Archive

Jun 2011

トンネルのような建築が作れれば、、、

On
by 卓 坂牛

トンネルの面白さを感ずる時がある。雪国という小説がそれを端的に表している。ノーベル賞作家川端康成の小説である。「国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」。入るところと出たところの風景の差が驚きとなっている。
そんな建築を作りたいとよく思う。建築自体はどうでもよく、抜けて出たところに違う世界が広がっているという建築である。そう言う操作は実は別に目新しいものではない。例えば北入りの住宅で玄関を入るとパッと南の庭が広がる建築というのはそいう類である。例えば林昌二の自邸などはまさにそんな建築だ。僕はこの住宅が好きではあるが、くぐりぬけていく感じがちょっと希薄である。もう少し無であるトンネル空間があったらなあと思う。フューチャーシステムのコムデギャルソンのトンネルもいい。でもあのインテリはどうなっているのだろうか?くぐりぬけた後何も無ければいいのだが。その先を知らない。手前と奥のその差だけが問題になるようなそんな建築にお目にかかりたい。

骨董屋の丁稚

On
by 卓 坂牛

国立新美術館で書の展覧会を見る。膨大な数が並んでいるのだが、とりあえず配偶者とその弟子、そして先生の作品などを見る。字の意味も形式もさほど分からないけれど良い悪いを見分ける目は多少ある。それはなんのことはない30年間くらい見続けてきたから。骨董屋の丁稚のようなものである。
偉い先生の1人に元信州大学の教育学部の教授がいらっしゃる。ある一時は先輩教員だった。その方とコーヒーを飲みながらお話をする。海外の建築家から書道を自国で紹介したいというメールをもらったので相談する。既にアメリカでそういう展覧会をされたことがあるということで、掛け軸を送るのが一番やりやすいだろうとおっしゃってくれた。

多木浩二とディビッド・スチュワート

On
by 卓 坂牛

恩師ディビッド・スチュワート夫妻らと二子玉川でお会いし食事をした。10+1ウエッブサイト上の八束はじめによる多木浩二追悼文にスチュワートさんのことが書かれていたので持っていった。それによれば多木浩二はポストメタボリズムの批評家であり、70年代の磯崎、篠原を切り口に建築評論を始める。しかし最後まで彼らに的を絞り、それ以外では篠原スクールの伊東、坂本、長谷川程度までしかつきあわなかった。そんな風に、磯崎・篠原をトップアーキテクトとして描いたのは多木さん以外にはスチュワートさんがいた(The Making of Japanese Modern Architecture 講談社インターナショナル1987)。しかし多木さんとスチュワートさん2人の見方は異なっており一方多木さんは2人の観念と詩学の連動のメカニズムに関心があり、他方スチュワートさんは2人の中に古典主義的な骨格―建築性―があることを重視していた。それゆえスチュワートさんは篠原スクールの方にはさして関心がなかったようだと述べている。という意味を伝えると「そんなことはない坂本さんにも関心はある」とぼやいていた。

震災復興と構造的右傾化

On
by 卓 坂牛

早稲田の講義を終えてあゆみbooksに寄る。大澤真幸の『近代日本のナショナリズム』講談社2011を買って2階のカフェで昼をとりながら読む。
何故現代は右傾化するのか?
曰く多文化主義の時代には世界的な普遍性は受け入れられず、仕方なく局地的な普遍をその代理として対象化する。
という内容が昨今の多くの現象とリンクさせながら巧妙に書かれている。でもそんなにリンクするのだろうかと疑問に思うところもある。簡単に言えばグローバリズムの反動ではないのだろうか?(というのは短絡的過ぎか?)
それにしてもこうした構造的右傾化と震災復興なんていうことを簡単に結びつけてまたオリンピックやろうなどという安易な発言は悪い冗談である。そんなお金があったら民間の復興専業会社でも作った方がいい。ことさらインフラの時代だと叫ぶのは躊躇するけれど今村創平さんが言うように、今度の震災が阪神淡路と大きく異なるのは戻すべき姿が未だできていないという所にある。そのための見取り図は誰かが描かなければならないのは事実なのである。

丹下健三と篠原一男をつなぐもの

On
by 卓 坂牛

一日図面と睨めっこ。分棟で異なるデザインだと結局棟の数だけプロジェクトをやっているようなものである。もうへろへろである。
丹下健三シリーズ第二弾。
丹下さんの論考の一つに「現代建築の創造と日本建築の伝統」1956というものがある。ここには「美しいもののみが機能的である」という有名な一句が含まれている。都庁が出来る1年前である。伝統論争の渦中である。丹下の後輩である池辺などが合理主義を高らかにうたっていた時代である。丹下は桂、伊勢を自らの建築の基盤として伝統への志向を示し、それが導火線に火をつけ建築界全体を伝統論に巻き込んだ。丹下は近代合理性への舵を力いっぱい「美」に向けて切り返そうとしたのである。
藤森照信によればこの論文が若い建築家に大きな影響を与えたと記されている。そう考えると恐らくこの言葉にもっとも影響を受けたのは篠原一男ではなかろうかと思わないではいられない。当時篠原は30歳。処女作久我山の家の設計を終えたころである。住宅は芸術であるという言葉を使うのはそれから10年近く後ではあるものの、その気持ちは既にこの頃芽生えたに違いない。篠原が唯一尊敬する建築家と言って憚らなかったのは丹下健三だと聞いていただけに、この論考こそが篠原を住宅芸術へ導いた導火線だったのではなかろうかと邪推したくなる。そして久我山の家が丹下自邸と相似形にあるのもその延長線上にあるのではなかろうか?

丹下健三こそ批判的地域主義

On
by 卓 坂牛

622px-Kagawa_Prefecture_Office_East.jpg
とある理由から丹下健三の分厚い本を読んでいる。読みながら丹下さんの往年の名作の写真をまじまじと見る。そしてツォーニス&ルフェーブルが丹下さんを批判的地域主義者としてととりあげたのは的を射ていると感ずる。
フランプトンは批判的地域主義の定義として 
・普遍性と個別性のあいだの弁証法的プロセス 
・啓蒙主義的進歩の神話からもノスタルジックな過去へ回帰する反動からも距離を置く
・視覚優位からの解放と触覚の重視
・キッチュに陥らない反中心主義的地域主義
というような言い方をしているのだが一言で言いかえれば「グローバリズムとローカリズムの中庸を行け」ということである。これを建築的に言いかえれば「ローカルヴォキャブラリーを徹底して抽象化して用いよ」と言うことにでもなろう。とすれば丹下さんの梁と柱のRC(あるいは都庁のような鉄骨の)デザインはまさに日本というローカルの抽象化の極みである。この抽象度は現在で言えば伊東豊雄のトッヅビルと言ってもいい(伊東さんのは表参道ケヤキの抽象化と少々スケールは小さいものの)。
きっと香川県庁舎などが出来た時の鮮烈な印象はトッヅを凌ぐものであったに違いない。

人間主義の建築

On
by 卓 坂牛

『言葉と建築』を訳したメンバーによる2冊目の翻訳書がやっと完成。ジェフリースコット著『人間主義の建築』SD選書2011.本日送られてきた。共訳者の天内大樹君は分離派の専門家。井上亮君はウェッブデザインをやっている。英語の読解力は天下一品。星野太君は美学から表象に移り「崇高」の専門家となった。天野剛君はロンドンのアートスクールに留学中。光岡寿郎君はミュージアム研究をしながら早稲田の研究助手をしている。建築を専門としているのは僕と天内君ともう一人の監訳者である辺見浩久氏だけ。違う分野の方と4年間勉強会が出来たことを本当に幸福だと思う。皆に感謝したい。「一体いつこんなことしているんだ?」と先日恩師坂本一成に言われたがまあ月一回4年やっていましたというのが正直なところ。しかし4年間例外なく毎月やっていた。とにかく何があろうと毎月やる。そうすると何時か終わると言うものである。止めないこと。終わらせるにはそれしか方法は無い(4年もかかっておいて偉そうなことは言えないが)。

基本構想者の権利と責任

On
by 卓 坂牛

遠路はるばる研究室に来客である。基本構想を描いた建物が地元の設計事務所による基本設計段階でかなりの変更が出そうだと報告に来られた。組織の長を含めて4名。地元の事務所が基本設計をすることが決まった時点でもはや設計のクレジットを主張する気も無くなり変更はどうぞご自由にという気になっていた。建物の半分は賃貸する建物であり、このエンドユーザーの意見が大きく具体化され、それらを聞かずに設計を進められなくなり、その結果大幅な変更を余儀なくされているようである。もちろんそうはいっても自分たちが設計を継続していればそれに対する対処法もあるだろうが、異なる事務所がやる以上我々はそれにどうのこうの言いずらい。もちろん基本構想の路線を作ったのは我々なのだからそれに対するの役割、つまりは自分のやったことに対する権利、責任のようなものがあるのだろうが、、、、

みやした公園に行ってきた

On
by 卓 坂牛

shibuyamiyashitaR0025183.jpg
昨日から丹下健三の厚い本の藤森さんのテキストを読んでいる。八束さんのメタボリズムを読むための予習である。丹下さんのことなど知っているつもりで結構しらないんだということがよく分かる(へんな分かり方だが、、、)。
吉田徹『ポピュリズムを考える―民主主義への再入門』NHKブックス2011を読む。なぜ小泉のようなポピュリストが登場してしまうのか?そしてなぜそれが民主主義の必然なのかがよく分かる。でもそれをどうしたらいいのかは書かれていない。
夕刻渋谷の宮下公園に行く。紆余曲折がありながらナイキにネーミングライツを売ってスポーツパークに生まれ変わり4月にオープンした。設計者の塚本さんから直に説明を聞いた。そもそも駐車場の上に土を入れてできた公園なのでその上に建物を作ると申請上ややこしくなると言うことで建物は無い。作ったのは全て柵か壁かパーゴラか床である。あの公園には巨木もあるけれどあれは駐車場の屋根の上に1.5メートルの土がありそこに植わっているのだそうだ。全然知らなかった。ウォールクライミング、フットサル、スケートボード場が新たにできた。昔バートレットのプログラムヘッドのイアン・ボーデンと渋谷を歩いて彼の行きたかった有名なスケートボード屋に行ったのを思い出す。もしこんな場所があの時あれば彼は絶対滑ったに違いない。今度来たら是非ここに連れてこよう。

日常を発見したのは写真家である

On
by 卓 坂牛

bauhausugallery%E5%86%99%E7%9C%9F.JPG
神田明神の脇にgallery bauhausという写真専門のギャラリーがある。間口10メートル程度の打ち放しのビルである。中央にかなり大きな樹木が植えられている。こんな場所にこんなギャラリーがあるとは知らなかった。ロバート・フランクの展覧会が行われておりオリジナルプリントが並ぶ(http://ofda.jp/column/)あの有名な写真集「アメリカ人」のネガべた焼があった。赤ペンで写真集に載せる写真選びがされているのを見ると。ああこういうなかからこういうものを選ぶのだという写真家のセレクトの過程が追体験できる。
フランクは「決定的瞬間」を計算された構図で撮影するアンリ・カルティエ=ブレッソンの流儀を否定して人間の自然な視線を追求し、ありのままの「普通」を撮影しようとした。言いかえればそれまでの「非日常的視線」ではなく「日常的視線」を希求したのである。それにしてもその写真集がでたのは1958年僕が生まれる1年前である。建築で日常なんていう概念がテーマ化されるのは少なくとも多木浩二が1978年に『生きられた家』を書いた後であろう。この20年は何を意味するのだろうか?