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Jan 2011

統計のウソ

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by 卓 坂牛

事務所でスケッチを描いて模型を作ってもらい、そしてまたスケッチを描いて模型を作ってもらう。模型を作っている間ダレル・ハフ高木秀玄訳『統計でウソをつく法』講談社ブルーバックス1968を読む。昨日読んだ『社会調査のウソ』が言っていたことは殆どその原則がここに書かれている。どうもこの本インチキ統計処理の教科書のような本らしい。だいたい60年代の本が未だに丸善に平積みなのだから名誉ある定本であろう。サンプルに偏りがあるとか、平均値と称して中央値を使っているとか、グラフの尺度を変えて針小棒大にみせるとか、同時に起こっているから因果関係と言ってしまうとか。なんと馬鹿げた。と言いたいところだが、考えてみると学生たちは平気でこういうことをやり先生はついつい騙されてしまう。学生は悪意なくnaïveにこういうことをやってしまうから罪が軽いのかもしれないけれど、それを見破れなかったら先生は大罪である。気をつけないと。

社会調査、生物多様性、免疫力

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by 卓 坂牛

谷岡一郎『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ 』文春新書2000を昨晩寝ながら読んだ。なるほどと思うことが多々あった。著者は名指しで新聞発表の社会調査のウソを指摘していく。普段何気なく信じているような記事がなるほど信用ならないことに気づかされる。続きを楽しみにしていたのだがその本をマンションに忘れて大学へ。研究室でM2の梗概をチェックして一人ずつ説明して返す。夕方のアサマで東京へ。車中、井田徹治『生物多様性とは何か』岩波新書2010を読む。この人ジャーナリストだけど文章が平坦で大学の報告書みたいである。生物多様性はとても重要な問題でありそうなことはよくわかるのだが、知らない生物名と巨大過ぎる数字に戸惑う。魚が取れなくなって打ちひしがれる漁民の悲哀なら切実は問題として響くのだが、、、、人間の問題にならないとなあ、、、、、想像力の欠如かもしれない。
東京駅で丸善によって久しぶりにゆっくり本を見る。宅配を頼み一冊だけ持ち帰り風呂につかりながら読む。安保徹『疲れない体をつくる免疫力』2010。およそすべての病気は交感神経と副交感神経のバランスが崩れた時に発生するというのが著者の主張。常に中庸がよく極端がいけないというものである。デザインと同じだ。

タイガーマスクが政治を動かす

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by 卓 坂牛

朝一のあずさで塩山へ。施主定例の後、金箱事務所、テーテンス事務所によるコンクリートの打ちあがりと設備機器の取り付け状況の検査を行う。
この建物は児童養護施設で施設の子供たちは現在近くのマンションを借りて仮住まいをしている。そこにもタイガーマスクは訪れたそうだが、このタイガーマスク騒動で厚労省は今日付けで「児童養護施設等の社会的養護の課題に関する検討委員会」という委員会を設置した。ここでは施設基準の見直しなどを検討するそうである。この仕事を始めてから日本の子供行政はお寒いものだということをクラインとから教えてもらい、本で読み、そして設計をしながら感じてきた。子供の個室の基準は一人当たり一坪である。だから天井を高くして机付きベッドを家具工事で作りなんとか狭い部屋に入れて生活できるようにした。この委員会で検討されればおそらく一人当たりの面積は増えるであろうし、指導員も増強されるであろうし、むろん国家予算も少しは(少なくとも今年は)増えるのであろう。
そうしたことは嬉しいことだし、歓迎すべき一歩なのだとは思う。しかし役所の検討がこの善意の寄付騒ぎによるものだとするとちょっと寂しいではないか。こんな偶然のようなきっかけが無ければ政府は動かないことをあらわにしている。どうも日本の政策にはそういう傾向が多々見られる。常に世論の批判を浴びないように火消し的に政策が打ち出されていくのである。もう少し主体的にヴィジョンを持って政策提示をし、実行して欲しいものである。

タイルは落ちる

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by 卓 坂牛

先日、日建の元上司Yさんと食事した時に恐ろしいことを聞いた。Yさんの設計した有名な建物のタイルがよく落ちている(た)そうだ。「モザイクタイルはだめだな」とおっしゃる。そうだろう小さなタイルは蟻足も小さいし落ちやすいのだろうと聞いていた。僕がYさんの下で設計した九州のKビルは特注の2丁掛けタイルでこれは落ちることもないだろうと思っていたら「あれも落ちて何度九州まで足を運んだことか」という。えええっ!!あのタイルは蟻足もがっちりしているしなんたってPC打込みだよ。「PC打込でも落ちる」。じゃあどうしたら落ちないの???「タイルは落ちる」これが結論みたいに言われた。
次に防水。「アス防はもはやあまり、、、」と言う。そうだよなあ、だいたい押さえコンがあると漏った時場所が分からないし、直すのに押さえを引っ剥がすのが大変だ。僕もアクアラインの人工島の床直径200メートル塗り防水した。で何使うのですか??「FRP」。えっ??FRPで数回失敗している僕としてはちょっと意外。「まあ要は施工者よ」と言う。もっともですね。どうも建築の技術的な問題を語ると最後はそうなる。しかし毎度施工者の腕頼みなんて、毎回くじ引くみたいで冷や冷やものである。

whatever nothing

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by 卓 坂牛

帰りの新幹線で週刊文春を開いたら言霊USAという英語の話が目をひいた。今週のキーワードはwhateverである。それもイラつく女性が使う場合のそれである。ふがいない彼が彼女のためにこれしてあれして、それで、、なんてずれまくっている時にwhareverと言われたら終わりであるらしい。「どうでもいい」「勝手にすれば」という意味である。もう一つこれに似た怖い言葉がnothingだそうだ。女性の機嫌が突然悪くなりその理由に気づかないぼけ男が「怒っている」なんて聞いてnothingと言われたらこれも終わりだそうだ「べつに」ということである。
さっきまでやっていたゼミでこんな言葉を吐く状況にならなくて良かったとホッとする。昨晩4年生の梗概に赤を入れながら寒い研究室の中でハラワタが煮えくりかえって体が熱くなった。梗概を直さないのは①直す能力がないのか、②直す気が無いのか、③私の言ったことが通じてないのか、のどれかである。①の場合もはや彼らに期待できない、②の場合彼らを改心させる時間が無い、③の場合理解させ書き直させるための時間がない。というわけで昨晩と今朝必要最低限、できの悪い留学生だって書かないような日本語を僕が書き直し、今日のゼミではこちらの言いたいことを1時間言い尽くして終わりにした。もし彼らと対話すると最後にはきっとwhateverとnothingを連発するイラつくアメリカ女みたになっていただろう。賢明な選択だった。

センター試験終了

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by 卓 坂牛

雪のため開始時刻の変更があったけれどセンター試験無事に終了。2日間の監督と言うのはしんどいようにも見えるが、考えようによっては結構楽しい。監督というのはいろいろとやることがあるけれど、一日中すべての時間を試験に集中しているわけでもない。とはいえ、本は読めないし、スケッチは描けないし、cpuや携帯には触れないからあるのは頭だけ。でもその頭が自由にものを考えている時間は結構ある。
建築でも文章でも構想を練る時はスケッチをしたり、キーボードをたたいて、それでちょっと立ち止まり考えるものだ。そしてこの何もせずに考えている時に頭の中が活性化して全体がまとまったり、いい案をおぼろげながらつかみ取ることがあるもの。
そんなわけでこの二日でいろいろと考えていたことが少しだけ前進した。センター試験さまさまかもしれない。さて終わって研究室に戻って学生の梗概を読んだら相変わらずの文章にいやになった。こうなると指導力の問題なのだろうか???帰ろうと思っているのだが外は一向に止む気配のない雪。僕が6年前信大に最初にインタビューを受けにきた時もすごい雪で驚いたがそれを越す積雪である。このまま明日の朝まで降り続くのだろうか?家までの道は除雪されていなければ40センチは積っているだろう。運動靴では心もとない。

原っぱと遊園地のあいだ

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by 卓 坂牛

民家を改造して作ったグループホームを鷲田清一が称賛していた。そのエッセイに青木淳の原っぱと遊園地の話が出てくる。遊園地は人の行動を先回りして施設計画されているが原っぱとはそこで集まる子供たちの偶然の出会いが新しい営みを生むという例のエッセイである。で、青木さんが称揚する原っぱとは何もないホワイトキューブみたいなものかというと、そうでもない。そこには人の行動を誘発するようなモノがごろごろしているのである。たとえば工場を改造して作るギャラリーを考えてみる。これはギャラリーとして計画されていない以上先回りして計画されたものは何もない。しかるに工場として使われていたさまざまな空間や物質が残っている。そしてそうしたモノの機能性や計画性はすべてキャンセルされる。それでもそうしたモノは消えるわけではなく残滓のごとくへばりつき人を誘うのである。
鷲田が示すグループホームでは、人は民家の生活施設をそのまま継続して使うのだから機能がキャンセルされているわけではないのだが、それらの機能はそこに住む人を想定して作られたものではないのだからあるものはキャンセルされるかもしれない。しかしキャンセルされても上述の通り残滓として人を誘う何かになる。しかし大方は継続使用されるので原っぱではないだろう。しかしでは遊園地かというとちょっと違う。同じ機能でも今までとは違う人が使うし、見知らぬ人同士が使うのである。鷲田はそれを再度「編みこまれる」と表現していた。つまりここは遊園地的な人の行動を先回りする物もない一方で原っぱのようなタブラ・ラーサでもないのである。その中庸をいくようなまた少し新しい場の生まれる可能性の見えるところのようだ。

風邪から逃げる

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by 卓 坂牛

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昨日の長い会議で雑菌をもらっただろうか?からだが重い。事務所でボーっとしながらスケッチを書いて模型のスタディをスタッフのS君と進める。午後、甲府出張から一泊して帰ってきたT君が腹痛に顔を歪めている。Kさんは風邪で声も出ない。ここにいるとやばそう、、、危機感!!いくつかスケッチを渡して仕事をやめた。今晩体調を崩すと明日のセンター試験監督が務まらない。こんなことは長野で働き始めてから初めのことだがホテルに泊まることにする。極寒のわがマンションでは確実に体調悪化しそうだから。駅前のサンルートを予約してから事務所を出る。8時半のアサマに乗り車中大竹文雄『競争と公平感』中公新書2010を読み始める。最近弱者救済のストーリーばかり読んでいたのでその逆意見も手にしてみた。週刊ダイヤモンド2010年の<ベスト経済書>と帯に書いてある。日本人はなぜ競争が嫌いなのかとも書いてある。そう日本人は嫌いだね競争が。というか努力が嫌いなのだよ、もはや。

村上隆の考えにかなり賛成

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by 卓 坂牛

午前中事務所で打ち合わせして午後学会で審査。1時から7時半まで。こんな長い会議って滅多にない。終わって皆で食事して帰宅。昨日丸善で面白そうだと手にした村上隆の『芸術闘争論』幻冬舎2010を読む。
現代芸術をめぐる画商とかサザビーズとかクリスティーズの本は読んでも芸術家自身の言葉はあまり読んだことが無かった。でも、やはりアーティスト本人の本音は面白い。その中に現代芸術鑑賞の四要素というのがあった。それらは
① 構図
② 圧力
③ コンテクスト
④ 個性
だそうだ。これ結構建築に近いところもあるなあと思う。まあ僕の考えでは構図はないのだが、圧力はある。これは圧力と言うか僕の言葉でいえば表現の強度というものであり、見る物を圧倒する力である。それは執拗な表現の反復だったり、とんでもない手の痕跡だったり、まあその方法はいろいろあるが言ってしまえば表現の力である。次にコンテクスト。これは建築でいうコンテクストではなく、アートシーンの中での作品の連なりのことである。つまりこの白い箱は少し西沢立衛のようだが窓の開けかたは藤本のようであるというように、デザインがどういう潮流の上にあるかということである。村上が言うように表現とは自分の好きなことを自由にすることではない。あるシーンの上で何が受け入れられるかということである。僕も大学でよく言う、君たちが好きなものを自由に作ってはいけない。小学校のころ国語の先生が作文の時間に「自由に書きなさい」と言い、図工の時間に「好きなものを自由に描きなさい」というのは全く無意味である。そんな指導で言い作文やいい絵が描けるのは奇跡的な天才でしかない。絵だって文章だってその方法を緻密に教えてもらなければ書けないし描けない。そしてその技術がつき、その次に売れるようなものを書いたり描いたりするためには売れるものは何かを考えるしかない。僕も製図の時間に売れる家を設計してくださいという。そのためにはあなたが欲しい家を設計するのではない。と注意している。これは村上の言うコンテクストである。そして最後に個性である。もちろん個性がないことにはどうしようもない。でも個性だけでアートも建築もできるものではないということである。
さてそうなると僕は村上隆に全面賛成かというとそうではない。かなりの部分近いかもしれないけれどやはり違う。その違いはやはりアートと建築の違いなのだと思う。村上よりもう少し長い射程で自分の作品を考えていると思う。

ロマネスク装飾発展法則

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by 卓 坂牛

リーグルは古代オリエント、ギリシアの唐草模様の発展を『美術様式論』において探求した。バルトルシャイティスは『異形のロマネスク』においてロマネスクの唐草模様の発展を導いた。それは波状唐草→それが二つ合わさりハート型→それが横に繋がりX型という発展である。そしてさらに面白いのはこの植物から始まる装飾の発展類型の中に、動物、怪物、人間もデフォルメされて鋳造されたという点である。古代ギリシア、ローマにおいて人間の形で重要なのは比例でありそれが建築をも形づくったわけだが、中世に入り人間の形状はそうした解剖学的な比例を捨象した想像の世界の中に飛翔するのである。それは建築も同じである。もはや比例という概念では作られなくなる。
それにしてもシャイティスのこの本は気が遠くなるようなスケッチの量である。徹底して手で書きとる中にある種の法則性を見つけていった。この方法論に圧倒される。こういうやり方で現代の局面を切り取れたら面白いのだが???