若者に必要なモノ、大人のすべきコト
東工大の世界文明センター長であり作家のロジャー・バルバースという方がこんなことを言っている。
大人は若い世代の人たちに「夢を持て」とよく言うけれど、その夢とは往々にして大人の夢に過ぎない。大人がすべきことは自分の夢を若者におしつけることではなく、若者が自分たちの夢を育めるような力を与えることだと言う。そしてそれを可能とするために若者に必要なものは反逆精神であると。全く同感である。
『もし日本と言う国がなったら』集英社2011
予想外の事実
新年会でもらった風邪菌のせいか突如39度まで熱が出た。インフルエンザかと思い女子医大の救急外来で診てもらう。インフルエンザでは無く帰宅するとすーっと熱がひいた。昼食をたくさん食べて一眠り。
体調は戻ったので何か活動したいがベッドにいないと家の人たちがうるさいので静かに本を読む。鈴木賢志『日本人の価値観』中公選書2012はISSP(国際社会調査プログラム)をもとに価値観世界ランキングをつけている。例えば、こんな質問「自分自身で意味を見つけ出してこそ、人生は意味のあるものになると思うか?」に対して「そう思う」「どちらかと言えばそう思う」人の日本人の比率は全34カ国中6位。因みにアメリカは最低の34位。
ではそうした意味を自ら実現できると思うかという質問に対しできると思う日本人は94カ国中77位でかなり低い。逆にアメリカは14位。主体的に生きたくともできないのが日本人ということか?
また「たとえ余暇時間がへっても、常に仕事を第一に考えるべきだ」という問いに対し79カ国中最下位は日本。これは意外。そう思っていながらよく働くのが日本人ということか。一方「余暇をすごすときあなたは誰かと一緒の方がよいですか。それとも1人でいる方がよいですか」に対し「1人がよい」の世界一位は日本人。へえー家族と一緒とならないのは趣味が一致しないということか?
予想外の事実に気付くのがこう言う調査の面白いところ。
東大にも肝の据わった先生がいるものだ
朝研究室に行ったら卒計で寝ている学生数名。後1カ月ちょっと。まあ死ぬ気で頑張ってください。
今年最初の教室会議。年始から思った苦しい話題である。その後グランドパレスで工学部の新年会。そう言えば信大でもそんな新年会があったが一度も出たことが無かったスイマセン。
午後丸善で買い物をして帰宅。安富歩『反原発と東大話法』明石書店2012を読む。現役東大教授が東大原子力工学科を実名いりでまさに「罵倒」している。そして彼らの原発問題での発言方法を東大に蔓延している無責任話法であるとして批判する。その話法は全部で20あるが例えばこんなことである
規則1自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
規則7その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
規則9「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく
規則15わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する
などなどである。確かにテレビに登場する東大教授にはこういう腹立たしい輩は沢山いる。しかし実は東大以外にもこういう先生はいる。この本を読みながら数名の教授の顔が思い浮かんだ。まあどこにでもいるものだ。権力と金にめっぽう弱い人間たちである。一方僕が個人的に付き合っている東大教授にはこう言う方は1人もいない。おそらくそれは金や権力と程遠い学問をされている方たちだからである。少なくとも建築デザインなんて言うのもそういう領域だと思って安心しているのだが。
あなたはマキシマイザ―それともサティスファイザー?
バリー・シュワルツという人の書いた『なぜ選ぶたびに後悔するのか』という本によると人間は「マキシマイザー」と「サティスファイザー」に分類できるという。マキシマイザ―は買い物などでモノを選ぶときにそれが最高のものだと確かめないと決定てきない。昔吉松さんが材料を選ぶときには可能な限り全てのカタログを集めないと決定できないと言っていた。彼はその意味ではマキシマイザ―である。一方サティスファイザーはいいと思うものに出会えばそこで決定できる人である。
さてあなたはどちらだろうか?
僕は建築以外では圧倒的にサティスファイザーである。着るものも、食べるものも、人も殆どファーストインプレッションである。なぜそうかと言うとかなりいいものに出会った後はかけた時間に対して向上する質の比率が小さいことを経験的に知っているからである。
しかし建築においては、昔吉松さんにそういう話を聞いて自分もそうなってしまった。日建時代は机の周りが床から壁から材料で埋まって毎年年末の大掃除の時に嫌になった。
しかし最近は徐々に「ほどほど」ということが分かるようになった。それは素材の全体像が分かってきたからだとも言える。本物を見なくても写真でだいたい想像できてしまうようになってしまった。あまりいいことではないかもしれないが、労力掛けて本物見てもこれは素晴らしいと感激する確立は低いことを知ってしまった。
もちろん時と場合によってはそれにかけるということもあるが、徐々に建築の場合もサティスファイザーに向かっているようだ。
もちろんどちらがいいと言う話では無いのだが、マキシマイザ―の方が一般的に後悔する確率は高いらしい(サティスファイザーは能天気だとも言えるのだが)。
ネット社会に育った若者は自分の能力を見誤る
佐々木敦『未知との遭遇―無限のセカイと有限のワタシ』筑摩書房2011の中で著者は学生から「テクノに興味があるけれど何を何処まで聞けば極めたことになるのか」というような質問を受けると書いている。これを読んでああ同じことが僕にもあると思った「建築意匠をやりたいのですがどんな本を読んだらよいのでしょうか」という質問である。
佐々木も言う通り僕も学生時代にそういう疑問を持ったことは一切ない。というのは何故かと言えば佐々木の場合はあるミュージシャンを極めようとしても売っているレコードなんて限られていた。僕で言えば売っている、あるいは借りられる大事な意匠の本なんてせいぜい50冊も無かった。そんなもんである。
ところが世の中にgoogleが登場したおかげで聞ける音楽も本も動画もある時突然無限になった(なりそうだ)。その状況に直面した学生は突如自分がとてつもなく有限なモノに感じられる。というのが佐々木の分析である。それゆえ無限のセカイに対する有限のワタシを過小評価してしまう風潮が生まれた。そうなるともう無限のセカイに正攻法で攻めるなんて馬鹿なことはしなくなる。一番おいしいところを誰かに聞いて食ったもの勝ちというわけだ。
さてこれが正しいことなのか?と思わず唸る。多分半分正しいのだろう。でも無限のセカイにたいする自分を相対的に無力と思うことは実はあまり意味が無い。何故か?そんなこと言ったら世界中のすべての人が無力になってしまうからだ。1995年人間は突如無力に成ったわけがない。もしそうなら、古来人間は無力と言うことになる。しかし事実は違う。
つまり有限な人間が無限なふりをして頑張ってきたのである。ネットは無尽蔵なエネルギーを我々に与えるツールに過ぎない。そして結局有限な人間が精一杯頑張って獲得した程度のものでセカイを見渡し何かを発言することで十分なのである。この「十分」というのがとても重要である。決してそれは「完璧」ではない。でも「完璧」である必要性が無いのである。それは人間がそもそもいい加減な存在だからだ。
しかし「十分」ではなく「完璧」が求められていると信じてしまうと急に自分を過小評価してしまう。「十分」以上のことがセカイを動かすと思っている人がいるとすれば、その人たちの考えはとりあえず2012年においては誤りである。後50年もすればそれが正しくなるかもしれないが、少なくとも現在学生である君達にとっては誤りである。君達は有限な力で把握できることをもとに発言する権利を持っている。そしてそれで十分なのである。
北京故宮博物院展を見に行った
黄庭堅の自由な書
昨日から頭を使おうと講義パワポの改訂を始める。7回分の手直し。昨年一つ直し、昨日半分直し、今日1.5個直した。でも未だ4つ残る。午後事務所に行って少し打合せ。スタッフのS君は元旦以外出ずっぱり。一年目で図面全部1人で描けば力がつく。がんばれ。
夕方かみさんと国立博物館に行く。ベイフツというけったいな名前の書家の書を見たかった。ベイフツとは北宋時代の4大書家の1人。最近かみさんがこの書を参考にしている。しかし行ってみたら4大書家の別の一人黄庭堅の方が魅力的。ベイフツは固い。黄庭堅は自由である。
ところでこの展覧会はこんなの見るためにあるのではなくもっと超ビッグな展示物があった。それは清明上河図(せいめいじょうかず)と呼ばれる、やはり北宋時代の絵巻物。長さ5メートルほどのもの。待ち時間2時間と言われたが並んでみたら30分。なぜこれがそんな凄いものかと言うと
① とんでもなく細かい描写でまるでロットリングで描いたかのように見事な技術
② これまでに50の写本がありそれが世界中の有名美術館に所蔵されている
③ この本物は北京の故宮でさえ常に展示されているわけではない
④ 中国人の殆どがこの名を知っている
等の理由から中国文化ファンにはとんでもないレアものなのだそうだ。という知識は並んでいる間に読んだ野嶋剛『謎の名画清明上河図―北京故宮の至宝、その真実』勉誠出版2012に書いてあった。それで実際に見て見たが私にはその凄さはまだよく分からない。もちろん細かい描写テクニックは秀逸だが今日見た中にも同様な筆法の絵画もあったようである。
エネルギーを選ぶ時代
NHKスペシャル「日本新生」取材班『総力取材エネルギーを選ぶ時代は来るのか』NHK出版新書2011を読むと日本で自然エネルギーがなかなか作られてこない原因の大半は既存電力会社に課せられた電力安定供給の義務とその義務に胡坐をかいた怠慢によるものと理解される。
まあ結局義務と怠慢と言ってもそれを全体でコンとローする法律のメカニズムがよく考えられていないと言うのが結論ではなかろうか?となればそれは役所の知恵不足でありさっさと法律を改正し電力会社が正常な方向へ進むように考えて欲しいものだ。
この本には自然エネルギーへの転換に成功している例としてスペインとスウェーデンがあげられる。日本が自然エネルギー発電が1%程度しか確立できていない現在。スペインでは既に風力水力だけで30%近くの電気を生みだしている。これが可能となったのは自然エネルギーで生み出された電気が「固定価格」で買い取られているからだ。因みに日本はこの部分を法律で競争させている。売りたい事業者多に対し買い取り量小なので価格が下がり事業性が著しく悪い。
またスウェーデンでは電気を火力1KWいくら水力いくら風力いくらという具合に売っている。まるで水のようだ。エビアンいくら、ペリエいくらというように。好きな電気を好きなように買えるシステムを持っている。これは企業としては大きな宣伝効果を持っており、あるハンバーガー屋さんは自然エネルギー電気だけでハンバーガーを作ったら爆発的に売れたとのこと。もちろん自然電気は若干高いのだがこのように回収可能なのである。
もはや電力会社が国有化された日本では本格的にそのメリットを生かして欲しい。自然エネルギーを選択するのはもはや必然でありそのロードマップをつくるのが経産省の義務ではないか?そしてそれをできる状態にやっとなったはずである。