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Jan 2012

小布施図書館拝見

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by 卓 坂牛


新幹線と長野電鉄を乗り継いで小布施まで来た。長野に来るのも久しぶり。小布施に電車で来るのは初めてである。以前来た時は町立図書館のコンペの公開ヒアリングの時。伊東さん、隈さん、新井さん、古谷さんなどのそうそうたる建築家が最終ヒアリングに残りプレゼンした時である。結果は古谷さんが最優秀賞。その作品が去年できて見たいと思っていた。たまたま理科大の小布施町づくり研究所に来る用事があり今日やっと見ることができた。雪に埋もれた小布施も素敵である。
図書館は駅のすぐそば。あたかも樹木のような柱が緩やかなカーブを描く大屋根を支え小さいながらも広がりのある内部空間である。格子の3次元曲線の天井が気持ちいい。
図書館を見てから歴史的修景をぐるりと回り夕刻役所で行われる市民大学講座に参加。講師は理科大の伊藤先生。ミセ空間の発展の歴史を講じられた。とても興味深い。アメ横空間を今年の卒論生が調べたがこんな歴史を知っているともっと研究が深まると思えた。

ポーラ美術館アネックスは銀座のお勧めギャラリ―

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by 卓 坂牛


午後少し走る。今日はとんでもなく寒い。学習院初等科の周りをぐるりと一周して家に帰り速攻で風呂に浸かる。与那覇さんの歴史本を読み終える。
夕方ポーラ美術館アネックスに大森克己の写真を見に行く。僕より4つ下の日芸出身のカメラマンである。3.11以降の福島を撮ったもの。ピンクにぼけているのはピンクのガラス球を持って行ってエフェクトとして使ったようである。
コメントが貼ってあった。カメラマンになったのは自分の見えるものを再現したいという欲求とともに自分の見えないものを写し取りたいという願いからだと言う。今回は見えないもの(放射能)を写したかったのかもしれない。
このギャラリー最近来るようになった。内容はいいのに無料。銀座に来たらお勧めの場所である。
ITOYAによって紙を買って教文館行って新書を5冊買って四谷に戻る。

正しいことを正しいとして通る社会に

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by 卓 坂牛


朝9時から夕方6時半まで卒論の発表会。判定会議が終わったのは7時15分。さすがに頭がくらくら。四谷のジムに行って少し走る。今日からは下半身だけではなく、上半身も意識的に動かすようにする。
今晩はかみさんがいないのでジムを出てから近くの本屋で文藝春秋買ってとなりのうどん屋で読みながらビールを飲む。
最初の特集は皇室典範。ここぞとばかり登場する安倍晋三は昔から余りに情緒的でついていけない。
特集ではないが被災の話しが2編。安藤忠雄と塩野七生の対談。2人が募金活動していますという話。書籍を売らんとするためにビッグネームで目次を飾るとうのはどうなのか?活動自体は尊いことだがもう少し短くてもよい。
そんなことで紙幅を費やすから次の児玉博による「東電吉田所長かく語りき」という重要なルポが中途半端に終わっている。
吉田氏の食道がんの原因が被ばくによるかどうか、東電は命がけで隠蔽するだろう。まあそんなことはどうでもいい。このルポを読んでも、吉田氏がさまざまな施設改善を訴えたときに本社がコストを理由に拒否してきた経緯がよく分かる。安全性と採算性の天秤が壊れていたということである。その天秤を監視する側に天秤を作った人たちがいたからでもある。山本七平らが言うように誰も正しいことを言えない日本の社会で(上の写真の本に書いてあります)必死に正しいことを訴えてもそんなものは通らないのが日本の社会ということだ。
もういい加減にこんなことをやめにしよう。少なくとも今の学生たちの世代には正しいことを正しいと言いそれが評価され実行される社会になって欲しい。

21世紀になっても日本は江戸のまま

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by 卓 坂牛


夕方事務所で4月のアルゼンチンでの展覧会の打合せをかみさんと行う。日本の文化の一端と言うことで建築だけではなく書も展示する。そのイメージを模型化。
日本文化をもう一度勉強しようと歴史書として読み始めた『中国化する日本』はいろいろと刺激的で面白い。と言っても未だ半分。話題は維新。
明治維新はやっと日本が科挙、郡県、などの宋システムを導入し、自由主義の世界に突入した時代で西洋化ならぬ中国化した時代だった。それなのに明治後半では自由化、競争化を回避して地位の一貫性が低い江戸社会に内実が戻ってしまった。と言う。
この本を少し置いて別の本を手に取る。あのイザヤ・ベンダサン名で『日本人とユダヤ人』を書いた山本七平が1975年に季刊歴史と文学に連載した「日本型民主主義の構造」。この論文は『なぜ日本は変われないのか』桜舎2011として復刊されている。
そこでは日本の組織とは西洋のそれと異なり正当の前に調和と平等が重んじられる。つまり正しくないことが行われても荒波立ててまでそれを排除はしないのである。言い換えると不良パーツが混じることで動きの悪い機械だからと言って、その不良パーツを取り換えることはしないのである。山本はそうした組織を西洋的な「組織」に対して「家族」と呼ぶ。そして明治維新とは一つの江戸的体制からの脱却として不良品を入れ替えた「組織」を目指したものの調和と平等を脱却できず結局「組織的家族」という表面「組織」内実「家族」で終わったと言う。この山本の指摘は上述「中国化」を狙った明治維新が結局「江戸化」したと言う与那覇の指摘と合同である。
つまり一言で言えば結局20世紀後半の日本って未だ結局江戸だったと言うことである。さてそれでは21世紀の今、日本は江戸から脱却できているのか?と言うとやはりダメである。正当より調和と平等なのである。正しいことより空気なのである。国も役所も大企業もそうである。じゃあ江戸からさっさと脱却したらいいのかと言えば話はそう簡単でもないのだが、少なくとも空気に流され正しいことが二の次にされる現状は回避しないことにはちょっとまずい。

地位の一貫性が低い社会

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by 卓 坂牛

中国の近世である宋の時代にはすでに身分制が無くなっていたというのになぜ江戸時代に身分制が残っていたのか?これは大事な問いだそうだ。そしてその答えは、江戸の身分制は「地位の一貫性が低い」身分制で、上の身分でも貧乏、下の身分でもお金持ちという可能性を秘めた身分制だったからと言うのが答え。よって強烈な不満の高まりが起こらず、革命的な力が社会にたまらなかった。というのが与那覇潤の説明である。「武士は食わねど高楊枝」とはよく言ったものである。
逆に宋では、身分制は無いものの科挙に受かり高級官僚となった人物は尊敬され、金も集まり、権力もあるという人間の欲するもの全てが集中する社会。すなわち「地位の一貫性が高い」社会だったという。
さてそう考えると日本と言う社会は江戸の延長のようなところもある。だいたい尊敬される(とされる)職業はとんでもない高給に恵まれない。逆に外資系企業で莫大な資産を築いたビジネスマンがその資産を理由にリスペクトされるかと言えばそんなことはない。
アメリカなどでは(少なくとも僕が留学していたころは)社会で最もステータスの高い職業は金持ちビジネスマンと教科書に書いてあって驚いた。ステータスもあって人から尊敬される人が大金持ちになるという社会は強力なヒエラルキーが生まれそうでちょっと恐ろしいと感じたものである。
江戸的階級性を全肯定はしないけれど地位の一貫性が無い方が何か救われるような気もする。そのために日本では更に政治家(国家公務員)の給与はせめて半分くらいにし威信はあるが金は無いを実践させるべきである(いや逆である。金を餌に人々のしもべになりたいと欲する方を探すことは不可能だ)。
ところで建築家なんて職業は威信も無いし金も無いし最悪である。何がよくてこんな職業が存続しているかと言えば、唯一表現の自由を実践できる可能性があるからに他ならない。だからそれさえも失うなら建築家なんて本当にやる意味ない。

くよくよするな

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by 卓 坂牛

朝一で現場に向かうべく乗った湘南ライナーが新宿出た途端に停まった。池袋辺りで人が線路に降りたらしい。線路点検中とのアナウンスがくり返される。結局50分遅れて古河到着。現場定例はほぼ終了していて分科会から参加。そしたら結構大きな問題が発覚。あれあれ、、、、。構造と設備がごっつんこしている。現場で考えていても名案浮かばず持ち帰り。帰りの電車でT君とアイデアだし。こう言う時に大谷(日建)の言葉を思い出す。「難しい問題が出てくるほど燃える」。凹みそうになる気持ちをこの言葉で奮い立たせる。その問題で発生するマイナス面が10あったら20のプラスを生む解決策を考えよう。そうやってポジティブに考えていると結構いろいろと思いつくものである。
こんなことを考えていたらツィッターで知り合いがピンチの時に母の言葉を思い出すと書いてあった。「命落とすようなことがなければ大概は大丈夫よ」と。それを読んで僕もよくダウンした時にかみさんに言われる言葉を思い出した。「生きているからいいじゃん、くよくよするな!」。

卒計発表会

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by 卓 坂牛


朝一で整形外科に行って肩のリハビリ。電気マッサージをしてもらう。知り合いのお医者さんからは運動がいいと言われるのだがまだそんな状態でもない。よくなったらスキーにでも行くか?
リハビリ終えて事務所に行って図面チェックして赤入れて説明してから大学へ。来客との話を終えて卒計の発表会場へ。僕の研究室の学生14人山名先生のところから10名。彼らの発表に対して14人の常勤の先生と非常勤の先生10名以上が発表に対して採点をする。とても素晴らしい講評会。
この点数を集計してどういう結果が出るのかはなかなか楽しみである。信大時代は、卒業設計は僕が1人で採点していたわけでそれに比べてはるかに多様な評価が下される。学生にとってもそれはいいことだし、僕もその方が面白い。
まあそれにしても卒計としてそのレベルに達しているのは片手で数えられるくらいである。でもそれが酷いことかと言えばそんなこともない。僕が学生時代だってせいぜい1割。つまり5人である。信大のときだってまあ1割いない。理科大だって24人の卒計発表者だから3人いればいいところであろう。片手いるということはいいできだ。

やばい、肩痛い

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by 卓 坂牛


やばい。1週間くらい前に発症した肩の痛みが再発。この痛み本当に何にもできないくらい痛くて顔がゆがみ「うーーーー」って声が出る。近所の佐々木整形外科に行く。この先生スポーツ界では評判の人(らしい)。なかなか手荒だけれど正確である。僕の腰痛も体操指導してもらって直った。
待つこと1時間。評判がいいので患者が多い。腕を持ちながらどの角度で痛くなるかをカルテに書きこむ。腕を持ちあげられると水平になる前に酷く痛い。思わず「痛ーーーーい」と叫んだら先生もびっくり。自分でもびっくりだが本当に痛いのである。
すぐその場で痛み止めの薬を飲まされてレントゲン撮ったりハンマーでたたいたり。その上更に痛み炎症止めの注射を打ってもらい。座薬を処方してもらった。
注射もしたから痛みもとれるかと思いきや全然。家に帰ってのたうちまわって痛みをこらえる。どんな格好していてもとにかく痛い。夕食後薬を入れてしばらくすると徐々に痛みが引いてきた。痛みをこらえているだけでもうへとへとだったのでよく寝れそうである。外はなんだか凄い雪。明け方目が覚めてパチリ。少し元気が出てきた。昨日の分働かなければ。夜は卒計の発表会だし。

中国化する日本

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by 卓 坂牛

かみさんが早朝着物に着換えて出かけて行った。少しして娘は塾に行った。1人になった自分は読みかけの本を終わらしてから汐留ミュージアムに今和次郎展を見に行くhttp://ofda.jp/column/。その後四谷のジムで走る。少しずつ体調が戻ってきたかな。
帰宅後与那覇潤という若き歴史の先生が書いた『中国化する日本』文藝春秋2012を読み始める。なかなか引き込まれる。
フランシス・フクヤマが冷戦の終了を歴史の終わりと言ったそんな状態は1000年前の中国宋の時代に既にあった。そして中国も日本もそんな1000年前の中国に舞い戻りこれから宋の時代の中国を歩む。ということのようである(なんて単純ではあるまいが???)。
先日国博で北京故宮博物館展を見たのでこの話がダイレクトにつながる。あの博覧会で一番印象的だったのは中国は宋の時代に近世を迎え(それは世界で最初のことでその定義は政治的に貴族制が無くなり官僚制となったこと)それによって世の中が自由になり文化が栄えた。そういうコンセプトでできた展覧会だったから陳列品のほとんどは宋の時代のものだったし素晴らしかった。
その宋の時代を日本が踏襲するというので訳もわからず興奮している。あんな素晴らしい文化が訪れると言うならとりあえず嫌では無いのだが、、、、、

頑張れ学生

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by 卓 坂牛

朝から二部建築学科の卒業研究発表会。僕はこの手の発表会がとても好きである。大学生が唯一必死になって継続的に長い期間勉強したことの集大成だから。なので自分の専門外でも理解してみたいという欲求にかられる。そしてよく分からないまでも背景と結論くらいはなんとなく理解してその人のそれなりの頑張りを感じてこちらも気持ち良くなる。僕の研究室は二部は全員設計を選択したので論文は0だが来年は数名を論文枠にするつもり。
帰宅後大島寧子『不安家族―働けない転落社会を克服せよ』日本経済出版曲2011を読みながら若い人たちの社会を考える。正直この本に書いてあるようなことは殆ど他のこの手の本に書いてあり目新しい内容は無い。たださまざまなデーターが視覚的に分かりやすく並べてある。
というわけでこの感想も目新しいことではないが、日本の社会保障費に占める、子供、教育費が老人のそれに対して圧倒的に少ないのが日本であることに違和感を感じる。国立大学が5000ドル以上かかる国などこの資料ではアメリカしかない。国立大学でさえそうなら私立大学はもはや終わっている。日本の私立大学が一斉に業務を放棄したらこの国はどうするのか???私立大学がお味噌的なレベルでしなかないらならまあいい。しかし何度も言うが私立大学なしに日本の高等教育は成り立たない現状で私立大学の授業料がこれだけ高いことは論外である。加えて、こうした必要不可欠な私立大学、もちろんレベルの高い国立大学も含め、そこに至るための教育費が高すぎる。それでも日本は生きる選択肢が少な過ぎて、所得の低い親が生活レベルを下げてまで私立小中高等学校や塾に投じるわけである。
こんなでたらめな社会があっていいわけはない。しかしもちろんけっきょく社会保障費を厚くしろと言う主張は(著者の主張でもあるが)財源の問題になる。僕は防衛費や不要な予算を削減しろと先ず思うのだが、著者は消費税増税へと結論づけている。
厳しい若者問題を読んだついでに風呂で宮台真司の『就活言論』太田出版2011を飛ばし読む。腹も立つけれど基本的にこの人と立ち位置は似ている。だから彼の言うことはだいたい正しいし反論する気も無い。その通りである。就職は親の為にするのではない。親が喜ぶところに入るために君の人生があるのではない。国や行政に依存するな。人任せにするな。空気に縛られるな。その通りである。そしてそういうことをしたければ大きな組織には絶対行くな(これは僕の意見)。大きな組織で起こっているのは全部これらのテーゼの逆である。人任せ、空気を読む、行政と国の顔色しか見ない。そんな出鱈目な組織に明日はない。自分の目で確かめて自分で生きる。ここにしか君達の明日は無い。頑張れ学生諸君。