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Jul 2012

非日本を生きる

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by 卓 坂牛

室謙二の『非アメリカを生きる―<複数文化>の国で』岩波新書2012を読んでいたら『非ユダヤ的ユダヤ人』という本が紹介されていた。トロツキー、フロイト、マルクスなどなどユダヤ人の境界を超えたユダヤ人らしからぬ人も、ユダヤ人のアイデンティティを作っているという話のようである。
著者は日本人としてアメリカ人の市民権をもちユダヤ人であるアメリカ人と結婚してアメリカで生きながら自分を非アメリカと感じている。そしてアメリカにはそういう非アメリカが沢山あるという。
おそらく日本は世界の中ではそういう状況が少ない国の一つなのだと思う。僕は比較的非日本だなどと思っていても、それでもユダヤやアメリカの状況と比べればはるかにピュアに日本である。ではあるのだが、建築の作り方としては常に非日本でありたいなと思っているし、政治的にも文化的にも非日本であれればなと思っている。これは決してかみさんのやっている書道を否定することではないし、日本食を食べないということではない。自分の属するものをちょっと引いて見られるもう一人の自分を常に持っていたいということである。

飛田新地の謎を解く

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by 卓 坂牛

その昔僕は日建の組合中央執行委員をしていた。大阪、名古屋、東京で年数回中央執行員会を行い終ると飲みに行くのが慣例で各支部がその宴をセットした。ある年の大阪のそれは「鯛よし百番」という割烹で行われた。有名な飛田新地の端っこに位置しており、宴会の後、飛田遊郭の残滓を垣間見た。凄い場所があるものだと記憶の片隅に残っていたので本屋で井上理津子『さいごの色街飛田』筑摩書房2011を見つけ、12年かけたルポを迷わず買って読んでみた。
ここはいわゆる花街だが1912年に焼失した遊郭「難波新地乙部」の代替地として設置されたもので芸妓はほとんどいない、娼妓ばかりの街である。その数昭和初期で2000人を超えたと書かれている。同じ時期同じ花街(こちらは芸妓専門だが)である神楽坂で600人ちょっと、荒木町で200人ちょっとだった。飛田がいかに巨大であったかよく分かる。それにしてもそれ以来戦後の売春防止法以降も昔ながらのシステムと街並みを残しているのには驚かされる。ここは関係者が決してそのことに深く触れない暗黙のルールがある場所のようであり、写真も撮ってはいけないのである。このルポにも下の一枚を除いて写真は載っていない(この写真も著者撮影ではない)。
しかしグーグルアースにはうつしだされるのが少々不思議ではある。

●白い看板にお店の名前が書かれているこの写真は店名を消していると思われる。

坂本一成研同窓会

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by 卓 坂牛


坂本一成同窓会はいつも先生の誕生日を祝い、7月に行う。ちなみにその名を「例の会」と言う。その由来は知らない。名簿を見るとOBはムサビ時代東工大時代をあわせて300人強?出席者は100人くらい。場所は先生設計の同窓会館。自分で設計したところでこう言う会ができるって羨ましい限り。
先生も60代最後というが若々しい。最近作の図面や模型、コンペ案、それから展覧会の様子などパワポで報告。加えて塚本さん達と一緒に出した構成の本の解説と案内があった。
二次会は同窓会館はす向かいの庄屋で。先生と並んで話をする。9月に行う東南大、同済大でのレクチャーの話などすると、「彼らはまだ欧米が先生で少し硬いけれどレベルは凄く高いのでそのつもりで話した方がいい」とアドバイスを頂く。

東工大の3年生

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by 卓 坂牛



東工大3年生の講評会に呼ばれる。数年前も見せてもらった。その時は安田先生が担当。今年は奥山先生担当で非常勤は意匠が鹿島デザインの北さん。構造が金箱さん。課題は東京タワーの足元に1000人が集う場所を作れというもの。なかなか難しい課題だし、最終形は構造の1/100模型を作らせる。
ゲストできたのは金箱事務所OBの木下さん鹿島デザインの辺見さん、松岡さん、そして僕。常勤は担当の奥山先生、塩崎先生、そして塚本先生、安田先生、構造の竹内先生、松井先生も来た。つまり東工大OBだけで12人。そして竹中の萩原さんもやってきた。13人のプロが見るなかでの発表である。
いやなかなかどうして20人の発表者の半分以上は見どころあり。しかし母校だと思うとこちらも歯に衣着せぬしゃべりになる。北さんも金箱さんもガンガン言う。塚本さん、安田さんなんか「図面になってない」とまるで一年生に言うようなことをさんざん言っていた。挙句の果てに、ゲストは甘過ぎといさめられる始末。
まあ確かにひどい図面も結構あるけれど、どう厳しく見てもわが校の図面よりはまし。やはり教育だなこれは、少々反省してもっと厳しく図面書かせないと。

80年代の建築を見る視座

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by 卓 坂牛

ロザリンド・H・ウィリアムズ(Williams, H. R吉田紀子+田村真理訳『夢の消費革命―パリ万博と大衆消費の興隆』(1982 )1996を読む。原題はMass Consumption in Late Nineteenth-Century Franceなので大衆消費というよりは大量消費と言う気もするが、果たして十九世紀後半フランス(パリ)における華やかな消費がどの程度大衆のものであったのかはこの本だけではよく分からない。早稲田で建築の消費性という講義をする時はやはりボンマルシェ(19世紀半ば)を話題にはするものの大衆が生まれたのは20世紀初頭のアメリカだと話をしている。
パリのデパートが初めて定価と言う概念を作りだし、それによって人々は買わなくても適当に商品を見て回る楽しさを覚えた。そしてパリの万博が初めて商品に値札をつけて売りはじめた。消費というものが生活の付加価値を伴う文化的行動に繋がる契機だった。
この本では最初の僅かな部分だが、ルネサンスからルイ王朝への連続の中に消費文化の始まりを見ている。17~18世紀のバブル消費である。建築的にはそれと似たようなことが1980年代に起こった。だいたいこのバブル現象はいつでもいいものと思われない。ふまじめなものとして捨て去られることが多い。しかしバロックも200年以上たってやっとヴェルフリンに客観的評価を与えられた。80年代バブル・ポストモダンもじゅっぱひとからげに×をつけるのではなく、正確な分類と評価をすべきだと思っている。そのためにも消費の構造を歴史的にきちんと位置付けないといけないだろう。

この工事のスピードは一体なんだ!!

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by 卓 坂牛


●カットTの垂木の間にグラスウールボードをはめ込んで構造をリブのように見せた天井
今日はまた一段と暑い。こんな暑い日に朝ジョギングするのも馬鹿かという気もするが、公園ではラジオ体操しているし、まあ早起きして運動するのは悪くない。飯食ってシャワー浴びて、ちょっと英語読んで、頭も体も覚醒してからさあ出陣と家を出る。しかし今日はいかん。余りの暑さにドアを開けた瞬間元気がなえた。
野木の現場は最後の追い込み。凄いスピードで工事が進む。4棟のうち最後の一棟は鉄骨造で建て方してから1カ月ちょっとでほぼ90%の状態になった。先週の定例ではまだ外装塗装も終わってないし、足場もあったのが今日行ったら足場もばれている。この速さはなんだろね?結局内装、設備、塗装が全部一度に現場に入っているからこなせたということである。一般にこういうことは混乱を招くし、仕事が雑になるのでのでやらない。しかし今回はとにかくそうしないと終わらないのでなんとかそれをやりとおしたと言うことである。
それにしてもこういう経験を一度見てしまうとできないことは無いと言う変な自信がついてしまうから危険である。これはあくまで例外と思わないと。現場の所長以下寝ずにやっているという感じである。連日最後の設備屋さんが帰るのは12時くらいだそうだ。まあ12時程度なら我々の業種ではあたりまえだけれど、肉体労働の方々がそういう状態だとちょっと危険である。気分が悪くなって帰る人も結構いると聞いた。残り2週間くらい。暑い日が減りますように。

4年の講評会

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by 卓 坂牛


講評会シリーズも2週目。今日は理科大二部4年生。30名近い作品が並ぶ。去年よりは少し作れるようになってきただろうか??今年は4つのテーマを与えてそれを伸ばすように勧めた。建築論、コンテクスト、エンジニアリング、プログラム。これによって少しテーマの幅が広がったのだが、突っ込みがまだ浅い。これは指導する側の問題もあるかもしれないけれど、やはり本人の自覚がなにより必要である。
4年の製図は一部二部の常勤教員全員で見る。宇野、郷田、伊藤裕久、稲坂、青木、山名、坂牛、呉、金子、天内。なかなかこうやって名前をあげると沢山いる。とはいえコアは二部教員。そしてこれが卒業設計の土台になる。プレディプロマである。今日はある意味中間発表。これが年末花開くように頑張ってほしい。

武道館で発見を!

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by 卓 坂牛

意匠論の最後の講義はレポートの出題をして終り。昨日から何をレポートしてもらおうか考えた。拙著『建築の規則』ナカニシヤ出版2008を教科書にしているのでレポートは何か建築を選んで批評してもらうのだが、では何を?
批評と言っても学部3年生に高邁な思想を語っていただいてもこちらは疲れるだけそうなのですごーい現代名建築を選んでも間違いそうである。もっと身近などこにでもある建築を観察してどこにでもなさそうなことを発見して欲しいと思うわけである。
そこで最初に頭に浮かんだのは「自分の住まい」。しかしそれだとよほど素晴らしい文章を書いてくれないとこちらは何も分かりそうもない。
次に浮かんだのは理科大九段校舎。これは結構いけると思った。でもここはさすがに僕も連日使っている建物だから微に入り細にわたり知っている。彼らの発見が新鮮に映らない可能性もある。
「うーん」研究室で外を見ていると正面に靖国の鳥居、目を左に転じると「あった。武道館。これにしよう」。ネット情報禁止、図面や山田守の他の作品の図版は本のコピーのみ許可。他の図版は全て自ら出向いて自ら撮った写真のみ許可。山田守解説書や雑誌の説明などには絶対に書いていないようなことを自ら発見してきて下さいと課題説明。
さてどんな答えが出てくるか?面白い発見を伝えてくれたらそのレポート持って僕も見に行こう。

68年はポストモダニズムにつながる

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by 卓 坂牛


やっと解放された一日。ノルベルト・フライ(Frei, N)下田由一訳『1968年―反乱のグローバリズム』(2008 )2012みすず書房を読む。68年と言えば5月革命と条件反射のように覚えていた僕にはその始まりがアメリカであったと言う事実が新鮮である。アメリカでは人種差別とベトナム戦争、パリでは大学に端を発する権力への反逆、ドイツではファシズムに加担した世代への抵抗、日本もパリに近い、いずれにしても、戦後近代の第二の波に覆い尽くされまいといする若者を中心とした抵抗の嵐が60年代の最後に世界中で吹き荒れたわけである。
68年と言えば、当時の世界の建築を記したのは磯崎新の『建築の解体』である。磯崎はこの書を含め、68年を世界のラディカリズムのピークとして位置づけその後70年代、80年代を飛び越えて68年は89年に接続すると記している。
しかし僕にはどうしてもそうは思えない。その理由は80年代に大学時代を過ごしたことへの郷愁などではない。そもそも歴史の20年に意味がないと言うことはあり得ないと思うからである。68年にUFOでも飛来して世界の人間から脳ミソをすべて抜き取ってしまったのならいざ知らず、同じ人間が知的活動を継続している20年間が意味を帯びないと言うことは原理的にあり得ない。
68年が近代への抵抗への嵐であるならば、必ずやその流れが70年代のポストモダニズムの準備へつながり、80年代のバブルへ接続することになっているはずなのである。よく見れば、『建築の解体』にはロバート・ヴェンチューリもチャールズ・ムーアも載っているのである。そしてムーアは昨今、現象学がポストモダニズムに与えた影響分析対象の一人でもある。
歴史的事象は突如天から降ってきたようにおこるのではない。その準備は常にされている。最近ますます感ずることである。

いい建築も伝え方一つでダメになる

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by 卓 坂牛


魔の一週間最後の一日。今週は魔の講評会連ちゃんで夜は毎日懇親会。相手は毎日違えどこちらは体一つ。もう持たない。
今日は一部、二部同日開催の合評会。一つの部屋でやろうとすると数百人になり入りきらないので一部と二部は別室で開催。時間も少しずらしたので一部の発表会も見に行けた。2年生の最後と3年生のほぼ全部を見た。なかなかパワポだけだとなにを言っているのか分からないのが残念である。2年生は住宅課題で場所は神楽坂。2年生にしてはいろいろ考えていそうだが、なにせプレゼンが今一つ。逆に3年生はプレゼンが大分上手いのだが、案のデヴェロップがまだできていない。コンセプチャルな造り方は二部より上手だが形の操作は二部の方がはるかに上手。これはまあ4年生になって研究室配属されてもそうなのだが。
4時から二部の合評会。こちらはゲストクリティークにキドサキナギサさんと寶神尚史さんをお呼びしての2年、3年の発表。一部の後で見ると、デザインは上手いのだがトークがダメである。もう少し上手に自分の作品を語れないと結局建築は相手に伝わらない。キドサキさんも同じことを言っていた。