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Sep 2010

シザとカルトラバに衝撃

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by 卓 坂牛

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今日は今まで世界の建築見てきて一番衝撃的な日だったかもしれないな。そう言うとちょっと大げさかもしれないけれど、別に衝撃的だから、それに強く影響されるという意味ではないし、心底惚れたという意味でもない。つまり、これまで見てきた建築は事前情報による予想の中に概ね入っていたのだけれど、今日見た二つの建築は予想を絶するものだったということだ。ああ!建築ってここまで行ってしまうんだという衝撃である。
カルトラバは写真で知っている範囲では大して気になる人ではなかったのだが、本物見るとすごいよな。ブエノスアイレスの橋もそうだった。しかし今回のオリエント駅はそれを超えている。複雑な機能がとんでもない形の連続でパズルのように噛み合っている。そしてとにかくでかい。シーザのリスボン博ポルトガルパビリオンの例のRCのサスペンド屋根も予想をはるかに上回り全然体感スケールが大きいのだ!!この二つはほとんど隣り合って建っており、そしてその巨大スケールが噛み合っている。。こういうのをついオーバースケールって言ってしまいそうだが、そうてはない。オーバースケールってスケールが間違って大きくてちょっと不快っていう感じだけれど、このふたつはまったくそういう感覚にならない。ヨーロッパの人って大きいスケールを心地よく作れるのだということが今日分かった。これは広場のスケールを伝統として持っているこちらの人に染みついているものなんじゃないかな?日本人は難しいよね。実際問題こんなスケールは日本の都市構造では生まれようがないのだけれど。がんばってやってみたお台場なんてひどいものだ。身体的に広場のスケール持ってない役所(といってもその内実は日建かもしれないが)が作り出しているのだから。リスボンイクスポの跡地は実に大小のスケールが人に心地よくできているのにはびっくりした(小さいスケールも連続的にあるのだ)。さてヨーロッパ行ってそんなカミロジッテみたいなこと言ってどうするの?って怒られそうだけれど、そんなスケール感さえ持ってない僕ら日本人は可哀そうだ。いや日本人なんて言わず結構自分が哀れに感じられた。

漱石と綿矢

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by 卓 坂牛

1時半のKLMでアムステルダムへ飛ぶ。11時間もの自由時間。まずは昨日読み始めた『文化人とは何か』を通読。どれもこれも面白いのだが全体を通じて編者の意図する「ある専門的な活動における人称性は、それ独自でというよりも、それを流通させる仕組」に依存するという状況が編者が言うほど深くは読み込めなかった。というより、そんなこと大体知っているという程度で終わってしまった。ちょっと残念。機内食食べて、空港で買った二冊の恋愛小説を読む。先ずは綿矢りさ『勝手にふるえてろ』文芸春秋2010。この人、文芸春秋賞受賞作『インストール』を書いたのが17歳。それを読んだ時ファンになった。その後おそらく3年に一冊のスローペースで本書は4作目?片思いの彼とこちらを向いてくれる彼の狭間で揺れ動く女性の内面を描く。一度こちらを向いてくれる彼を振り切るものの最後は片思いの彼を忘れ「自分の愛ではなく他人の愛を信じるのは、自分への裏切りではなく、挑戦だ」というポジティブな思考で終わる。続いて夏目漱石『こころ』。先日飲んだ高校の先輩に昔読んだ本を読むとしみじみ分かると言われ『こころ』が話題になった。夏目漱石はどれもこれも中学生ころはよく分からなかったが果たして今読むとピンと来るだろうか???同じく三角関係のストーリー。漱石の文章を読み返すとこの人の文章は実に論理明晰、一点の曇りも無い。綿矢がポジティブに終わるのに対して漱石はネガティブな結末。歳とったからジーンと来るようなところは多々あるけれど、しみじみ分かると言うところまではいかない。それにしてもあるコンテンツを表現するのに文章が多い。綿矢の2.5倍くらいの字数。この内容なら綿矢くらいの字数で書かれているほうが僕の好みだなあ(決して漱石を悪く言っているのではありません)。そうこうしているうちにアムステルダム、スキポール空港へ到着。10何年ぶりにやってきたが不思議なもので一回でも着た場所は体が空間を覚えているもの。凄―く懐かしい。ここからリスボンへ飛ぶ。

初めて使うクローバー柄の特殊型枠

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by 卓 坂牛

数か月ぶりに雨。暑いのも嫌だが雨はもっと嫌いである。8時半のあずさで甲府へ。車中南後さんにお送りいただいた『文化人とは何か?』(南後由和+加島卓編)東京書籍2010を読み始める。社会の表層の色を塗り替えていく「文化人」と呼ばれる人種の大解剖である。面白そうな磯崎のインタビューを読み始めたところで深い眠りに落ちてしまった。台風がいったいどんな経路で移動していたのかよくわからないが、甲府についたら雨はやんでいた。午前中住宅の現場。屋根もトップライトもサッシュも付いていた。順調な進み方である。今日台風が来ても大丈夫という状態だったが、雨は降らなかった。
午後塩山に移動し施主定例。外壁のクローバがらの特殊型枠見本が届きクライアントと見た。縦横20センチくらいのクローバーが5ミリ出っ張り、縦横15センチくらいのクローバーが5ミリへこんでいるそんなクローバーが壁面の窓と窓の間の壁面に風に舞ったように散らばっている。コンパネにこういう柄のメスパネルを張り付けてコンクリートを打つことになる。クライアントはなかなか納得しない様子。うるさいのでは?汚れがつくのでは?部分だけでは全体感がわからないなど。そこで事務所からフォトモンタージュをメールしてもらいお見せした。多少理解が深まり。かろうじてGOサイン。とは言うものの、我々としてもまだ細かな部分で確信が持てていない。クライアントが帰ってから引き続き打ち合わせ。6時半の電車で東京へ。車中ずーっと特殊型枠を使う壁面の見え方を議論。事務所に戻りスタディの方針を打ち合わせる。僕のいない間に作るべき模型とその順番を決め適宜メールで写真を送ってもおらように指示し帰宅。

住宅データベース

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by 卓 坂牛

夕刻高校の建築同窓会。長野に行くようになってからこの会には義理を欠いてきたので行くことにする。事務所のKさんも同窓なので一緒に出かける。この会の最近の幹事をしているのは僕らの二つ上の先輩。どういうわけかそこには多くの建築設計者や大学の先生がいる。その中に東大の生産技研の所長もいて彼の掛け声で生まれた勉強会があるそうだ。そこでは日本全国の住宅のデーターベースを集めようとしている。初めて5年たったのだがどのくらい集まったのだか???彼の発想は建築を正当に評価するデーターの集積。設計期間、概要、敷地状況、などなど。それに協力しているのが構造計画研究所の社長Hさん。構研の社長が先輩とは恐れ入った。お話させていただきびっくり。構研は構造の会社だと思っていたらもはやそうではないらしい。それにしても新しい会社には600人も人がいるそうだ。生き延びる力を感じる。そもそも社長はボスコン出身だからさもありなん。2次会は新宿のハイボール180円の居酒屋。とある先輩の娘は今年エールの建築に進んだとか。クーパーも受かったけれどエールに決めたそうだ。外国に行ったこともない高校生がいきなりこの二つ学校に受かるというのもびっくり。でももっとびっくりはイェールの授業料。寮費込みで年間500万だとか。アイビーリーグってそんなするの?この円高でも???とある先輩に坂牛のブログは読むのが疲れると言われたので今日はこんな飲み会のよもやま話。

少子化を前提とした街を作らざるをえないのか?

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by 卓 坂牛

8時からアルゼンチンWSの展覧会会場構成の打ち合わせ。市内の蔵を借りて展覧会とシンポジウムを行う予定。アルゼンチンから送られたデーターの中から会場の構成を考えながら展示マテリアルの取捨選択。
9時から学科会議。夏休みだというのに案件が多い。今日は12時に帰ると宣言していたのにいつになっても終わらない。ついに教授会は12時を超える。都内3時半の打ち合わせにぎりぎりのアサマに飛び乗る。車中赤川先生の『子どもが減って何が悪い』を読み続ける。この本は、仕事と子育ての両立支援を行い、男女共同参画社会を目指せば少子化が止まるという一部の主張を否定する。さらにもし女性が主婦になり、帰農するような社会になれば少子化減衰の可能性があることをデーターをもとに説明する。つまり日本を50年前に逆戻りさせれば少子化は止まるというわけだ。しかしそれはあり得ないことである。加えて、現代の自由社会において最も頼るべきロールズの格差原理が子育て支援を救済の対象にはし得ないという最後の否定が行われる。よって著者の結論はあくまで今後の社会は少子化が前提であるということになる。
少子化は政策で回避できると僕は考えていた。その可能性を見事にすべて否定されてしまった。著者の論理に破綻があるのかどうかは今の僕にはわからない。しかしもしこれが正しいのであれば僕ら建築屋もそうした見地からモノを考えていかなければなるまい。先日友人のブンヤと飲んだ時、「地方都市はもっとコンパクトにしていかないと破綻する」と主張すると、「これからの街は老人が歩いて暮らせる街になるはずだ」と賛同いただいた(彼は老人の孤独死などを団地取材から問題視してきた)。僕らはこういうことをもっともっと具体的に考えるときになっているのかもしれない。

カタルシス

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by 卓 坂牛

昨晩僕の配偶者と娘は国立競技場に某アイドルグループのコンサートを聴きに行った。半年近く前から様々な方法で応募をして奇跡的に手に入れたチケットだそうだ。日中36度まで上がった東京は夕方になっても結構な暑さ。昼間は家で仮眠など取りながら体力を温存しコンサートの3時間にかけるあの入れ込み方は僕の理解を超えている。サッカーは好きだけれど、死ぬ気でチケットを手に入れたいとは思わないし、コンサートにしても、これまでカラヤン、小沢と難しいチケットを手に入れて聞きに行ったけれどかなりの部分は義務感のようなものだった。彼女たちの熱狂は馬鹿みたいと言えばそうなのだが、一生に一度くらいそんな気持ちを味わいたいものだと少し羨ましくなってしまった。精神のカタルシスは対象の問題じゃない。午前中起きてきた二人の顔は爽やかである。そんな二人を残して僕は長野に向かった。車中、赤川学『子どもが減って何が悪いか!』ちくま新書2004を読む。著者はちょっと前まで信大にいらっしゃったが東大に移られた。社会構築学的立場から言説分析を行ってきた人である。建築における言説分析の参考にゼミでは著書をいろいろ読ませていただいた。信大におられる内に一度お会いして教えを乞えば良かった。ちょっと残念である。「いつまでもいると思うな親と金」に先生も加えないと。

アーキテクチャはルーズであるべき

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by 卓 坂牛

朝暑くて目が覚めて寝られなくなった。北田暁大編『自由への問い―コミュニケーション自由な情報空間とは何か』岩波書店2010を読む。最近自由とか正義とかの本が続く。
近頃よく耳にするアーキテクチャという概念がある。アーキテクチャとは我々の行動を規制する物理的環境と言われている(物理的環境といってもネット上の規制も指すのだが)。たとえば CDのコピーコントロールのようなものや、大学を取り巻く塀などを考えてみよう。この場合、我々はCDをコピーできないし大学のキャンパスに入れない。それはそういうことをしてはいけないというルールがあるからその行為をしないのではなく、端的に物理的にその行為ができない状態にあるからしないのである。つまり「アーキテクチャ」のもとでは行為の自由が最初ら与えられていない。このことを北田は「アーキテクチャは、私たちから自由の剥奪感そのものを剥奪するのだ」と表現している。この指摘は重要である。僕らは知らぬ間に不可視のアーキテクチャに包囲されて、ありうべき自由空間を見失っているかもしれないということである。レッシングはネット空間の中でのそういう規制をルーズなものにせよと指摘したがリアルな空間でもそうあるべきと僕には感じられる。禁止事項があるのはいいとして、その禁を破る可能性とその場合に起こる事態に人々の想像力が及ぶべきである。もし多くの人々がその想像の結果それを望みかつそれが正しいことであるならば、その禁は外されるべきである。しかし最初から禁の可能性が見えない世界では我々は可能性の一つを鼻からどぶに捨てていることになってしまうわけである。それは惜しいことだ。

マイケル・サンデルを読み、我を振り返りその無意味さを思う

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by 卓 坂牛

僕が建築を今こういうかたちでやれているのはなぜだろうか?多少建築の才能があったからだろうか?学生時代に製図の成績が上位5人くらいの中にはいたのだから他の人よりかは製図に関しては多少才能のようなものがあったと言えるかもしれない。といったって高々50人のクラスの上位一割である。日本全体で見たらそんなものを才能と呼べるのかは謎だ。しかし僕はその才能のかけらのようなものを努力して磨こうとしたかもしれない。それに関しては多少の自負もある。ちょっとした才能と努力。それが僕の今の基礎にある。ではその才能と努力は僕という人間が保持している輝かしい価値なのだろうか?それによって大儲けして(なんてことは考えにくいが)豊かな暮らしを十二分に満喫したとしてそれは当然のことなのだろうか?職を失って貧困生活に喘ぐ人たちがたくさんいたとしてもそれは才能と努力が足りないといって打ち切れるのだろうか?
ジョン・ロールズの考えに従えばそうはいかない。才能はたまたま授けられたものであり、それは僕が偶然手にしたものである。では努力は?それこそ僕固有の資質ではないか?と思いたいがロールズはそう言わない。努力する資質は育った環境や親の教育によって身に付いたものであり、自分が自ら培ったものではない。つまり才能と努力は偶然と周辺環境によって授けられたものであり、それによって達成されたさまざまなことは僕が自信を持って僕のものだという権利はない。とロールズは言う。しかしだからと言ってそれを全部放棄せよということも言わない。ロールズの格差原理とは「個人に与えられた天賦の才を全体の資産とみなせ」というのである。
塩山の現場定例の行き帰りの電車でマイケル・サンデル『これからの『正義』の話をしよう』を読み終えロールズ理論を我が身にあてはめてみた。天賦の才などあるわけないのだが、思考実験としてあえてあると考えてみた(とりあえず失業して苦しんでいるわけでもないのだから)。しかし仮に僕のちっぽけな才能を社会全体の資産とみなしたところで才を持たない者の状況など改善する余裕はこれっぽっちもない。いや建築なんてやっている人間で才能のありそうな多くの人を想像しても、彼の彼女の才能が全体のものだとしても状況は全く改善されないだろう。というわけででこういう思考実験の対象とするべきはこの業界の人間ではないし、まして僕という人間でもない。

野沢北高校で出張講義

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by 卓 坂牛

午前中のアサマで佐久平へ。小海線に乗り換えて中込。駅前で昼をとって野沢北高校へ。年に数回頼まれる県内の高校へ出向いての出張講義。去年は長野西高校で行った。そうしたら今年の四月の合格名簿みると長野西高校から建築学科に数名入学した。出張講義を聞いた生徒さんなのかどうかは定かではないが、その可能性は高い。それなので今年も僕の講義を聞いて受験してくれればと思ってやってきた。建築の楽しみと題して、自作を紹介しながら、何に苦労して、何に喜びを覚えたか、などなど語る予定だった。30名程度の受講生。プロジェクターとスクリーンを用意して頂いたのはありがたかったのだが、残念なことに、部屋が暗くならいのであった。この良い天気の南の部屋にはさんさんと太陽が降り注ぐ。カーテンはシーツのように白い。スクリーンに映し出された建物はおぼろげにしか見えない。ちょっとショック。高校の先生はあまりパワポなどは使わないのだろう。
終わって今朝来た道をもどり小海線に乗る。うとうとしていたら佐久平を乗り越してしまった。まずい。慌てて降りた駅で逆向きの電車を待つ。もちろん無人の田舎駅。1時間に一本しか電車の来ない単線路線。日陰に入って自然の中でマイケル・サンデルを読む。いやいやこの本ベストセラーになるのがよく分かる。カントの自由と道徳の説明なんて天下一品。やっと実践理性批判が理解できた。

ドンキホーテ公園

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by 卓 坂牛

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午後から八潮のワークショップ。5大学がスカイプを駆使して3つの公園基本構想を作成した。遠く離れた人どうしで案を作るというのはなかなか面白い経験だと思う。1.4haの敷地に150あまりのアクティビティを想定して。それぞれの場を作ると言う案がある。これはなかなか凄い。平均すれば一つあたりの面積は100㎡である。住宅の敷地のようなものだ。150の住宅(地)が密集したような公園である。槻橋さんがこれはドンキホーテのような公園と言ったがまさにその通り。人々は公園の中を探検してそれぞれ自分の場所を探し出すわけである。でも人々はドンキホーテ公園を喜ぶか????