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May 2012

建築もモードだな

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by 卓 坂牛


連日現場。今日は野木。階段手すりのモックアップを見る。なんだか凄い鉄の塊。
往復の車中でモードの本を拾い読み。井上俊編『ポピュラー文化』世界思想社2009:ジンメル曰く「流行とは与えられた凡例の模倣」。ロラン・バルト山田登世子訳『ロラン・バルトモード論集』ちくま学芸文庫2011、バルト曰く「モードとは定期的に現れる新作の集団的模倣」鷲田清一『ちぐはくな身体』ちくま文庫2005。鷲田曰く「モードと言う制度」は「流行の人間イメージを振りまいては季節ごとにそれを取り換える」こと。
モードの定義はかくの如しだがでは何故流行が現れるのか?ジンメル曰く「社会への依存の欲求を満足させる」「大衆行動は羞恥感を解消してくれる」というわけだ。しかし人と同じになりたい欲求と同時に人と同じになりたくないというもう一つの欲求も忘れることはできない。二つの本能的欲求のいたちごっこがモードを生みだしているはずである。
建築も含めておよと作ると言う行為はすべてそんなものである。

いつか原宿に住みたい

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by 卓 坂牛


午前中水戸の現場へ。松の木の脇にある井戸をお清めして埋める。巨大な丸いレンガで組み上げられた井戸には歴史を感じる。きちんと清めないとばちがあたりそうである。この丸穴を除いていると村上春樹『ねじまき鳥のクロニクル』を思い出す。落ちれば異空間に誘われるあの井戸である。
現場往復のフレッシュひたちで高橋靖子『高橋靖子表参道のヤッコさん』河出文庫2012を読む。表参道のセントラルアパートでスタイリストとして活躍した高橋さんの原宿物語りである。セントラルアパートは表参道と明治通りの交差点、今のGAPの場所に建っていたクリエーターの溜まり場。僕が学生時代は現役。90年代の中ごろ壊された。あのアパートや表参道ヒルズの場所に建っていた同潤会はそれこそ井戸のような場所だった、一歩入りこむと半世紀前の世界に引き込まれるようなところ。同潤会では配偶者が友人とアートスクールをやっていたのでよく遊びに行ったものだ。もう一戸空いていいたら絶対住んでいたと思う。そんな二つの建物が消えた表参道は少々魅力が減ったとはいえ。それでも未だに僕はいつの日か原宿に住みたいと思っている。

thinkers for architectsというシリーズ本

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by 卓 坂牛


Thinkers for Architects と言うシリーズ本がある。出版社はイギリスのRoutledge。内容は建築家に影響を与えた思想家の言説分析であり、それに影響を受けた建築家分析である。このシリーズ結構いろいろあって、最初に出たのが、ドゥルーズ&ガタリ、ハイデガー、イリガライ。それに続いて、ガダマー、デリダ、メルロ・ポンティー、カント、フーコー。
今日ハイデガーが届いたので内容を見ると、まあ言説分析は有名な3冊の本が対象。一方彼に最も影響を受けた建築家として分析されているのはズントー、次がシャローンである。なるほどこの部分は結構楽しい。他のシリーズも買ってみたい。
学生向けのこの本は英語がかなり平易でこの手のことを身につけたければ日本語より確実に楽に習得できそうである。英語得意な人ならお勧めである。

「ざっくり」は湘南連合体の共有価値

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by 卓 坂牛


湘南ライナーで鎌倉へ向かう。車中で見田宗介と大澤真幸の対談を読む。その中に社会形式の4分類と言うのが登場する。横軸に個人の顔が見えるゲマインシャフト的な社会⇔近代化され脱人格的なゲゼルシャフト社会。縦軸に意志以前の関係⇔自由な意志による関係性のとると四つの場所ができる。
① 意志以前の顔の見える社会。これが共同体(community)
② 自由意志で顔の見える社会。これが交響体(symphonisity)
③ 意志以前の顔の見えない社会。これは集列体(seriality)
④ 自由意思で顔の見えない社会。これは連合体(association)
見田さんはゲマインシャフト(顔の見える)かゲゼルシャフト(顔が見えない)かはさほど問題ではなく、自由意思で自覚的に作り上げることが重要だと言う。つまり交響体や連合体を重視する。確かに我々の地域社会がディープに人格に食い込んだ関係の網目の上に作られることは考えにくい。とは言えゲマインシャフト的な共有価値(shared value)で社会が下支えされている必要はあるだろうと説く。
1時間こんな話を読みながら鎌倉についてタクシーで材木座に向かう。海岸近くには沢山のサーファーがいてカフェでお茶をしている。海沿いの建物と言うのはなんとなくざっくりと「海の家」と言う風情である。そんな海を通り過ぎ材木座の裏山を少し登ったところに柳澤邸が現れる。斜面に半分食い込んだ3層の家。中に入ると広がる海の景色。夕日が海に沈むのだそうだ。ウインドやヨットの帆が沢山見える。バルコニーに出ると潮風が気持ちいい。斜面の下から見た時はこんなガラス張りでは暑いだろうなあと思ったが、中に入るとこれをガラス張りにしないことは考えられないし、バルコニーをつけないことも考えられない。
外壁はセメント板にランデックス。バルコニーはラワンにキシラデコールもうとてもざっくりとしている。そうださっきの「海の家」のあの感じである。この辺りに建物を作ると言うことはこういうことなのだろう。「海の家」なのである。あえてこの辺りの共有価値と言うまでもないのだろうがでも自然な建築作法なのではなかろうか。柳澤を始め湘南で若き日を過ごした建築家たちがザックとした建築を好んで作る理由がなんとなく理解できる。もちろんこれだけが理由ではないのだろうが。彼らにとって海は切っても切れない建築の源泉。「ざっくり」は湘南連合体の共有価値である。

三代目の建築

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by 卓 坂牛


今日は親父の家の地鎮祭。雨が降ったら中止の予定だったが快晴で無事開催。アルゼンチンの新聞記者ミゲルはこのプロジェクトを気にいっていた。コンセプトがうまく表現されていると言う。ボルヘスのアレフ、村上春樹の井戸を作りたいと言えば確かにこの建物はそれに近いかもしれない。
現地への行き帰りに見田宗介、大澤真幸『二千年紀の社会と思想』太田出版2012を読む。管が脱原発を明確に打ち出した時なぜ日本人はそれを全面的に支持しなかったのか?結局日本人の原発反対派の多くは原発がある限りでの脱原発論者、成長日本を前提にしているのではないか?と指摘する。
日本人は現在0から頑張った一代目の結果を更に成長させた二代目から三代へ代替わりする時期であると説く。全く同じことを先日読んでいた柄谷も言っていた。自然エネルギーと言って騒ぐ輩も結局金儲けのため、もっと根本的に成長し終わった成熟社会日本のあるべき像を議論すべきと嘆く。
そんな三代目の建築とは何だろうか?

ショックで熱が出てきた

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by 卓 坂牛

母校の同窓会館のコンペ結果が夜遅く届いた。結果は惨敗。川村純一さんが当選。負けるのならこの案だろうなあと思っていたらその案に負けた。でも選評を見るとどうもわれらの案の評価は一つも書かれてなかったので川村さんがいなくても負けたのだろう。
コンペ案制作中に伊礼智さんと会った時「その審査委員ならまじめにやらないとだめですね」と言われたのを思い出した。我々の案はもちろん真面目だが彼の言う意味での真面目ではないのは分かっていた。そうは言っても審査委員によって案を変えられるほど器用ではない。結局僕らのラブレターは届かなかったということである。
うーんショックで熱が出てきた。

消費社会の反抗者

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by 卓 坂牛

昨日柄谷の政治論読んで「デモをせよ」という言葉に引きずられ五野井郁夫『デモとは何か』NHKブックス2012を読む。現代が世界的なデモの時代という認識があり、そして日本のデモ史が語られる。そして80年代(バブルの時代)には中曽根内閣が国鉄などの民営化を進める中で労働組合を弱体化させ、その結果としてデモを支援していた社会党を骨抜きにした。社会はバブルで浮かれ相対的に世の中の不満も減っているかに見えた時代である。その中でしかし、世の中にモノ申す人たちがいたというのが著者の認識である。消費社会の反抗者は例えば川久保令だという。
80年代に学生だった私にはとてもじゃないけれど彼女が同じ視線を持った反抗者とは思えない。でも彼女のスタート地点にそういう考え方はあったのかもしれない。彼女がスタートしたのは1968年だったのだから。
そう言われるとその頃の建築界の反抗者とはだれなのだろうか?と思わず考え込む。皆バブリーなポストモダンに回収されてしまったのだろうか?

デモをしよう

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by 卓 坂牛


今日は一転して夏の陽気。現場は季節外れの鶯が鳴いている。現場の往復で柄谷行人『政治と思想1960-2011』平凡社2012を読む。社会主義は倫理の問題だという言葉は目から鱗。マルキストを父に持った私は幼少のころから資本主義はオートマティックに社会主義に移行すると教わったものである。もちろんそうならなかったことは歴史の示す通りだけれど、社会主義は倫理の問題だと言われれば再度、社会(民主)主義への道は再考に値する気になる。さらに柄谷がこの本の中で強く主張しているのは「デモをせよ」である。
議会制民主主義においてはデモ(民衆の率直な意思表示)無くして政治はダメになるという彼の主張はその通りだと思う。アルゼンチンではデモは道路を練り歩くことを認められている。前に行った時も市内観光バスがデモで立ち往生して全く予定外のルートを通り降ろされた。でも誰も文句言わない。むしろデモやっている人に「がんばれー」なんて応援したりする。「こんなデモを認める政府は馬鹿なもんだ」と知人は言っていたが僕はそうは思わない。実に健全な国だと思った。
日本人も何かを率直に過激ではなく、暴力的ではなく主張すると言う健全性があるべきだと思う。そんな各自の倫理性が政治を作りだすべきだと思う。「世の中こうなっているのよ」と訳知り顔で言う輩はさっさと退場した方がいい。

素直に生きよ

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by 卓 坂牛

4年生前期の製図課題が終わってとある学生と話をした。就職の内定を3つもらって考え中とのこと。聞いて見るとその3つとは中堅ゼネコン、マンション管理会社、もう一つは忘れてしまった。それで君は何したいのと聞くと設計をしたいという。それで何処行くつもりと聞くと3つの中からマンション管理会社を選ぶという。その理由はユーザーの視点で建築を学べるからという。
うーんこれには唸ってしまった。最もユーザーに近い観点でマンションを学びたければマンションに住んで理事会の理事にでもなればいい。マンションの理事は成り手がいなくて困っているのだから。そこで議論する内容こそがマンション管理会社の仕事である。それ以上でも以下でもない。
ゼネコンも設計で入らないなら現場監督である。そしてもう一社は忘れたが、彼の論理に則れば、もちろんどれもが設計に役立つものである。でもそんな遠回りをして設計にたどり着かなくたっていいのではと溜息がでる。どうして設計したいならストレートに設計事務所を探さないのだろうか?もちろん事務所入ってついていけなくて止めた学生はいる。でも後悔したと言う話はあまり聞かない。逆に設計したくてゼネコンやデベ行って後悔している人間は沢山知っている。
一回の人生、素直に生きた方がいい。

GOTAN project かっこいい

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by 卓 坂牛

土日仕事で月曜朝から会議はへばる。午後は他大からの院進学希望者と面接。その後溜まったメールの返事を書き、雑務をこなすべく学内に電話をし、夕方ゼミ。昼働いているので進捗はそれなりなのだが頑張って欲しい。僕のアメリカ時代も社会人がいて彼らも進捗は遅かったが的確に着実に前進していた。ゼミ後講義。今日はだいぶ学生が少ないようだが、、、、終わってさっさと帰宅。今日は疲れた、、、、
最近帰るといつも聞く曲がgotan projectこれはtangoをもじった命名である。彼らは伝統的なタンゴミュージックを現代的にアレンジしている。BAで見たタンゴショーでは最後の方でこんな現代的な音が鳴っていた。
http://www.gotanproject.com/