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Mar 2011

原理か現実か

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by 卓 坂牛

午後金箱さん来所。1時から4時ころまで。大枠は固まった。
夕方理科大の山名さん来所。4年生の製図の進め方を議論する。3時間くらい話しただろうか。話しが盛り上がったのは原理をつくるのが現実を見つめるのか?と言う話。
僕:学生の課題として原理を導き出せればそれだけでも価値はある
山名:原理は現実の中にあるはずで、現実を作りながら原理は見いだせる。もちろん原理なき現実は価値が無い。
僕:4年生の段階でそこまで達するのはなかなか難しいのでは?現実に浸ると原理が見えなくなる。
山名:それは分かるけれど、でも原理は原理だけ考えても出てこない。現実を追求する中で原理が見えてくるものだ。
夜鈴木さん来所。
今日はお客さんが多い。

ウィキリークス

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by 卓 坂牛

午後一で栃木県庁打ち合わせなのだが湘南ライナーが運休中なので宇都宮線に乗る。これで行くと結構時間がかかる。いつまでもこの状態が続くのだろうか?
車中菅原出『ウィキリークスの衝撃―世界を揺るがす機密漏洩の正体』日経BP社2011を読む。震災で影を潜めたがちょっと前までは衝撃的な事件だったように思う。これを読んでこの団体のネタは投稿によって成り立っていることを初めて知った。投稿者の秘匿権が憲法で定められているスウェーデンに本拠地を構え寄付者の秘匿権が法で定められているドイツに銀行を持ちと言うふうに国際的な法の網を熟知して作られている団体である。こういう団体の是非は僕には判断付かないが、ノルウェーの国会議員がウィキリークスをノーベル平和賞に推薦したというニュースは記憶に新しい。
宇都宮で餃子を食べてから県庁で打ち合わせ。塩山の施設では役所から設計への注文はまったく無かったのだが、今回は新築ということなので県も心配してさまざまなことを言う。老婆心である。その後役所の会議室を借りて施設長と打ち合わせ。設計への注文が延々続く。事務所に戻り打ち合わせ。今日はとても疲れた。

世界に映る日本の津波

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by 卓 坂牛

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アルゼンチンの建築家からのメール。彼の友人の建築家であり絵描きであるRoberto Frangellaが描いた日本の津波そして4日ぶりに助けられた赤ちゃんの軌跡

ホンマタカシB

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by 卓 坂牛

美術手帳の4月号がホンマタカシによる金沢21世紀美術館での展覧会を特集している。そこに平倉圭さんが批評を書いているのを発見。彼はアーティストであり教育者でもある。リーテムのアートイベントではアーティストとして参加してくれた。最近『ゴダール的方法』という注目の本も上梓した(いただいたが未だ読めないでいる)。そんな彼の論考は本間の2重人格に触れそのタイトルは「ホンマタカシB」である。もちろんそこにはホンマタカシAが登場する。理性的なAと狂気のBが交叉することを平倉は読み取ろうとしている。そして狂気とはここでは「真と偽の区別あるいは事物の同一性がたんに本当に消えること」と規定している。つまり真と偽の区別が消えるホンマを消えないホンマが受け取るという複雑な構造を平倉は読み取っている。写真は真を写すと書きながら一般にそうならないと言われる。特にホンマのそれはそうならないとは美術館で行われた対談で椹木 野衣も指摘する。しかし一方で妹島和世はこう言っている「ホンマさんは人があるとき、ある場所にふつうに出かけていって体験すること、本来見るモノを・・・写している・・・その時にあるものを撮ってくれる」妹島の感覚ではホンマは真なのである。しかし所謂真実とは違う。普遍的真実ではなく、ある時間のある人にとっての実存的な真である。このある時間のある人にとっての真が平倉の言い方を借りれば狂気のホンマとそうでないホンマの交叉点に現れると言えるのであろう。
しかしそうした概念的な言い方とは別に僕にはもっと技術論に興味がある。一体どういう風に写真を撮ればそういう風になるのだろうか?昨日上田さんと一緒に僕もいろんな写真を撮っていた。それはもちろん建築写真である。しかも設計者がこうありたいと思って撮っているわけである。だからもちろん真実ではありえない。しかも妹島言うところの「ある場所に普通に出かけていって体験する本来見るモノ」でもあり得ない。そう思いながら昨日撮った写真を見直した。駄目だなあ全然。いつかは自分でもそんな虚心坦懐な写真が撮れたらなあと思うのだが、、、
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●こういう建築写真が無意識に陥っている嘘
その①構図。こんなフェンスが優美に曲線を描いて見える場所はある一点である。
その②こんな風にフェンスが光り輝いて見えることは肉眼ではない
その③そもそも冬の寒空のこんな時間にこんな場所に人はあまりいない

「機能消費」と「つながり消費」

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by 卓 坂牛

朝一のあずさで塩山へ。撮影。大きな建物の撮影は時間がかかる。普通は建築的に重要なカットしか撮らないのだが、児童養護施設という発展途上のビルディングタイプなので記録的に殆どの部屋を撮影した。未済工事の工事中で周囲の工事車両をあっちこっちに動かしてもらう。夜景が撮り終わったのは7時過ぎ。しかし朝日で撮りたいカットが残ったのでカメラマンの上田さんにはもう一泊してもらうことにした。
僕は夜のかいじで新宿へ。車中佐々木俊尚『キュレーションの時代―「つながり」の情報革命が始まる』ちくま新書2011を読む。情報革命(ツィッターなどの)がもたらす消費行動の分析が面白い。大衆消費社会が終わりマス情報に規定された記号消費の終焉は既によく言われていることだが、著者はその先として「機能消費」と「つながり消費」をあげている。前者は言うまでもなくユニクロのようなブランド記号の価値を捨象し機能性に特化した商品の消費のことであり、後者はネットなどを通じて口コミで広がるピンポイント的な消費をさしている。もちろん著者は後者が更に伸びていくだろうことを予言している。さてどうなるだろう?衣食住を考えれば食はかなりその傾向があるだろう。理由は食べ物は見本が無いから。では衣はどうだろう?衣は試着できるのだから人の意見はあまり重要でもないのかもしれない。では住は?建築家の優劣がツィッターで呟かれたりするだろうか?良くも悪しくもそれは不気味。

「春風や闘志いだきて丘に立つ」   虚子

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by 卓 坂牛

午前中事務的雑用。メールチェック。母親から久しぶりのメール。転職先に行く私の心境を慮り高浜虚子の詩が添えられていた「しゅんぷうや とうしいだきて おかにたつ」。何時までたっても母親は母親。こういうときにいつでもさりげなくこちらのエンジンにガソリンを注いでくれる。
昼食を家族ととった後デザートにケーキが出てきた。そのケーキの上のチョコレートに「信大ご苦労様、理科大頑張って」と書かれてあった。あれあれ親・子・娘で示し合わせたように、今日は何の日?
夕方中沢康彦『星野リゾートの事件簿』日経BP社2006を読む。軽井沢の星野リゾートを始め。日本全国の経営不振のリゾートを傘下に入れて復活させてきたその実態が描かれている。青森の古牧温泉がそのひとつとして描かれていた。ここは祖母の料亭を贔屓にしてくれていた渋沢栄一の書生杉本さんが創業した巨大ホテルである。祖母はある時期杉本さんの依頼でここの総支配人をしていた。そんなわけで僕も幼少のころここに来たことがある。でもそれきりである。
去年、東さんが設計した星野リゾートの商業施設を見学させていただいたことがある。その時星野リゾートの方が自信を持っていろいろと説明してくれたことを覚えている。働きがいのありそうな職場だなあと感じたが、この本では常になんでも言えるフラットな組織を目指していることが強調されていた。昨日読んだユニクロとはかなり違うようである。リゾートの質は僕には分からないけれど、星野社長が言うように、星野リゾートは日本で日本人の手によって一流のホスピタリティを作る努力をしているのだろう。

ユニクロ 対 ZARA

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by 卓 坂牛

午前中久しぶりに森美術館に行く。天気がいいので家族を誘ったら皆やってきた。僕は美術館をさーっと通り過ぎるように見ることが多いのだが、うちのかみさんは僕より少しじっくり見る。娘は舐めまわすように見てまた戻って見たりする。だから館を出たのは1時を回っていた。昼をとってからヒルズのTSUTAYAの本屋で買い物。この本屋は僕が欲しいものは売ってないのだが、たまには自分の興味のない本を買ってみようと10冊くらいかごに入れて家に帰る。風呂で横田増生『ユニクロ帝国の光と影』文藝春秋2011を読む。ユニクロはGAP, ZARA, H&M, などと同様製造から小売りまで一貫して自前でやる洋服屋である。こういうのをSPA(specialty store retailer of Private label Apparel)と呼ぶそうだ。ユニクロはGAPになりたくて頑張りGAPを売り上げで追い越したが、それを追い越したのがZARAである。ZARAはユニクロの1.5倍の売り上げで1兆を超し。従業員は世界70カ国に9万人いてその8割が正社員。一方ユニクロは3万人の社員の内正社員は3千人だそうだ。ZARAの強みはどこか?彼らは今時の製造会社が行う人件費の安い所に縫製をさせるという方法をとらない。ほとんどすべてスペインの本社まわりの自前の工場で作っているそうだ。そこにデザイナーも集結させてあり、徹底して客のニーズをつかみ2週間で新製品を作り出し、どんどん品を入れ替えていく。そしてその最先端のデザインをユニクロの倍の値段で少量だけ売っていく。ちなみにデザイン変化のスピードはユニクロ1年、H&M40日、ベネトン60日だそうだ。目にもとまらぬ流行の掬い上げで単価を下げないでも売れるということが面白い。

私立と国立の違い

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by 卓 坂牛

午後一で理科大N先生の研究室へ。僕が引き継ぐ場所である。捕手のKさんと新しい捕手のT君も同席して予算のこと、事務処理の概要、残された備品の数々を教えてもらう。
予算は国立大学から比べれば雲泥の差である。残された備品を見ると、6年前に信大に行った時の状態に比べればこれも月とすっぽん。信大に行った時は本当に何もなかった。でも意匠の部屋に別に欲しいものは無かったので構わないのだが、予算が無いのは参った。プロッターはあるけれどインクが買えない状態。学生はお金を出し合ってプリントアウトしていた。毎年年度末は赤字に冷や冷やしたものだがこちらでは黒字に冷や冷やするのだろうか?事務処理の方法はどっちもどっち、やたら面倒くさそうである。民間企業を少しは見習ったらどうだろうか?時間の感覚が教育機関にはない。時は金なりなんだけれど。そして私立の悲しいところは狭小スペース。信大ではB0判くらいの30ミリのベニヤを買って全員の机を置けた。こちらではそれは夢のまた夢。1年目は院生がいないからまだいいだろうけれど来年からはちょっと厳しい。でも都会の私立大学では普通のこと。その中でやりくりするしかない。いろいろな意味で私立と国立は違いがいろいろあるものだ。
夕方事務所に戻りTさんと打ち合わせ。昔ながらの「えぐい」ドローイングを持ってきた。懐かしいなあ。20年前と全く変わっていない。三つ子の魂百までだ。
夜A0メンバーのA君が送ってくれた博士論文の序を読む。タイトルは「分離派建築会の展開」建築学科ではなく美学芸術学科で書かれたものだけに人文系独特の言い回し(まるで佐々木健一の『美学辞典』を読んでいるようだ)で概念規定がきめ細やかである。加えて建築を超えた対象の射程が広そうである。

鶴岡真弓さん曰く「装飾とは非現実の追及」

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by 卓 坂牛

昼に事務所を出て塩山へ。施主検収である。理事長、園長、建設担当の職員3名に3時間ほどかけて見ていただく。キッチン周りに透明シートを貼る。傘立て周りに防御ポリカを貼る。幼児ユニットの出隅にRをつける。などなど指摘事項は結構たくさんあった。しかし最後の講評では多くの感謝の言葉をいただいた。思わず涙。その昔日建の先輩が「設計というのはこの最後の感謝の言葉をもらうためにやっているようなものだ」と言っていた。当たらずとも遠からずである。
帰りの電車の車中鶴岡真弓『装飾する魂』平凡社1996を読む。装飾とは自然界の花や鳥、木や雲などもあれば直線、渦巻き、丸、四角など自然界に無いものもある。これらの装飾モチーフが装飾になるには厳守されるべき鉄則があるという。それは装飾化するとはそれらの事物の非現実的姿を追及するというものである。鳥であればあり得ない鳥の姿でなければならず、水であれば自然の水が作らない形を持ってなければならない。抽象化された形においては無限の反復であったり、という具合である。
このあり得ない姿を藤岡は人間の知覚の臨界と表現している。「知覚の臨界」魅力的な響きである。着物生地の鮫小紋、アルハンブラのアラベスク、キリンビールのキリン、伊万里焼の唐草、北斎の波、などなど、なにかそこには発案者に迫る非現実への強迫観念のようなものが滲み出ている。

理科大非常勤の先生と打ち合わせ

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by 卓 坂牛

朝の宇都宮線で古河へ。敷地を少し広げてもらい建物が楽に入るようになった。事務所に戻り打ち合わせ。夕方理科大で製図非常勤講師との打ち合わせ。理科大は現在震災の影響で学生がシャットアウトされ大学は静まり返っているが皆さん集まった。2年生の前期 新堀学さん 清水貞博さん 石川淳さん 古見演良さん 中島壮さん 薩田英男さん 三戸淳さん 2年生の後期 上條美枝さん 薩田英男さん 萬代恭博さん 手嶋保さん 柳澤潤さん 3年生の前期 若松均さん 高橋堅さん 宮晶子さん 木島千嘉さん 塩田能也さん 3年生の後期 多田脩二さん 青島裕之さん 川辺直哉さん 亀井忠夫さん。豪華な顔ぶれ。2年では住宅を中心に後期に図書館。3年生は学校、集合住宅、後期はスタジオ制でそれぞれの先生が自らのテーマをつくり、学生は希望のスタジオを取れるようにするつもりである。初めて皆さんと会って話ができたし、全貌が見えてきた。夜は先生方と会食。