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Feb 2011

自立できない若者

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by 卓 坂牛

一級建築士の定期講習に行った。9時から5時まで結構長い。殆どが法律改正に伴う新たな事項の説明だが、ここ数年の仕事の中で直面した事項ばかり。まあおさらいである。しかしよくよくテキストを見るとこの講習は事務所に所属している人の義務であり大学の教員などはこの限りではないとのこと。無理に来る必要もなかった。
授業の合間に岡田尊司『なぜ日本の若者は自立できないのか』小学館2010を斜め読む。著者は発達障害の臨床医であり、若者が自立できない理由として初中等教育における多様な子供の型に対する画一的記憶教育をあげ批判する。そして子供には以下の3つの型があると説明する。
① 視覚空間型―行動的で、感覚的で瞬間的な反応や処理に長けている。
      例えばスティーブ・ジョブズ、安藤忠雄などなど
② 聴覚言語型―聞き取り能力に長け、共感性や情緒的反応が豊か、具体に関心が向く。
      例えばバラク・オバマなど
③ 視覚言語型―言語記号が好きで抽象概念に強く完璧志向。
      例えばビル・ゲイツなど
この3つのタイプに対し画一的に③に適合した言語記憶教育を押し付けることが間違いの始まりだと言う。教育なんてそんなものだろうと言うのは間違いでオランダやフィンランドでは子供自らがカリキュラムを作るような教育がなされているそうである。そしてそのフィンランドがOECDのPISAテストで1位2位を独占したのは記憶に新しい。しかしだからと言ってそういうことをいきなり日本でやれるかどうかも分からないしやることがいいかどうかも分からないのだが、多様な子供に画一教育が間違いだと言うのはつくづくその通りだと思う。僕も中高のころそういうスタンスの教師には腹が立ち授業は聞かずスパイク磨いていた。そしらた外に追い出されたのだが、追い出されてせいせいしたものである。
僕は初中等教育の教員ではないからこういう問題には手がつけられないのだが、そこで不適切な教育を受けた挙句に発達障害を起こしてしまった学生と直面するのである。そんな子供が大学まで来るのか?と聞くかもしれないが昨今頭がいい(マークシートには答えられる)のに障害を抱えた子はどんどん増えているのである。常勤のカウンセラーが雇用されているくらいである。本来初中等教育の抜本的見直しをすべき問題なのかもしれないけれど、大学まで来た彼らを少しでも軌道修正させてあげる道があるとするなら、まさに画一化してない教え方しかない。自由に考えさせ自由に語らせる。そういう場所を作ってやるのがせめてもの大学教員の役割かもしれない。

大学破綻

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by 卓 坂牛

午前中長野からのお客様。先日もらった要望を取り入れた案を説明しご理解いただく。荒木町で昼食をご一緒し別れる。午後栃木の子供施設のスケッチ、打ち合わせ、マンサード屋根と切妻がぶつかるとどういう稜線が出るかを考える。かたや模型を作り、かたやフォームGでモデリングする。
検討の合間を縫って、諸星裕『大学破綻』角川新書2010を読みながら憂鬱な気分になる。日本の大学は778あるのだがこの10年で1割は消滅すると書かれている。危ない大学は学生数1万以下の小、中規模大学のようである。ちなみに在籍中の信州大学は11446人、4月に異動する東京理科大学は20755人でありどちらも大規模に属している。
もちろん大きければ安泰というわけではない。重要なのは教育力と研究力であるが、経営的視点で考えれば教育力の方が重要である。その意味で教員一人当たりの学生数はそれを示す一つの指標である。ちなみに教員数は信大1228人に対して、東京理科大は728人。よって教員一人当たりの学生数は信大9.3人、理科大28人である。国立と私立にはこういう差が歴然とある。しかし私立大学は非常勤講師でこの差を補っている。非常勤は経営的安全弁ではあるものの、研究没頭教育棚上げ型常勤教員よりはるかに教育熱心であるからこの数字が教育力を直截示すものとも言い切れない。
さて教育3極化(上位大学卒、普通大学卒、高校卒)の時代に大学はそれぞれのミッションを持つべきだと言うのが著者の主張である。それはこの著者に限らず、昨今の一般論のようであり、大学はそうしたミッションの再考をせまられている。しかし加えて重要なことは教育にかかるコストの低減である。著者はその遂行に向けて教員の質の向上以上に職員の質の向上を訴えている。とにかく大学とは無駄の塊である。民間会社から来た人なら皆そう思うはずである。場所も人もシステムもルーズに管理されている。その無駄がゆとりと感じられる部分もあるのだが、そのために浪費されているものも計り知れない。こういう問題に教員は興味が無い。一方職員は決定権が少ない。この実情では何時まで経っても無駄の宝庫はそのままである。

教育格差

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by 卓 坂牛

下宿学生の仕送りが80年代並みに下がったというニュースが流れた。一方で学費は80年代並みにはなっていない。橘木 俊詔『日本の教育格差』岩波新書2010を読みながらこのニュースを思い出した。現在の日本の不況は仕送り以前に、経済的理由で子供の進学を断念する状況を生んでいる。まるで戦後の大学進学率10%代の出来事のようである。
僕が入学した1979年、国立大学の学費は144000円。現在は50万を超えている。この上昇率は物価上昇率をはるかに上回る。そしてこの高騰は私大のそれよりはるかに大きい。
信大で学生の留学先をいろいろ調べながらつくづく日本の教育は国民任せであることに腹が立った。本書の統計を挙げだしたらきりがないが、例えば、OECD諸国との比較を見てみよう。教育機関への財政支出のGDP比は28カ国中27位で3.3%(平均4.9%)同じく教育機関への財政支出の政府総支出比は28カ国中28位で9.5%(平均13.3%)である。とにかく教育は自分たちで勝手にやれよというのがこの国の方針である。
今年アルゼンチンとリヒテンシュタインへ学生二人が旅だったが学費は殆どただである。ヨーロッパ系の大学はごくわずかの例外を除いて学費は国が負担しているようだ(進学率が低いということもあるようだが)。一方アメリカは高いので選択肢に無かったが本書によればアメリカの奨学金制度はかなりよいようでもある(僕はその恩恵にはあずからなかったが)。小泉純一郎という人はアメリカの真似してネオリベラリズム的教育方針を打ち出したのだが、この奨学金のことは頭から抜け落ちていたようだ。
豊かな社会を作る上で教育がどういう役目を持つべきかは単純ではないが、少なくとも家庭の経済状況で教育が受けられなくなるような社会であってはいけないと思う。

人は社会を変える力がある

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by 卓 坂牛

午前中は書類書き。資料を掘り起こし10枚くらいをやっと書きあげる。午後事務所。模型見ながらスケッチ、、、、、、そろそろ大きな模型をいじりたいところである。
夜親父の本の残りを斜め読む。その昔聞かされていたさまざまな言葉が断片的に目に飛び込む。いろいろ書いてあるが、要は人は社会を変える力を持っているということに尽きるように感じた。その後、門脇厚司『社会力を育てる―新しい「学び」の構想』岩波新書2010を読む。著者は筑波大学名誉教授の教育学者である。日本の現在の教育が子供の社会における力を育んでいないことを嘆く。彼の提唱する教育は社会力をつけること。社会力とは社会性と似て非なる概念のようである。社会性とは社会に順応する性質であるが、社会力とは社会を変えていく力なのである。はて、先ほど読み終えた親父の書は煎じつめれば「人は社会を変える力がある」ということであった。門脇氏はその力をつけるのが教育だと言う。偶然二つの書が繋がった。確かに今、僕たちは与えられたレールの上を進むと思ってはいけない。自らの頭で考え自らの欲する社会を目指すことが必要なのである。それはテレビや本に書いてあることではない。自分の頭で考え抜いたものなのである。

雑木林に作る―子供と老人の融合

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by 卓 坂牛

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午前中事務所で雑務。年末は書かねばいけない書類が大量にある。一日じゃとても終わらないのだが、少しずつ手をつける。午後今度の仕事の共同設計者であるTさんと打ち合わせ。Tさんとはその昔SDレビューで入選した横浜博覧会住友館を設計した間柄。我々の設計案を持っていき説明。だいたいの方向性を決める。
敷地の奥に既に設計の終わっている老人の施設があり僕らの設計する子供の施設の中を通ってアプローチをさせようと考えた。果たして老人と子ともの融合は可能か?まるで学生の設計のようなべたなコンセプトだがクライアントもその気だから可能性を追い求めてみたい。
事務所に戻り長野のプロジェクトの敷地が少し大きくなったことをファックスで知る。それに合わせた修正案を考える。
夜父親の著書を読み始める。日本の資本主義はたかだか140年。有史以来人類はさまざまな経済システムを変化させてきたのに今なぜ矛盾を抱えながらこの経済システムを維持する必要があるのか?その必然性の希薄さから話は始まり、夏目漱石、宇宙の発生、物理学の法則まで登場し妙に説得力がある。

長野マンションがらんどう

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by 卓 坂牛

朝、学生3人とその友達がやってきて家財道具をすべて彼らに差し上げそのまま運び出してもらった。あげるのは申し訳ないようなものもあったがそういうものは捨てるようにお願いした。お掃除もしてもらい、すっかりきれいになった。
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●長野じゃよくある1Kの間取りである。このKが2畳くらいの不思議サイズ
大家さんと不動産屋さんが来るまで小一時間がらんどうの部屋で本を読む。のだが、、、寒くて寒くて凍えそうである。
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●そして1は畳敷きの小さな6畳間
立ち会いをしてもらい、鍵を返して敷金の清算をしてもらう。契約書に書いてある通り、クリーニング代と畳表の張り替え代を引いたら残りは3000円。敷金が無くなるようにできている。この寒いマンションにもう来る必要が無いと思うと嬉しいような少し寂しいような。
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●外観は結構堂々としている
夕方のアサマで東京へ。車中宇沢弘文の『社会的共通資本』を読み終える。彼の言う社会的共通資本は農村、都市、教育、医療、金融となるのだが、その中での農業行政に対する批判は少々考えさせられる。曰く農業行政の一番の間違いは農業を工業と同等な経済性を得られるものとして、一農家を一企業と同等な資本主義的効率性で競わせる考え方にある。そして農業を農の営みと呼び、これは人間が衣食住を満たすための基本的な営みなのだと指摘する。さらに自らの一高時代の経験より、都市居住者が農村居住者と交わることでいかに心を豊かにしていったかを訴えた。なるほど農村が農村のままではいかんそれが都市と交わる接点を作らないといけないと改めて思う。
事務所に戻り明日用の模型と図面を見る。少々修正を依頼して帰宅。

長野のマンションともお別れ

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by 卓 坂牛

最後の研究室合宿を終えて長野のマンションへ戻る。明日はこのマンションともお別れである。赴任した時は駅の近くの宮本忠長さん設計の打ち放しの新築マンションに住んだ。1kだけれど結構1が広かった。角部屋だったから寒かったけれど新築だから最低限の断熱はされていたと思う。2年過ぎて一月10日も過ごさないのに5万の家賃はもったいないと思いもう少し安い所を探して今のマンションへ移り住んだ。ここは14階建ての堂々としたつくりだが古いせいか家賃3万2千円と破格だった。しかしここは古いせいかおそらく断熱があまり入っていないのだろう。かなり寒い所であった。この寒さともお別れと思うとほっとする。赴任した時無印良品ですべてのものを買った。一人住まいセットなる冷蔵庫、洗濯機、電子レンジの3点セットの中で使ったのは洗濯機だけ。冷蔵庫も電子レンジも電源抜いていた。ベッド、羽毛布団、枕、プラスチックケース6つ、プラスチック書類建て8つ、スリッパ、掃除機、椅子、机、スタンドライト、カーペット二つ、ビーズクッションなどなど、明日はこれらのものを全部学生にあげてこの部屋を出る。

二人のローマ法王の回勅

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by 卓 坂牛

事務所での打ち合わせを終えて夕方のアサマに乗り宇沢弘文『社会的共通資本』岩波新書2000を読む。ゆたかな社会とは何かを考える書である。その冒頭は経済システムから始まるのだが、それを考える上で著者は二人のローマ法王の言葉を引用する。最初は1891年に出されたレオ十三世の回勅である。それは「レールム・ノバルム」(新しきこと)と題され19世紀末のヨーロッパが直面した問題を「資本主義の弊害と社会主義の幻想」と特徴づけた。二つ目はそれから100年後1991年ヨハネ・パウロ2世による「新しいレールム・ノバルム」と題された回勅である。それは「社会主義の弊害と資本主義の幻想」をテーマとしたものだった。
19世紀後半資本主義国はマルクスの予言通り多く社会主義に転じるのだが法王レオはそこでの移行へ警鐘を鳴らした。そして100年後マルクスの予言を逆行する現象(社会主義の瓦解)をヨハネは予言するだけではなくレオの言葉を流用しながら再度逆の警鐘を鳴らすわけである。その後社会主義国が相次いで崩壊し一方資本主義もリーマンショックを始めとする問題に直面する。余りに見事なこの二つの予言に溜息が出た。
これに関連する話だが、昨晩帰宅すると父親の新しい著書が届いていた、タイトルは『日本はどこへ向かうか』である。本を開いてもいないのだが、内容は現在の世界資本主義に対する警告であろうことは想像に難くない。宇沢氏の描く豊かな社会と親父の描く日本の向かう先がどのように重なってくるのか分からないが80を超える二人の考え耳を傾けてみたい。

ぶっ飛ばない修士設計

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by 卓 坂牛

さて今日は修士論文設計発表会。発表会連ちゃんである。さすが修士は大人だね。この時期の2年は大きい。先生の質問に勇敢に立ち向かうやつも多い。だいたいはずしているんだけれどたまに的を射た答えも返ってくるところが修士である。
さて我々の部屋4人いて全員論文付き設計。今年は純粋論文なし。昨日のぶっ飛び学部設計とは異なり少し大人である。
①ハンス・ユルグ・ルッホのintervention(介入)概念を基に数百の介入型建築事例のタイポロジー化を行いそのいくつかを用いながら工場を美術館に。梅干野先生にするどくつっこまれた。「結局ハンス・ユルグ・ルッホで創っているんじゃないの?論文の分析は生かされているのですか???」
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②生物概念に基づく市庁舎の設計。彼粘菌の研究ずっとしてたのだけれど、どういうわけか最後は巻貝になっちゃった。 「もっとべたに巻貝みたいな方がいいんじゃないの?可愛らしくて人気出るんじゃない??」とある教授に冗談とも本気ともつかない突っ込みを受ける。
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③一室空間住居の数百の事例分析に基づき長野市役所の設計。全部可動壁。「本当に動くのかこの可動壁????」と思いつつ。これも膨大な分析がもうひとつ生かされていないよな。
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④アナロジー手法の分析の末、鳥の巣使って小学校設計。小学校でこういうことすると子供が登って落っこちるのだよ。違う施設でやりなさい」とある教授の鋭い指摘。おっとそれに気付かなかったのは指導教官の責任だな。アナロジーで具象と抽象の中間を狙ったデザインとしては理解できるね。
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学部生はわけもわからず論文のようなもの書いてその論文と制作がもう一つ繋がらない。それで勝手にぶっ飛んでいる。一方修士は少し連続性をつけるべく必死にもがくのだが論文が創造の加速器にはなれないで終わっている。知性の無い四年はぶっ飛べて、知性がついた院生は飛べない。建築ってこんなもんだなあ。でも知性つけて飛べるようにならないとな。
修士発表会の後は毎年手伝ってくれた下級生を招いて40人くらいの大パーティなのだが、今日は事務所に直行で戻る。車中菅原克也『英語と日本語のあいだ』講談社現代新書2010を読む。この先生東大で英語教えているのだが、現代英語のコミュニケーション力重視の指導方針の中で、文法、読解軽視に疑義を呈する。大賛成。英語の授業を英語でやるなんて日本でやっても無意味。中学校で外人に英語を教えてもらうのも無意味。そういう教育は毎日2時間英語漬けみたいな状況で始めて意味を持つ。日本なら徹底して文法と読解やった方がいい。英語を話したり聞きたかったりするならさっさと英語使っている国に行った方がいい。東京駅で丸善寄って宅配頼み事務所へ。

ぶっ飛び卒業設計

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by 卓 坂牛

今日は9時から卒論と卒計の発表会。信大は論文か設計の選択だが、設計は僕の研究室以外は殆どやらない。今年は最後だから(いや別にそこに因果関係はない)悪く言えば地に足が付いていない。よく言えば斬新である。午後4時ころ発表会が終わり、展示室の方に行ったら構造の先生が横に来て「今年はぶっ飛んだ作品が多いね」と一言。
①服飾制作原理で建築を作ろうとか
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T先生の質問「雨降ったらどうするんですか?雪は?ゴアテックスなら分かるけど、、、」
②バタイユのエロティシズムを造形原理にしようとか、
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T先生の質問「禁止の侵犯とは何を侵犯しているんですか、、、?」
③スラブだけで学校を作ろうとか、
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だれかの質問「音はどうなっているんですか?」
④身体を意識する偏差のある空間とか、
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誰かが質問していたなあ、、、、
⑤人の敷地に自分の家の一部分を作らなければならない開発ルールでできた町の計画とか、
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Ta先生の質問「ルールを作るのは勝手だけれど建てる人が嫌だっと言ったらどうするんですか?」
どの先生もよく質問してくれたものだ。感謝しないと。そしてそれに対して笑っちゃう答え連発。ああ面白かった。質問は門外漢のナイーブなものではなく、本質的なのだ。こういう素朴な質問にスパッと答えられれればこういうことやる意味と信念を感じるんだけどなあ。
こちらも付き合いきれないところはあったけれどまあ何とか終わった。発表もリハのころは「こいつ分かってしゃべっているのかよ?」と思うくらいの非論理性だったがまあ聞ける状態にはなっていた。
何のチャレンジもないただの建築を見せられるよりはるかにスリリングではあったのだが、、、、、せめて完成品を出してくれ、、、、
夜は明日の修論発表会を前に主査論文を読み直し審査報告書の下書きを書く。そしてまたスケッチ描いて事務所に送る。