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Jun 2011

初めて聞く母のこと

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by 卓 坂牛

病院にいると朝早く目が覚める。というか寝ているのか起きているのかよく分からないうちに朝となる。うつろな意識のお袋に「おはよう」というと「うー」と唸る。担当医が来て病状の説明をしてくれた。相変わらず危篤状況は変わらないということである。しかし医者と言うのもきっと安全率200%くらいで話すのだろうと高をくくり、可能性はあると勝手に確信する。
早稲田大学の建築学科に通う甥っ子が模型材料を世界堂の袋にどっさり持って部屋に入ってきた。僕は入れ替わりで帰宅する。シャワーを浴びて昼食をとって事務所に行き進捗状況を聞いてから大学へ。昨日の模型を撮影しておくように指示してから会議へ。明後日の院試の内容を確認。終わって発達障害の講習会。現代の自閉症であるLDとアスペルガーの話。信大でも全く同じ講習会があった。
夕方病院へ。オフクロが目を開けずにひたすら語っていた。
母:小さい、、、頃、、は高円寺の、、出窓の、、ある、瀟洒な、、、文化住宅に住んで、、いた
私:ええええ?青森にいたんじゃないの????
母:うー、、高円寺、、、、である
私:おじいちゃんは何してた?(若くして死んだので会ったことが無い)
母:おじい、、、ちゃんは、、、教師、、、、ったがそ、、、れは仮、、、の姿で本当は小説家を目指していた
私:小説家???????
母:その、、、、、、、小説、、、は早稲、、、田文庫、、、、、に入っている
母:喉が、、、、からからで、、、、アクエリアス、、、、、を飲みたい(誤飲して肺炎を起こす可能性があるので飲ませられないのだが)
私:ダメだってずっと言っているでしょう!!
母:喉の奥が乾燥して、、、喉が要求しているのだ、、、せとやませんせいは、、、、それが分かっていない、、、、、、、、私の所有物は、、、、、は、、、、ひそやかに、、、、、存在、、、、し、、、、ては、、、いない、、、、、
目をつぶりとり憑かれたように、酸素マスクでからからになった声帯をがらがらに震わせて延々としゃべっている。こちらが反応しようとしまいとである。恐ろしいことに母の若いころの話など今の今まで全く知らなかった。東京に住んでいたなんて50年間聞いたことも無かった。もちろん子供が親のことをすべて知っている必然など何処にもないのではあるが、、、、

なんだかよく分からないもの

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by 卓 坂牛

朝一で病院から帰宅。シャワーを浴びて研究室へ。あるプロジェクトの委託者が来研。以前トンネルのような建築を創りたいとこのブログで書いたが、そんなコンセプトで作った5つのモデルを見せて議論。トンネルのようなというときそのトンネル自体はなんだかよく分からないものであってほしいのだが、、、果たしてそうなっただろうか?
夜また病院へ。昨晩同様付き添いで隣のベッドに横になる。岡田温司『半透明の美学』岩波書店2010を読む。透明でもない不透明でもない、2項対立の中庸を掬い上げようと言うそのコンセプトは僕の建築の規則と同じである。そしてそうした中庸は絵画の色で言えばグレーである。そしてグレーを追求したアーティストとして、ゲルハルト・リヒターが挙げられる。僕はリヒターのグレーシリーズは知らないが、彼の描こうとするものがAでもなくBでもないものであることはよく分かる。
今朝プレゼンしたトンネルのような部分を「なんだかよく分からないもの」にするためにリヒターは参考になるかもしれない。ホワイトシリーズの白のような白では無い色、淡い雪のような綿のような白の上によく分からない色が乗っかった全体の色。これを使ってみるか?

何をやるかではなく、何をやらないか!

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by 卓 坂牛

朝一で栃木のクライアントと打ち合わせ。往復の車中で楠木健『ストーリーとしての競争戦略』東洋経済新聞社2009を読む。ビジネス本に興味は無いのだが帯に12万部突破、ビジネス大賞2011受賞と書いてあるのでつい読んでみたくなった。著者は一橋大学の教授である。学者など実際のビジネス成功者の経験談に比べれば何の役にも立たないと謙遜するが、様々な企業の戦略家と会って話をしていると語ることが分析に終わり戦略になっていないと言う。戦略とは「他と違うことをすること(doing different)」だという。そのためには「何をするかではなく、何をしないか」を考えなければならないという。これは名言である。「やりたくないことをやってはいけない」というのは僕の座右の銘でもある。しかしこれは残念ながら戦略にはなっていない。戦略の場合は本能の入る隙間は無いからである。僕のそれは残念ながら本能的なものである。篠原一男は住宅以外はやらないと決めて自分のSP(strategic positioning)を明確にした。実は住宅以外の設計依頼もあったのだがそれは弟子にやらせて自分は横で見ていたのである(晩年はそのSPを崩したわけであるが)。これは戦略だったのか本能だったのかそれは定かではない。
夕方研究室で研究プロジェクトの打ち合わせ。助手のT君にいろいろと注文。設計のリズムを覚えてもらうにはいくつかやっていくしかない。夜4年の製図エスキス。始まるころに電話。オフクロ入院。おっとあせるなあ。とりあえずエスキスを全員してから病院へ駆けつける。お茶の水のS病院。僕が浪人中も彼女はここに1年間入院していた。あれから30年以上よく生きていきたものである。東京に移るなりこんなことになるとは!オフクロに呼び戻されたのかもしれない。今日は病院で寝よう。

建築も文章も時間切れで決まる

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by 卓 坂牛

10+1の原稿を朝から推敲する。毎度のことながら締め切りの日になっても納得いくものにならない。建築も文章も同じだが最後の最後まで胃が痛い。日建の先輩だった加藤隆久さんが丹下事務所時代に丹下さんからこう言われたそうだ「建築は最初のアイデアで決まるか、時間切れで決まるかどちらかだ」。「最初のアイデアで決まったのは何ですか?」と聞いたらそれは目白のカテドラルだそうで他にはないとのこと。天才丹下にして最初のアイデアで決まるのは一つなのだから凡才たちは時間切れで決まるのだと言われた。というわけで加藤さんには最後の最後の最後まで「これでいい」とは言われなかった。そのせいかどうか分からないけれど自分で作っていても何時まで経っても現場に入ってもこれでいいと言う気持ちにはなれないし、文章も全く同じで何処まで直してもこれでいいとは思えない。八束さんが何かの本のあとがきで本と言うのは脱稿したその瞬間に最初から書き直したくなると書いていた。八束さんにしてそうならばもはや私などがそうでないはずもない。

九段会館はファシズム建築か?

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by 卓 坂牛

理科大は靖国神社の鳥居の前にある。そばには3.11の時に天井が落ちた「九段会館」がある。この建物は1934年に竣工し、当時は軍人会館と呼ばれ退役軍人が靖国神社へまいった後に集い泊まる施設だったそうだ。この建物のデザインの特徴である瓦屋根は国立博物館などとともに20年代後半から30年代の典型的なナショナルデザインだった。しかしそれをファシズムの統制下の建築と見るかどうかでは井上章一と八束はじめで意見が割れている。井上はモダニズムの白亜の大阪軍人会館を例に出しながら瓦はファシズムの統制ではなかったとし、八束はファシズムにつながると言う。そして八束のこだわりを推測した井上はそこにドゥルーズとガタリのリゾームがファシズムの理由として挙げられていることを指摘。本当かどうかはよく分からないが、ファシズムがリゾーム的な抑圧の権力関係の中に生まれるのであろうことは想像に難くないし、一方世の中は全てリゾーム的な権力関係の中にあるわけでそれをファシズムの因果にしたらすべてがファシズムになってしまうと言う井上の言うこともその通りである。どちらに分があるのかは全くわからないしでも面白そうな論争である。(井上章一『夢と魅惑の全体主義』文春新書20

近代の超克とポストモダニズム

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by 卓 坂牛

朝から原稿を書くための最後の参考書、子安宣邦『「近代の超克」とは何か』青土社2008を読む。「近代の超克」とは昭和17年に行われた座談会のタイトルでありそこでは当時のグローバリズムに対するアジア的共同体の提言がなされた。これには前段があり、大東亜戦争の理念的標語である(日本の)「世界史的立場」(日本は世界史の舞台に立つ使命がある)という哲学的言説(世界史の哲学)が京都の若い哲学者によって語られ、世界にもそれを認める発言があったという。そして建築もそうした言説に右往左往しながら、世界史の建築を作らんとしたわけである。誰かが言っていたが、日本はこの時期すでにポストモダニズムを通過してしまったのでポストモダニズムの時期にはもはやその運動が盛り上がらなかったと。そんな気はしないでもない。しかしそれを言うならイタリアでもドイツでもそんなことがちょっとは起こっていたわけである。
読み終わって原稿執筆。当初4,000字と言われてそれは時間的にも内容的にもつらいということで2,400字としてもらったのだが、、、書いたら限りなく4,000字に近くなってしまった。計画能力が無い自分に呆れる。

なぜモダニズム建築は保存されないのか?

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by 卓 坂牛

午前中早稲田の発表。消費性がテーマ。消費社会におけるデザインはその差異性だけが問題となる。しかるにその差異は瞬く間に類似デザインによって埋められ陳腐化する。
とある学生はこんな発表をした。
世の中には惜しまれつつも解体されていく建物と大事に保存活用されていくものがある。例えば前者は旧都庁で後者は東京駅。前者が解体に追い込まれたのは一般の世論がついてこないからだと言う。つまり保存されるかどうかは建築に内在する価値で決まるのではなく、人々が決めると言うわけである。
ではこうした民意が巻き起こるためには何が必要か?それはスタイルの視覚的差異性。つまり和風、擬洋風、モダン、ポストモダンという日本の建築様式の流れの中で、現在がポストモダンなら民意を巻き起こすヴィジュアルギャップは2つ以上前のスタイルでなければならない。すなわち洋風以前でなければならない。一つ前(モダン)は差異が少なく数多ある建築の中でそれが保存すべきものとして選ばれる理由が見つけられない。だから現在叫ばれる(専門家の中で)モダニズム建築の保存が可能となるためには、ポストモダニズムネクストが生まれなければならない。そうしてモダニズムが二つ前のスタイルとなり、同時代の中での差異性を獲得できた時、それは保存すべき権利を得るというわけだ。
笑いながら聞いていたけれどこれが事実だと思わざるを得ない。
だからこの仕組みを覆す方法こそが必要なのである。

短パンTシャツ

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by 卓 坂牛

信大修士の学生とゼミをした。修士論文の進捗と概要を聞く。相変わらずノロマである。変らねえなあ。でも自分が教育してきたのだから文句は言えない。指導教員が変わったからって急にやることがてきぱきとするわけもない。
東京は暑い。節電なんだか冷房の効きがそもそも悪いのか分からないけれど部屋の温度は下がらない。30度近い部屋に缶詰になって額に汗して頑張る姿は「微笑ましい」を通り越して「痛々しい」。
実は我が家も最近冷房が壊れた。うちは古いマンションなので屋上にクーリングタワーがあり、各戸のチラーと繋がり、そこでできた冷水を各室のファンコイルにポンプで送る方式。そのポンプが最近焼き切れた。節電にいいから耐えられなくなるまで放っておいている。なので家に帰っても額に汗である。せめて扇風機を買おうかと思い例のダイソンのと思ったが売り切れのようである。
しばらくは我慢大会の様相である。というわけでこれからは30度越えたら短パンTシャツで行動しますがこれは自己防衛手段ですので御容赦。

槇さんの群造形が相手にしたもの

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by 卓 坂牛

槇文彦が1964年に編んだinvestigations in collective formというタイトルの出版物がある。ワシントン大学で出版されたものである。アーバンデザインの教科書として優れたものと言われながら公式な日本語訳はない(槇の群造形と言われることはよくあるが)。丹下論の中で60年代の「東京計画1960」、メタボリストの活動を読みながら、メタボリスト槇を正確に知るにはこの論考を読まないわけにはいかないと感じた。昔なら、そうはいっても手に入れるのは容易では無かったが、この時代、ネットをちょっと探せばどこかに落ちている。
この出版物には二つの論文が載っており一つが槇によるcollective form three paradigmというものである。タイトル通り現代の都市の視覚的環境を以下のように3つにカテゴライズしている。
① Compositional form:個がそれぞれはっきりと認識されつつその平面的な布置が構成的に一つのまとまりを持つもの。例えば法隆寺の伽藍配置。
② Mega-structure form:巨大な構造を持った連続体である。例えば60年代の丹下のユートピア的なメガストラクチャ。
③ Group form:恐らく槇が最も興味を持つものであり、個がシークエンシャルに連続し、一つ一つの独立性が低く、連続体として認識されるようなもの。例えばギリシャの白いヴィレッジ。
この3分類は恐らく世の中の物理環境のすべてを包含してはいない。規範となる可能性のある3つである。そしてヒルサイドテラスが③を規範として参照していることは明らかである。しかし東京のようなカオスの群れはこの3つには含まれてはいない。やはり60年代とは他のメタボリスト同様槇も理想に燃えてモデルを作った時代だったのかもしれない。都市の暗部に目を向ける(ダーティ・リアリズム)時代はもう少し遅れてやってきたというわけである。

竣工写真を売るという話

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by 卓 坂牛

竣工写真をアルバムに貼るということをずっとしてきた。しかし最近は写真を貼る必要がなくなりそうだ。設計主旨から、プラン、セクションから、設計データ―から全部入れて本(雑誌)のように仕上げてくれるらしい。加えてISBNもとって本当の本にしてついでに売っちゃおうなんていうことまでしてくれるらしい。しかも本だけではなくPDFまで売ろうと考えている人もいるようだ。すでにエルクロのデーター販売がある時代だからそうした考えは自然ではあろうが。誰の作品でも売れるかどうかは別問題だが。