architecture of Humanism の2回目の読み合わせ。残りは僕とI君担当の第7章アカデミック・トラディションのみなので我が家で2人粛々と進める。
アカデミック・トラディションとはルネサンス時代に復活する、ウィトルウィウスの数学的比例などの当時の超越的な強い概念を指している。そしてそれに盲目的に従うことが当時の建築ではなく、それはあくまで一つの指針であり、豊かな感性こそがルネサンスの古典主義を作り上げていることを実証しようとしている。つまり概念ではなく直感ということである。
哲学の歴史を振り返れば、超越的な概念の存在(イデア)がギリシアでは探求された。木田元が言うように20世紀にはいって超越的なイデアを下敷きとしない反哲学が生まれ今ではそちらが哲学となっている。建築でも超越的なルールは常に感性で否定(揚棄)されてきた。スコット言うようにルネサンスがそうであり、最後のイデアであったモダニズムの教条も否定(揚棄)された。概念は否定されるためにあるようなものだ。21世紀の教条であるエコロジーは何を生みそれはどう感性で否定(揚棄)されるのだろうか?

色が及ぼす影響についての心理学者の御意見

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by 卓 坂牛

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ドアがゆらゆらと浮遊して、トンボへ変身していくさま
事務所でいろいろ打合せ、先日塩山のカラースキームを環境心理のY先生にお見せして御意見を聞いた。先日お話した時は児童養護施設という心の病を患っている子供たちに過度の刺激を与えないように原色や捕食の組み合わせは控えた方がよいというようなお話だったのだが、今日は一歩突っ込んだ面白い指摘をメールでいただいた。それは、短期的には単に過度の刺激を控えればよいのだが、長期的にはフラッシュバック(過去の嫌の思いを突如思い出すような現象)を抑制するように考えないといけないという内容である。具体的には例えば、「『橙色系(の色や形状)』から自傷の跡や過去に虐待を受けた器具の形状など、『紫色系(の色や形状)』から事故にあった人間を連想しないか、特に図と地が反転した際に浮かび上がる形は(特に大人には)予想がつかないので慎重に配置することが求められる」というようなことだった。そしてそれを回避するにはより具象的な図案の方がよいということだった。抽象的な図案は様々な連想を呼び起こす可能性があるからだろう。なるほどさすがプロの指摘。Y先生ありがとう。

ヴィエンナーレのアルゼンチンスペースalmos finished

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by 卓 坂牛

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朝一で教授会。あまり面白い話題ではなかった。終ってあっちこっちへメール打ちまくっていたら、信大のワークショップに10月やって来るロベルト・ブスネリからメールが来た。彼はヴェネィア・ビエンナーレのアルゼンチンの空間を作っている。金曜日のオープニングパーティを前にalmost finished。そこへ昨晩妹島さんが来たそうだ。なかなか生かした空間。テーマはLugares de encunetro 出会いの場である。それにしても最近妹島さんを様々なメディアで見る。もう安藤を抜いちゃったかね?午後雑用を終わらせてアサマに乗る。長野は大雨、上田は晴れ、佐久平を過ぎたら大雨、軽井沢は晴れ。凄い天気だ。事務所に戻り塩山のカラ―スキームを見ていたらマテウスの住宅(a+uのスペイン特集のマテウスの住宅の写真が白なのに光線の加減でパステルカラーに輝いて見える)を思い出した。ポルトガル行きたいなあ。

都市計画は政治経済

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by 卓 坂牛

7時半のアズサで塩山へ。このアズサは始発ではなく千葉発。加えて終着が松本ではなく南小谷。そのせいで登山客でごった返す。塩山に9時前に着き施主定例。今日は一月練ってきたインテリアカラースキームの第一弾を1/30の模型で説明。各階の色相を変え、各ユニットの動植物キャラを決め、その上で部位と色味をずらしながら断片化し空中に浮遊して動植物キャラに変身するデザインを説明。その面白さや楽しさは理解してもらえた。上手くいきそうな予感。施工者は頭を抱えているが。
午後甲斐に移動。住宅の現場。野地板が貼られルーフィングも終り平瓦が現場に届き屋根に上げられていく。この現場は早い。
夕方のアズサで僕は長野へ、スタッフのT君は新宿へ。車中柄谷行人の『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』岩波新書2006を読む。あらっ、この本先日読んだ同著者の『世界史の構造』の新書ヴァージョンだわ。こっちを先に読めば良かった。
柄谷本を読みながら昨日読んだ都市計画本を思い出した。そこではこれからの計画の重要な要素としてマーケット、コミュニティ、コントロールが取り上げられていた。これはよく考えるとそれぞれ資本、ネーション、国家に対応している。つまり世界と言うものは規制をかける側(それが国家だったり都市だったり)と規制を受ける側(ネーションだったり、コミュニティだったり)そしてそれを媒介する一要素としての金というものがあるということである。この3つの要素の転がし方を考えるのが政治であり、経済なのだろうが、それらが都市計画の基本でもある。ということは都市計画とは政治であり、経済でるということにもなる。もはや建築なんていうちっぽけなジャンルからだけで操作できる領域ではない。まあこんな回りくどい言い方をしなくても自明のことかもしれない。中国のあの恐ろしい巨大都市が瞬時に生まれるのはまさにこの3つの駆動のスピードのなせる技なのだし。

大学での一日

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by 卓 坂牛

午前中キャンパスマスタープラン会議。施設課の部長課長が異動になり新任の方たちに今までの経緯を説明。癒着防止のために役所の異動はつきものなのだろうが、本当にこれで癒着が解消されているのだろうか?癒着は引き継がれるということもあると聞く。建築のように継続性の高い場所は少なくとも5年くらい異動しないで欲しいものだが。午後市役所で新市民会館の建設委員会。今日は敷地を何とか決めたいという市に対して、拙速である、検討時間が足りない、あるいは市が推す場所が2転3転することへの不満から承諾できないという意見が多かった。ここまで反対意見が多い状態では市は提案へのさらなる真摯な説明責任があるだろう。急いで大学に戻る。審査をした博士論文の著者が僕の意見に対する丁寧な修正案を持って説明に来られた。社会人博士で環境省の方である。いろいろ聞くと箱根ポーラ美術館の国立公園内での建設認可に関与した方だった。あの建物がああいう風に素晴らしいものになったのは自分の自慢でもあるとおっしゃっていた。この方の論文は戦後国立公園の進展に関するもの。つい話が箱根の話になった。国立公園も地方都市同様。園内への車の進入を規制して公共交通機関を充実させて安くしたらどうだろうと提案したら賛同を得られた。箱根はまたべらぼうに高い。続いてアルゼンチンに留学中の学生の母親が来研。夏休みに(向こうでは冬休みだが)娘を訪ねて一カ月滞在してきたとのこと。ブエノスアイレス話で盛り上がる。10月ワークショップで来日してもらうロベルト・ブスネリからこちらでの展覧会のための写真データーや本を持ってきてくれた。アルゼンチンワインとお菓子まで持ってきてもらい恐縮する。お菓子を学生部屋に。JACS住宅設計コンペ(審査員、吉田健介、TNA)で協賛賞、優秀賞を受賞した学生たちへ御褒美http://www.jacs.cc/moushikomi/index.html。夜のアサマで東京へ車中小林重敬『都市計画はどう変わるか』学芸出版社2008を読む。うわこれはえらく観念的な本である。Controlだけの都市計画から、MarketとCommunityがこれからの都市計画には肝要であるということはよくわかった。しかしそうなると町づくりは一筋縄ではいかないなあ。

空けるデザイン

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by 卓 坂牛

朝から事務所。午後お茶の水で打合せ。事務所に戻り、プロジェクトの打合せ。施工図、見積もり、カラースキーム。まだ施工図の承認ルーチーンがドタバタしている。地下を終わらせてなんとか1階からはスムーズにいくようにしたい。
夜『都市のクオリティ・ストック』を読み終える。道路・用途・密度の町づくりからコリドー・配置・かたちの町づくりを提唱し、更に埋めるデザインから空けるデザインへと主張する。これは名言。どこに何を作るかではなく、どこに何を作らせないかをデザインするのである。続いて佐藤滋、後藤晴彦、田中滋夫、山中知彦『図説都市デザインの進め方』丸善2006を続けて読む。こちらは著者のお仕事を体系化したものである。なるほど実践とは様々な切り口があり、実に興味深い。質の高いストックを利用する低成長時代の町づくりにおいて、一体質とは何か?その探し方(構想)があり、それを造景(形に)し、それらを編集する事例が満載である。両方の書に共通するのは「かたち」である。20世紀の町づくりが単なる機能の効率的な結び付け方だったことへの反省が伺える。

車なしで生活できる町へ

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by 卓 坂牛

松本で一泊し、今朝あずさで東京へ。社内ではぐっすり眠ってしまった。新宿紀伊国屋に立ち寄る。建築のコーナーが7階になってとても広くなった。『建築の規則』の隣に『フレームとしての建築』も置いて頂いているのには驚いた。都市計画がらみの本を2冊購入。帰宅して、そのうちの一冊、林良嗣・土井健司・加藤博和 国際交通安全学会土地利用・交通研究会編著『都市のクオリティ・ストック土地利用・緑地・交通の統合戦略』鹿島出版会2009を読み始める。「コンパクトシティを超えて」と帯に書かれている。そこで提唱されていることは建物群と緑地と交通システムである。都市人口が減少していけば、現状の都市を維持していくのにかかる一人当たりの費用は増加するのは目に見えている。それは低成長時代には明らかに矛盾する。
昨晩柳澤に長野市は駅から南北徒歩10分圏内のゾーンの商業施設の上を集合住宅化して、農業従事者以外は全てそこに低家賃で住まわせ、車は禁止しトラムを走らせ、10分圏外はすべてリンゴ畑にすれば良いと言ったら笑われた。まあ半分冗談としても都市のコンパクト化を考えないとまずいと思う。地方都市は車なしでは生活できないと言われ、一軒で何台もの車を持つのが普通だけど、それを先ず改善しないとだめではなかろうか?信大でもそうだけれど殆どの先生は車でやってくる。自転車しか使わないなんて僕ぐらいである。車があるから大型スーパーができる。大型スーパーがあるから車が欲しくなる。堂々巡りである。